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先ほど乗船した行商の老婦たちが、しわがれた声を合わせて陽気に歌っている。田植え歌、紡ぎ歌、手まり歌……一曲終われば誰からともなく次の歌が口ずさまれて、合唱と手拍子は延々と続いていく。静かだった船の上は途端に明るく賑やかになった。とくに座席を設けてはいないため、乗客は思い思いの場所に座り込むか、あるいは横になって寛いでいる。リュイは艫に近い場所を定位置にし、老婦の合唱を背景に、ティセとほかの乗客が世間話する姿を眺めたり、本を読んだりして過ごしていた。
区切りのいいところまで読み終えて、少し疲れた目を休めようと、リュイは川岸を見遣った。船には屋根がついているものの東屋ふうに壁はない、川風が船上を自由に吹き抜けて、さわやかに頬を撫でていった。
シュウ南部にあるとはいえそれなりに標高の高いカウゼンでは、秋が深まりゆくのを日毎実感していた。けれど、こうしてさらに南へ向かっていると、まるで季節の移ろいが止まったように感じられる。むしろ反対に、少しずつ夏へと戻っていく気さえする。下れば下るほど、川辺の風景――――植生や集落の様子、そしてひとびとの気質などが、開放的な南の雰囲気を濃くしていくのだった。今朝から、川沿いに椰子の木がちらほらと見えるようになった。バンダルバードに辿り着けば、そこには道沿いに椰子の木が立ち並んでいる港湾地区がある。そのひょろりとしたおかしな樹を、かつて不思議な気持で眺めたことがあったのをリュイは思い出していた。
川辺で鬼ごっこをする子供たちや、陸釣りをする男たちのなかには、夏のように薄着でいる者も見える。シュウ本土最南端にほど近いこの辺りでは、一等寒い時季を迎えても厚手の外套は要らず、ちょっと羽織るものでもあれば充分なのだ。
北部はいま、どんなふうだろうか――――……リュイはふと故郷を思う。この時季ならもうだいぶ空気は冷たくて、とくに早朝の張りつめかたは、冬のそれと変わらないほどだろう。朝、顔を洗う水の冷たさに、目も頭も一瞬で覚めたものだった。日中の空は、ほかのどの国で見るよりも高く澄み渡り、突き抜けるように青い。そして、畑の畝には秋蒔きの小麦が若い芽を出して、震えるように風にそよいでいた。その明るい黄緑色は、生家に立つ沙羅樹の常緑の深緑と、とても対照的だったのを覚えている。雪はごく稀にしか降らないが、冷涼な北部の地ではそこにあるすべてのものが静かに張りつめて目に映った。
反対に、本土最南端に近いこの辺りでは、目に映るすべてのものが生温かな空気にふやけて、弛んでいるように思える。しっとりと肌にまとわりつくわずかな湿気や、生命あるものが放つ匂いや騒がしさが始終漂っているようで、よく言えば活き活きとして賑やかであり、悪く言えば落ち着きに欠けてなんとなく鬱陶しい。
その空気は、ティセの故郷イリアにほんの少し似ている。リュイは二度イリアを訪れているが、どちらも春の息吹に満ち満ちた時季だった。女神の微笑みのような陽と、神々の山の雪融け水がせせらぐ小川、草木の匂いを乗せたやわらかな風、競うように咲きこぼれる春の花、乱れ飛ぶ白や黄の蝶々…………小さな虫たちがあらゆるところで忙しなく蠢くたけなわの春だ。越冬したばかりというのにどの家畜も充分に肥えて元気がよく、シュウ北部のみすぼらしい家畜の有様とは異なり、まるで別の生きものを見ているようだった。そこは小説のなかで読むような楽園、理想郷を現実にした豊饒の王国だ。にも拘わらず、荒涼とした景色のほうが目につくシュウ北部に生まれ育ったリュイには、少しだけうるさく感じられたのだった。
この先バンダルバードから海を西南へと渡りランタリアに到着すれば、なにもかもがよりいっそう南国めいているのだろう。前の旅でティセと別れたあと、イブリアの起源だという南の地を訪れてみたが、そこは耐えがたい蒸し暑さだった。ランタリアもあんなふうだろうか、リュイは少しげんなりとして、きりりとして清潔な北部の風を恋しく思った。
ともかく、カウゼンはもうだいぶ遠くなった。夢のなかに出てくる妹は、いまも誓いの儀式を教わったころの幼女のままなのだが、現実のセレイはすっかり女性と呼ぶべきひとになっていた。それでも妹の神聖さは、リュイのなかでは少しも変わらないのだった。別れてまだほんの数日だというのに、すでにセレイを懐かしく思う。また会えるだろうかと、沁み入るように切なくなる。
