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解放者たち 第二部  作者: habibinskii
第六章
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2

 ママラと別れてまもなく、川沿いにある象眼細工で有名な町へ立ち寄るため、ふたりは船を降りた。工房を見学できると聞いていたので楽しみにしていたのだが、こんな心境になってしまったため、じっくりと見学をするのもつらい。少しばかり礼金を支払って工房の案内人を雇ったのに、せっかくの丁寧な説明にも集中できず、話は右の耳から左の耳へと流れていった。上の空といった様子をうまく誤魔化せないティセを、リュイは怪訝な顔で見ていた。



 工房を出て、船着き場の近くに取っていた簡易宿へ戻る。今日はここに一泊する。簡易宿では食堂の二階に皆で雑魚寝するのが普通なので、ほかに宿泊客がいればふたりきりになる心配はない。どうか誰かいますように――――……ティセは祈るように願っていた。


「ティセ」


 一歩前を行くリュイからふいに声がかかったので、どきりとする。


「な、なに……?」

「買うものがあるのを思い出した。道を戻って市場へ行こうと思う、おまえも行く?」

「そっか……いや、私はいいよ、宿に戻る。少し疲れたから昼寝してる」


 視線から逃れようと、おのずと目が下がった。リュイは見学の際にもしていた怪訝な顔つきで、ひとしきりティセを見る。


「……そう」

「じゃ、先戻るね」


 先へ急ぐティセに、


「ティセ」


 またどきりとして振り返る。


「な、なに……?」

「なにかあれば、ためらわずに剣を抜け」


 初めての土地でほんの小一時間でもひとりにするのは、本当は心配なのだろう。


「うん、分かった」


 ティセはひとりで宿へ戻った。




 木造二階建ての小さな宿は大変古びている。心なしか全体が傾いでいて、台風でも来れば敢えなく倒れてしまいそうに見える。一階の食堂で女将に会釈してから、右手にある急な段ばしごを上る。天井板のない、屋根の裏が直接見える雑魚寝部屋には、自分たちの荷物のほかにふたつの頭陀袋があった。持ち主は外出中のようで誰もいない。


 ほかにお客さんがいる……!


 「うおぉぉぉぉ!」と叫びたいほどの気持で、ティセは胸を撫で下ろした。少し疲れたといったのは口実だったのだが、急に疲労を覚えて筵の上にごろりと寝転んだ。

 屋根の裏の暗がりを見据えつつ、


 …………こんなことじゃ、この先やっていけないよ…………


 いよいよ途方に暮れた。



 少しだけうとうとしてから、工房見学へ出かける前に干した洗濯物の様子を見に裏庭へ出た。さわやかな秋晴れで、ふたりの衣服はからりと乾いていた。それを取り込んで、ふたたび雑魚寝部屋へ戻る。

 窓掛けのない窓から西日が差して、なにもない静かな部屋をほのぼのと暖めている。ティセは横座りになって、まずは自分の衣服からたたみ始める。生成色の上衣もくすんだ緑色の胴着も薄茶色の脚衣も、すべて母による縫製だ。


 ……母さんもはるか昔、父さんにこんな気持になったのかなあ……


 真っ先に思い浮かぶ両親の様子は、拗ねて怒っている母親と、困惑顔をしつつとぼけている父親の姿だ。そんな時代もあったのだろうか、想像もできない。


 自分のものをたたみ終えて、リュイの衣服に手を伸ばす。どのイブリアよりも似合う真っ白な上衣を、両手でそっと抱えるようにして、そのままじっと見つめていた。

 とくに変わったところもない、北部出身の男であれば誰もが身につけている上衣に過ぎない。にも拘わらず、それがリュイのものだというだけで、こんなにも愛しくてたまらない。もうしみじみと愛おしい。前身頃には左右を合わせるための結い紐がみっつ付いている。いちばん上の結い紐を、胸いっぱいに満ちている熱いものをひしひしと感じながら見据える。

 形の整った長い指が、この結い紐を流れるように滑らかな仕草で結ぶのだ。そのときの指先の動きは最小限で静けさすら纏っている、ティセはその仕草をつぶさに思い浮かべることができる。我知らず、すでに愛しいもののひとつとして胸の奥に仕舞い込んでいるからだ。

 みっつの結い紐を黙って結び合わせて、リュイは白衣に身を包む。そこはかとなく野性味を感じさせる浅黒い肌と、どこにも無駄のないしなやかな身体を隠してしまう。けれど白い衣服は、なにをするか分からない野性の危うげな匂いをかえって引き立てるように作用する。ティセはその匂いを、見惚れてしまうほど美しいと感じていた。


 二度目の旅へ出たばかりのある日を急に思い出す。宿を取るたびに、主人や女将の非難めいた視線を気にしていたころのことだ。先に水浴びをして部屋へ戻ってきたリュイは、濡れ髪に袖のない夏用の肌着姿で戻ってきた。露わな上体を見て、ティセは思いがけず驚いたのだった。

 春に再会したときにも、もう少年という感じではないと思ったが、そのとき改めて、まだ少年の雰囲気をわずかに残していた十五歳のころとは違う、いま現在のリュイの身体つきをはっきりと意識したのだった。その痩身に付いている繊細さに満ちた筋肉は以前より若干増していて、肌着をうっすらと盛り上げる胸筋の美しさはとくに目を引いた。むき出しの浅黒い腕は引き締まって鋭いうえ、性別を強調するようなくっきりとした血管が浮いていた。それらが生々しく目に飛び込んで、ティセはなんとも言いがたい気持になり、胸のなかで「うわー……」とつぶやいたのだった。

