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翌朝、安宿の寝台で目を覚ましたリュイは、天井をじっと見据えつつ、すっきり冴えた頭で意を決した。
まっすぐに尋ねてみよう……
ティセは起きてすぐ厨房へ行った。機嫌を損ねていても、日課どおり毎朝白湯を淹れてくれるのだ。
リュイは寝台に腰かけて、ティセが戻ってくるのを神妙に待っていた。果たして、正直なところを訊かせてもらえるだろうかと、不安に思いながら。
まもなく、左手にある部屋の扉が開いた。ふたつの湯呑みの取っ手を片手で器用に持って、ティセは静かに戻ってきた。湯気がもわもわと立ち上っている。リュイの右手のほうには窓があり、その下に小机が置かれている。ティセはそこへ湯呑みを置くためにそうっと近寄っていく。部屋の中央まで来たところで、リュイは寝台からすっと腰を上げた。
「ティセ」
びくりとしたように、ティセは足を止めた。ほんのわずかにこちらに首を向けたが、やはりうつむき加減で、顔をしっかり見ようとはしない。硬い声で小さく返事をした。
「な、なに……?」
リュイはまっすぐにその横顔を見て、率直に問うた。
「なにか怒っているのか……?」
「え……」
ティセは右手の湯呑みに目を向けたまま、口籠もった。
「このところ、いつもと様子が違うから……」
「……そんなことないよ……」
と言いつつうつむいたままだ。やはり教えてはもらえないのだろうか、リュイは不安を募らせる。横顔をいっそう真剣に見つめ、
「……僕はなにか気に障るようなことをした?」
「…………なにもないよ……」
「なにを怒っているのか、教えてほしい……」
「…………」
問えば問うほど、ティセは萎縮していくようだった。声も顔つきも、ますます強張っていく。すぐに答えてくれなくなった。これ以上どう尋ねればいいのかさっぱり分からず、リュイはあっという間にお手上げになった。ふたりはそのまま立ちつくした。湯呑みから立ち上る湯気が、緊張したふたりの間をほわほわと漂った。
やがて、ティセは下を向いたまま小さく返事をした。
「……なにも怒ってないよ」
「それなら、何故いつも目を逸らしているの?」
心当たりがあるのだろう、ティセは震えるような瞬きをした。その黒い瞳をじっと見据えて回答を待つ。と、ティセの頬は何故かみるみるうちに赤く染まっていく。気のせいか瞳も潤んでいく。リュイは頭のなかに疑問符をたくさん浮かべた。
「……あの……」
ようやくといったふうにティセは口を開き、か細い声でなにか言いかけた。そして、わずかに顔を上げ、こちらに目を向けようとした。その拍子に手元がぶれて、まだ熱い白湯を右手に零してしまう。
「熱っつ……!!」
するとますます盛大に湯が零れ、ついに湯呑みを手から離した。カランカラン、と音を立てて湯呑みは落ちて、床の上に湯が飛び散った。ティセは熱さに顔を歪めている。
「ティセ!」
リュイは咄嗟に、火傷を負ったかもしれない右手を確かめるため、ティセの右腕を取ろうと手を伸ばし――――……寸前でその手を止めた。嵐の日、ティセに手を引かれた、あの息の詰まるような一瞬が頭を過ぎったからだ。ティセはティセで、触れられそうになった右手をびくりとさせて、驚いたように目を開いて固まった。
「…………」
触れられずに硬直したリュイの右手と、触れられてもいないのに硬直したティセの右手が、至近距離で宙に留まった。ふたつの手は、目に見えるほどの不自然さを色濃く漂わせている。いまふたりの間にある隔たりをそのまま表している。
何故触れられずにいるのか…………お互い口には決して出さないけれど、ふたりはその原因を熟知している。そのうえ、相手もそれを気にしているだろうことを、なんとなくでも気づいている。黙っていても、嵐の日の一連が頭の隅にこびりついていて、拘泥せずにはいられないと本当は分かっている。リュイはどうしようもなく居たたまれない気持になった。戸惑いたっぷりの顔つきをしているティセを見れば、同じくらい居心地を悪くしているのは間違いない。部屋はシンと静まりかえった。
厭な空気をしこたま味わったのち、リュイはようやく言った。
「……大丈夫か、火傷しなかった?」
ティセは、笑いたいのか泣きたいのかどちらにも取れるような曖昧な表情を浮かべ、
「うん、大丈夫……。いちおう冷やしてくるね」
赤くなった右手の甲を見ながら、そそくさと部屋を出て行った。
パタパタという足音が遠ざかっていくのを、リュイは立ちつくしたまま聞いていた。床に転がるふたつのアルミの湯呑みと、目地に吸い込まれて半分になった白湯の残りを見つめていた。息苦しいほどのやるせなさで、胸はいっぱいだ。
同時に、ひどく悔いていた。朝いちばんにこんなことを尋ねようと何故考えたのか……甚だ愚かだったと、自分をおおいに非難した。もしも就寝前であったなら、眠りと時間がこの厭な空気を拭っただろう。これからこの居心地の悪さを引き摺って、今日一日を過ごさなければならない。溜め息も出ないほどに……苦しい。
怖れていたとおり、ティセはなにも教えてはくれなかった。尋ねても答えないのだから、もうこれ以上為す術がない。リュイはただ、口にしたくもないほど不愉快なことを知らぬ間にしてしまったようだ、との思いを強くしただけだった。頬を紅潮させていたのも、瞳を潤ませていたのも、憤りによる興奮のためなのだろう。ティセが許す気になるまで、口を閉ざして静かに待つ…………そうすることしかもはやできない。
この朝、白湯はもう用意されなかった。ティセの用意する白湯が、リュイの安らぎや愉しみであればこそ、それがふいに失われてしまったこのできごとは、まるで暗い影の差す徴し――――……この先ふたりの関係が失われるのを暗示しているかのように思えてならなかった。リュイは胸に不安の靄が濃く立ち込めていくのを感じていた。
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