カウゼンでの日々はとても穏やかに過ぎた。セレイやスルジェの友人たちとの付き合いは案外愉しめた。とくに盤遊戯の名手アミタブとの対局はことのほか愉しかった。養家でも始終和やかに過ごすことができた。訪問前に感じていた不安や気咎めはすべて杞憂に終わった。いつでも歓迎する――――……かつての養父の言葉どおりに、家族は誠実さをもって自分に接してくれるのだった。たとえば遠くに住んでいる仲の良い友人や親戚が久しぶりに訪れたときに、ひとびとがおのずとそういったもてなしをするようにだ。過去のできごとなど忘れてしまったふうに、自分に対して自然なのだった。
ところが、リュイはそんな家族の応対をありがたく思いながらも、むしろその自然さや誠実さに、さりげなさを装った気遣いとでもいうべき負担を、ひしひしと感じていたのだった。その気遣いは逆に、リュイの胸に罪を浮かび上がらせた。
なんと煩わしい心だろうか――――甚だ自分を厭わしく思う。
かつて、ティセを怖れていた日々があった。恐ろしく目のいいティセは、いつかきっと嘘を見破る、そして罪を引き摺り出して、決して忘れるなと目の前に突きつける、そう信じて怯えていた。けれど、誰が罪を突きつけなくとも――――ちょうど夏にシドルがしたように、あからさまに罪を突きつけられなくとも、ひとりで勝手に罪を意識する自分がいるのだ。それは本来そういうものなのかもしれないが、罪の意識に怯えているのは、もはや完全に自身だけの問題なのだと、今回カウゼンを訪れて、リュイはようやく気がついた。
内発的に覚える罪の意識は、シドルが突きつけたときに感じた具体的な怖さとは違った種類の怖さを、リュイに感じさせていた。たとえるなら、視界を零にするほどの濃霧のなかに彷徨うような、得体の知れない冷たい粘膜が肌にじっとり貼り付いているような、不気味な静けさに満ちた空恐ろしさだ。
それは、幸せという言葉を思うときに胸に過ぎるものとよく似ている。その言葉は喜びやぬくもりといった情感をリュイに微塵も覚えさせず、むしろ胸の奥で雪の塊のようになってしんしんと冷気を放つのだ。幸せという言葉に反応し、罪と嫌悪が異議を唱えるようにヒクヒクと震えて、リュイをどこまでも萎縮させていく。
自分の内側から、罪をじっと見つめている視線がある。きつくまぶたを閉じても、闇の奥から罪を見据えている瞳が見える。それはよく知っている暗緑の瞳……その瞳に、囚われている――――……。
ふいに、リュイは自分のなかに、とても高くて頑丈な壁のようなものがあるのを感じた。あらゆるものから自分を切り離す遮蔽物のようにそびえている。
リュイははっとして、内側に目を凝らす。川辺の風景が意識の内から消えた。
壁は薄闇にそびえ、洞窟のなかの岩肌のように冷たく湿っている。見上げれば、闇が天を覆うばかりで向こう側は少しも見えない。決して越えられず、叩き壊すこともできず、声を上げてもどこへも届かない、そんな壁だ。
これは……なに……?
壁を前に呆然としているうちに、記憶の淵から十三歳のある晩の光景が浮かび上がる。すると目の前の壁は、そのときリュイが越えた養成所の塀と重なった。にわかに、あの晩のすべてが脳裏に広がった。
就寝時刻をとうに過ぎた深夜、かすかな足音はおろか、瞬きの音さえ響いてしまいそうに、敷地内は静まりかえっていた。が、迷いやためらいはない。まっすぐに塀へと向かうリュイの心は、満天の星が瞬く夜空と同じほど澄んでいた。塀に近づくにつれ、心はますます冴え渡っていくようだった。
養成所の塀は、たったいま内側にそびえていた不審な壁と異なり、比べるべくもない高さだ。内と外を隔てるだけのただの仕切りであり、なかにいる少年たちを閉じ込めるためのものでもなければ、訓練生であるのを誇りにしている少年たちが脱走することも想定していない。
少し手前で立ち止まった。塀の上部をじっと見据えた。半月の明かりを受けて、塀の上は心なしほのかに輝いているように見えた。まるで、別世界との境界を示す輝きのようだった。その輝きを見据えたまま、塀に向かって駆けた。わずかに足音が立ったが、ちょうどどこかで夜鷹が鳴いて、それを掻き消してくれた。
目一杯跳べば、いまよりずっと背の低かった当時のリュイでも、塀の上に両手が届いた。そうしてそれを乗り越えて、いま自分は…………――――
「ここにいる……」
川辺の景色に意識を戻して、リュイは口のなかで小さく唱えた。あの塀を乗り越えた晩は、もうはるか昔のことだと、改めて自身に確認するように。
