21
カウゼンを立つ日が目前に迫った。ドゥルガやミイシャなどすっかり親しくなった友人たちが、セレイの家へ訪れては、ささやかな餞別を贈ってくれた。
「ティセ、いつかまた会えるって信じてる!」
「二度会ったんだから、三度目もあるよ、みんな元気でね」
「そっちこそ! 道中ほんとに気をつけて!」
ティセはいまもらったばかりの小さな御守りを目で示し、
「うん、ありがとう、きっとこれが護ってくれるよ」
旅が終わったら絶対に手紙を頂戴、皆口々にそう言った。例の宝物はあるのかないのか、もしもあるのなら一体どんなものなのか――――ふたりの旅の建て前を聞いた友人たちは「まさかぁ!」と呆れ笑いをしつつも、興味津々なのだった。
首飾りの細密画と秘密の手紙は、休日の集まりの際、皆に見せて意見を乞うた。けれど、手紙の宛先のアヌラ・ヴィヤティッサも、送り主のハルジイ・プラサードも――――描かれていた若い女にも心当たりはない、友人たちは、そしてセレイの家族もそう答えた。ずいぶん昔の人物なのだから当然だろう。リュイに盤遊戯のシュウ式規則を教えていた若者はひとしお興味を持ったようで、熱心になって意見を述べてくれた。
「きっと上流階級のひとだろうから、名家の家系図や紳士録とかを調べてみれば、なにか手がかりが掴めるかもしれないよ」
「そうだね、バンダルバードについたら図書館行って調べてみようと思ってる」
「それと……クルネーガルには大昔から金持ちの別荘がたくさんあったっていうから、不動産の登記簿の記録から家筋が分かる可能性もあるね」
「なるほど!」
「あとは……そういう上流のひとたちに実際会って聞いてみたら、なにか分かるかもしれないねえ。……といっても、そんなひとたちと話す機会が、まずないだろうとは思うけど……」
ティセは閃いた。
「アズハーさん!」
そのときはまだまっすぐに見られた暗緑の瞳を見て言うと、リュイは静かにうなずいた。
バンダルバードにはアズハーの本邸がある。あちこち飛び回っているひとだから不在にしている可能性もあるけれど、再会できたらなにか分かるかもしれない。…………ということよりもティセは単純に、大富豪にして奇人変人のアズハーにもういちど会いたかった。訪問のための正当な言い訳にもなると嬉しくなった。その日の晩に、さっそく訪問する旨を手紙に書いて送った。
出発を目前にして、セレイとその家族、親しくなった友人たちとの別れが名残惜しくて、沁みるような切なさを胸に覚えていた。しかし、それよりもなによりも、甚だしい戸惑いと不安がティセの胸の内をぐちゃぐちゃに掻き乱す。リュイとふたりきりに戻ってしまうことが、いまのティセには恐怖でさえあったのだ。
ティセはいま、リュイをまっすぐに見られない。自然に話をすることができない。目が合ってしまうのを心から怖れている。あの嵐の日の後日以上に、ぎこちない態度になってしまう。
それなのに見つめていたくてたまらない。春からずっとともにいるにも拘わらず、いまになって意識して、こんな状態に陥っている自分が信じられない。そしてそれ以上に、平気でともに過ごせた数日前までの自分が信じられない。なにをいまさら莫迦げている! とは思うものの、波立つ胸の内はどうしようもないのだった。
家族の団欒に紛れて、ティセはひそかにリュイを眺め見る。そして、その些細な表情や仕草のひとつひとつを、とてつもなく愛しいものとして、瞳の奥、胸の奥に仕舞い込んでいく。たとえば、湯呑みを持つときの手の表情、盤遊戯の駒を摘み上げる指先の微妙な角度、襟もとの薄布を巻き直すときのゆるやかな風に似た腕の動き、床から立ち上がる際のしなやかな物腰、妹を見据える静かな眼差しと感傷を纏った長い睫毛……小さなくしゃみをするときの少しだけ滑稽な仕草さえ愛おしい。ときおり見せる、暗緑の瞳のなかに木漏れ日が揺らぐような穏やかな微笑みは、もっとも愛しいものだった。些細な表情や仕草でも、そのどれもがティセにとっては大切な意味があった。それらを仕舞い込んでいきながら、そのたびに心のなかで「好き……」と唱えていた。
できることなら、セレイやその家族に隠れるようになって、そうっと、いつでもいつまでも、リュイを見つめていたかった。もしも視線に気づかれて、リュイがこちらを振り向いたとしても、盾になって自分を隠してくれる第三者が欲しかった。せめてもう少しまともに顔を見られるようになるまで猶予が欲しい。時間がどんどん長くなって、出発の日が来なければいい……。日一日と戸惑いを深めていって、あっという間に出発の前日を迎えた。
昼前にセレイとふたりで市場へ出かけた。この町で過ごす最後の晩のための買い出しだ。明日は祝日で市場も休みになるので、たいへんな人出だ。半円形の門をくぐると、屋根付きの市場の通路は人いきれでむっとした。そこへ売り子の威勢のよい声と、少しでも値切ろうとする客の熱気が加わって、晩秋にも拘わらず暑いと感じるほどだった。