 両手に抱えた上衣を、いっそう深く、熱く見つめる。


 …………この服が、あの身体を包んでる…………


 すると嵐の日の記憶がよみがえり、襲いかかる大津波のような勢いで、ティセを呑み込んだ。

 いま思い浮かべているあの腕で、縛り付けるように自分を抱きしめた。優しさの欠片も逃れる隙も一切ない、抱擁というよりは緊縛だった。怖いほどの力の強さと体温の高さを、ありありと思い出す。あの身体に密着したのだと改めて意識する。すると胸がきゅうっとして、火事を知らせる鐘のように早鐘を打ち始める。まるで、もういちど抱きしめられているみたいに息が苦しくなってきた。唇に、熱い記憶が息を吹き返す。

 耳と頬に火が付いた気がする。ティセは真っ赤になりつつ、


 ……なに考えてんの……なんだかいやらしいよ、私……


 ひどく恥ずかしくなった。誰に対してというわけでもなく、たまらない後ろめたさを感じた。けれど、嵐の日の記憶に焚きつけられた想いは、抑えようもない勢いで湧き上がる。どうにもこうにも苦しくて、ティセは白衣をぎゅっと抱きしめるようにして、坐したまま前屈みになった。



 ……リュイが好き……



 もういちど、あんなふうに抱きしめられたとしたら――――……きっとこの身体は蒸発してしまう。そう――――……リュイがいま自分に一切触れなくなっていることが、かえってよかったように思える。もし指の先でも触れてしまったら、発火して蒸発してしまうだろう。そう思いながらも、また反対のことも考える。……もういちど、あんなふうに抱きしめられてもいい…………きっとまた怖くなって、足が震えるかもしれない。それでもかまわない。リュイに触れたい……触れられたい……!

 あのとき暴力的にすら感じたリュイの行為が、にも拘わらず、その後はもちろんその最中(さなか)であってさえ、自分に嫌悪や不快感を少しも覚えさせなかった理由が、ティセはいまになってようやく分かるのだった。

 リュイが好き……幾度も心でくり返し、いっそうきつく上衣を抱え込んだ。


 ふいに、リュイの鋭い声が背後からかかる。



「どうかした!?」



 ティセは意識が吹き飛ぶほど驚いた。真実、息が止まった。ヒッ……と喉を震わせて、曲がったバネが元に戻る勢いで、背筋をピンと伸ばす。

 少しも音を立てずに段ばしごを上ってきたので、リュイが帰ってきたことにまったく気づかなかった。ティセはわずかに振り返り、息も絶え絶えといった調子で、


「え……いや……あの……なんでもない……」


 リュイは真剣な面持ちで部屋の入り口に立って、ティセを見下ろしている。


「具合が悪いのか?」

「や……その……」


 背後から見れば、自身を抱えるようにして前屈みになった姿は、苦痛を堪えているようにでも見えたのだろう。さらに問う。


「それか、腹が痛……――――」


 そこで止まった。以前、生理があると二度と思うなと、憎々しく告げられたのを思い出したのだろう。言葉に詰まったように口籠もった。ただ心配そうに、ティセの顔をじいっと眺めている。

 ただでさえまっすぐに見られなくなっているというのに、たったいまひとには言えないような恥ずかしいことを考えていたばかりなので、ティセはもう耐えられない。じっと見据える暗緑の瞳は、まるで頭のなかを覗いているかのように思えた。



 見ないで、見ないで――――……!!



 手にしていた衣服をポイと投げ置き、ティセは慌てて立ち上がった。赤い顔を隠すためうつむき加減になって、


「なんでもないって…………ほら、洗濯物乾いたから、自分でたたんで」


 厠にでも行くふりをして、その場から逃げた。


「…………」


 リュイはさも怪訝そうな顔で、バタバタと段ばしごを駆け降りていくティセを呆然と見ていた。




 食堂の戸口から飛び出して、川沿いの道を当てもなく駆けた。ジャガランダの木を見つけ、その根元へ腰を下ろした。ぐったりともたれかかるように幹に上体を預ける。走ったせいというよりは、動揺による息の乱れを整えようと、日暮れの空に向かって荒い息を必死に吐く。漫然と空を仰ぎながら、乱れた心が静まるのを待つ。うっすらと棚引く赤い雲の前を、鳥の群れが悠々と流れていった。


 ……どうしよう……


 息は落ち着いても、心はちっとも静まらない。

 リュイはきっと、先刻の様子を変に思ったに違いない。衣服を抱きしめていたことに気づいているかもしれない。そして、気持に気づいてしまったかもしれない……。

 こんなふうに不自然な態度でうじうじと思い悩んでいるくらいなら、いっそ勇気を出して告げてしまえたら……ティセはそうも考える。できるかぎり早くとセレイに言われたとおりに……時機(タイミング)を逃すなとママラに教えられたとおりに……。


 けれど――――……旅の仲間以上の気持はないと、困惑の眼差しを向けられてしまったら……。ティセはなにもなかったような顔をしていられる自信がない。旅はもうおしまいだ。秘密の宝物どころか、ランタリアにも、バンダルバードにさえも辿り着けずに、帰路につかなければならないだろう。

 薄紫の西空に宵の明星が輝きだした。そろそろ戻って、リュイと夕飯を取らなければならない。どんな顔をして戻ればいいのか、ティセはもはや泣きたい気持だ。


 ……どうしたら勇気が出るの……


 脚衣の衣嚢(かくし)にそっと手を入れて、ひんやりとした金属の感触を得る。いちばんの御守りである、父の遺した方位磁石に……。






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