「よおい、よおい!」
ふたりの船頭が独特の掛け声をかけながら棹を差し、船を岸辺へ近づけ始めた。痙攣するほど脚を踏ん張り、袖をまくった露わな両腕の筋肉をぴくぴくと盛り上げる。次の船着き場が前方に見える。まわりには簡素な茶屋が数軒立っていて、軒先の竈から白い煙が上がっている。ちょうどお三時なので少しの間休憩するはずだ、乗客は立ち上がったり伸びをしたり、なんとなくそわそわとし始めた。
少女と話し込んでいたティセも、立ち上がって屈伸をしている。船着き場につくと、ちらりとリュイを振り返り、「ちょっと行ってくる」というふうに片手を上げて、その少女とともに船を降りていった。ほかの乗客もわらわらと降りていき、茶屋や厠へと向かっていく。船上は昼寝をしている老爺とリュイだけになり、急に静かになった。
カウゼンを出てまもなく乗ってきたママラが降りていったあと、少し歳下のその少女が入れ替わるようにやってきた。ティセはまたすっかり打ち解けたようだ。始終お喋りをして、船が停まれば連れ立って散策に出かけて行く。それはそれで少しもかまわない、けれど――――……リュイは溜め息をついた。
カウゼンを出てからというもの、じつのところ深く思い悩んでいた。ティセの様子があきらかにおかしいからだ。カウゼンを出たその日の昼食を取ったときに、もうティセの異変に気がついた。リュイは伏し目になって、そのときのことを思い返した。
セレイの家に過ごしていたため、ふたりきりで食事を取るのは久しぶりだった。元に戻っただけではあるが、リュイは新鮮な気持ちなっていた。なんとなく嬉しいような気さえして、我知らず目元を微笑ませながら、向かいに座るティセを見た。
途端、あれ、と思った。ティセは非常に硬い顔つきをして、うつむき加減になっていた。むっつりと口を閉ざし、肩に力が入っているような不自然な様子で座っている。
馴れない船のせいかと初めは考えた。イリアは内陸国のうえ、ナルジャあたりは小川が豊富とはいえ、船が行き来するような川や運河はない。旅中に渡し船に乗る以外は、船に乗った経験はあまりないと、ティセは以前言っていた。この川の流れはゆるやかで船が大きく揺れることはないが、わずかな揺れにも敏感で、気分がすぐれないのかもしれない、と。
が、気分は悪くないとティセは答えた。
「……そう? けれど……」
「なんにもないよ、腹が減ってるだけ」
ちょうど定食が運ばれてきた。ティセは黙々と食べ始めた。その問答の間も食べている最中も少しも顔を上げず、リュイと目を合わさなかった。なんにもないとは言うものの、普段とはまるで違う不自然さを存分に放っていた。リュイはますます不審に思った。
異変はすぐにいくつも見つかった。ティセは自分に対するとき、必ずうつむき加減になるのだ。表情も声音もはっきりと強張っていて、口数も激減していた。軽口の好きなあのティセがすっかり黙りがちになり、話しかけても必要最低限の受け答えしかしようとしない。食事はともにしているけれど、ただ向かい合っているだけ。船が停まれば急いで降りていく。まるで、自分を避けるようにだ……。異変を目の当たりにするたびに、リュイの胸のなかには冷たい風が吹き込んでいくようだった。徐々に南国めいていくというのに、内側から冷えていく気がしていた。
ティセの様子は、あの嵐の日の後によく似ていた。目を合わせないのも、口数が少ないのも、顔つき言葉つきのすべてがぎこちないのも…………まるで逃げるようにシドルのほうへ行ってしまったのと同様に、急いで船を降りていくところもそっくりだ。
あのときは考えるまでもなく理由が分かった。自業自得と思った。けれど、今回は理由がまったく分からない。知らぬ間に気に障るようなことをしてしまったか、言ってしまったのだろうか。ここしばらくのことを、リュイは幾度も思い返して心当たりを探ってみた。が、まるで身に覚えがなかった。そうすると、どうしても行き着くのは、やはり嵐の日のことだった。
シドルと別れてからまもなく、ティセはぎこちなかった態度を改めて普段どおりに戻ってくれた。リュイ自身も、なにもなかったように振る舞うよう努めていたので、ふたりはおおむね元通りになったと思っていた。にも拘わらず、ふたたびこんな態度になってしまったということは、つまり――――気にしていないふりはやはりできない、決して許さない、ということなのだろうか。
そう考えて、また思い直す。まさか、そんなことがあるだろうか。シドルと別れたのは夏の終わりのことだ。いまさら思い直して急に態度を変えるなど、あるだろうか……。それなら原因はそれではなく、やはりここしばらくのうちに機嫌を損ねることをしてしまったのだろう…………が、心当たりはいくら考えてもない。そんなふうに、リュイは毎日堂々巡りしていた。
分からない、分からない、ティセがまるで分からない、心底困り果てていた。思えば十五のころの旅は、ティセという他者を少しずつ知っていく旅だった。けれど二度目の旅は反対に、ティセがどんどん分からなくなっていく旅なのだ。旅の初めからそうだった。宿に着くと急に顔つきを曇らせたり、腹が痛いのかと訊いただけで激怒したり、女だと思われるのを厭がるような素振りをしたり…………それに、シドルは旅路に誘ったはずなのに何故か一緒には行かなかった…………今度はなにが気に障ったのかまるで訳が分からずに、リュイは避けられているのだ。
一昨日にも、ひどく胸の塞がる一件があった。
川沿いにある象眼細工で有名な町に寄ったときのことだ。楽しみにしていたはずの工房見学だったというのに、ティセは心になにかがあるようで、始終上の空に見えた。それも怪訝に思ったが、その後市場へ行くというリュイの誘いを、少し疲れたからと言って断った。市場へ行けば途端に瞳を輝かせるあのティセが…………はっきり避けられているのだと、リュイは衝撃を受けた。胸がしくしくとした。
市場から宿へ戻ると、もっとひどいことが待っていた。
ティセは昼寝をしているかもしれないので、そうっと段ばしごを上がった。が、雑魚寝部屋を覗いてみればティセは起きていて、こちらに背を向けて座っていた。身体がつらいときにするように、きつく身を抱えていたので、リュイはどきりとした。シンハ熱に苦しんだあの一昼夜が脳裏を過ぎり、思わずぞっとした。
「どうかした!?」
鋭い声が自然に出た。するとティセは、ゼンマイ仕掛けの人形みたいなおかしな動作で、ギュンッと背筋を伸ばした。
「具合が悪いのか?」
尋ねても、口籠もるだけではっきりと返事をしない。生理痛というものであったらいい、咄嗟にそんなことを思い、リュイはたたみかけた。
「それか、腹が痛――――……」
慌てて口をつぐんだ。腹が痛いは禁句なのだ。生理があると思ってもいけないというのだから。ただでさえ知らぬ間に機嫌を損ねてしまっているというのに、これ以上気に障ることをしたらどんなことになるか…………。
すっかり窮してしまい、ただただ心配の目でティセを見つめた。ティセは目を合わせない。なにやら言葉を濁しながら立ち上がり、不機嫌を露わにした素っ気ない声で、
「なんでもないって…………ほら、洗濯物乾いたから、自分でたたんで」
言い捨てて階下へ降りていった。そう、逃げるように――――……。
リュイは暫しその場に立ちつくし、ティセが降りていった段ばしごの下を呆然と見据えていた。
「…………」
釈然としないまま、いましがたティセが身を抱えていた辺りに目を戻した。すると、乾いたばかりの自分の上衣がくしゃくしゃとぞんざいに投げ置いてあった。それはたとえば、不愉快な相手の持ちものを腹立ち紛れに投げ捨てたかのように、悪意たっぷりの乱雑さを漂わせて目に映った。あまりのことに目を見開いた。
「……なにを、そんなに怒っているの……」
怒りや憎しみに殺られてしまった上衣が、息も絶え絶えにうずくまっている……リュイはそれを見つめながら、心がすさんでいくような哀しみと遣り切れなさを、ひしひしと感じていたのだった。
明け透けにものを言うティセだからこそ、逆に怒りの理由を言わないでいるということは、よっぽど腹に据えかねているのだとしか思えない。口にするのも憚られるほど気に障ることをしてしまったのだろうか……そんなふうに考えてしまい、正面から訳を尋ねるのにも、リュイは臆していたのだった。
昼寝をしていた老爺がむっくりと起き上がり、あくびをしながら船の上を見回した。リュイだけが残っているのを目に留めて、
「茶の時間になっとったかいな。兄ちゃん、降りないのかや?」
「……いま降ります」
老爺は丈の長い上衣の衣嚢に片手を突っ込んで小銭を取り出し、
「そんじゃついでに、ビンロウ買ってきてくれんかの。降りんのめんどうでな」
リュイは小銭を受け取って船を降り、まず厠へ向かった。老爺はおもむろに船の縁に立ち、川へ向かって立ち小便をし始めた。
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