目当ては真っ赤な肉塊がいくつもぶら下がる精肉店だ。同じような構えの店が続く一角に出ると、セレイは脇目も振らず馴染みの店へ入った。店主の髭男は血の染みついた上衣を纏い、巨大な丸太をそのまま利用した円柱形のまな板の前に立ち、これまた巨大な包丁で豪快に肉塊を捌く。セレイを見ると髭の合間から白い歯を見せて、にっこりと笑う。
「お、久しぶりだね、元気?」
「お久しぶりです。今日は家で串焼きにする羊肉をいただきたいんです」
「かしこまりっ」
冗談めかして答え、美味しそうな肉塊をわざわざ選んで包んでくれた。少しだけ負けてもくれた。聞けば、セレイの勤める食堂はこの店から精肉を調達しているそうだ。店主は「大将によろしくな!」と片手を上げてふたりを見送った。
ティセは古紙にくるんだ肉塊を左腕に抱え、美味を予感させる嬉しい重みを快く思いつつ、帰路につく。野菜屑の散らばる青物店街を過ぎ、干した川魚の匂いが立ち込める乾物屋街に抜けたとき、すぐそこの店内から知った声がかかった。
「あ! セレイ、ティセ!」
スルジェの声だ、ティセはどきりとした。セレイは普段どおりに落ち着いた様子で「元気?」と微笑んだ。が、ティセは適当な顔が作れず、「こんにちは」と小さく返すことしかできなかった。スルジェはとくに気にならなかったようで、それよりも偶然会えたのを心から喜んでいるふうに、
「ここで会えてよかったわあ! ねえティセ、明日いよいよ出発でしょう。買いものが終わったらセレイのとこに寄ろうって、ちょうど思ってたところなの」
極上の笑みを向けた。ひとの邪魔にならないように、三人は通路の隅へ寄る。スルジェは左腕に提げた買いもの篭のなかを探り、桃色の薄紙に包まれた餞別を取り出した。手巾か小銭入れといった大きさだ。赤い小花が印刷された可愛らしい包装紙と、意匠を凝らした包みかたには、スルジェの細やかさと、ティセに対する心遣いや友情が表れていた。
「どうか気をつけて旅してね。またいつか会えることを祈ってるわ」
寂しげな顔でティセを見て、それを差し出した。
「う、うん。ありがとうスルジェ……」
スルジェへの理不尽な嫌悪感と罪悪感を同時に感じながら、おずおずと餞別を受け取った。こんなにいやな気持にさせるのに、スルジェは最後まで純粋にティセが好きなのだ。それが分かるからこそ、ますます申し訳なくなる。ティセはなんだか苦しかった。
いちどニコッとしてから、スルジェはセレイを向いた。なにやらにわかにきつい目つきとなって、不満げに声を低くする。妙な凄味のある言葉つきだ。
「あのねえ、セレイ……」
「な、なに……?」
急に雰囲気を変えたので、いったいなんなのかと、セレイはどきりとしたようだ。スルジェは冷ややかに語り始める。
「こんなこと言うのはなんなんだけど…………とても大事なことだと思うし、妹として知っておいたほうがいいと思うから……言うわね」
妹として、ということはリュイに関することだ、ティセもどきりとした。ふたりは眉を寄せて、次の言葉を待った。
「……あなたの兄さん……たぶん、男色の気があるんじゃないかしら」
「……え?」
「たぶん……というか、きっとそうなのよ」
ふたりは唖然として声を失うが、スルジェのなかではもはや疑う余地のない事実であるように、断定口調になっていく。
「間違いないわ。……ね、ティセ、あなたも思い当たることあるでしょ」
だからこそ安心して一緒にいられるんじゃなくて? とでも言いたいのだろう。ティセは返答に詰まった。
「え……えっと……」
歯切れの悪い返答を、セレイの手前真実を言いづらいのだと解釈したようだ。スルジェは小さくうなずいて独り合点してしまう。ふたたびセレイに向かい、
「そのうち分かるときが来ると思うけど、驚かないようにいまから覚悟していて。対応の仕方でも考えておいたらいいわ」
「…………」
それからふいと横を向き、いかにも呆れ果てたような深い溜め息をついた。
「あんなにすてきなのに……男が好きならしょうがないわね……」
「…………」
気を取り直したように微笑んで、
「あんまり落ち込まないで! じゃあ、ティセ、さよならね! セレイはまた今度!」
青物店街のほうへ去っていった。
ふたりは唖然としたまま、スルジェの後ろ姿が人混みに紛れて見えなくなるまで、つい見送ってしまった。
やがて、セレイが吹き出した。片手で顔を覆い、どうしようもなく可笑しそうにヒクヒクしながら言う。
「ティセ、聞いた!? 兄さんが男色だって……! あの子なにを言ってるのかしら!」
ティセは呆気に取られたまま、
「……女が苦手だと思ったことはあるけど……それはないと思う……ないよない!」
「きっと兄さん、スルジェに言い寄られてもちっとも相手にしなかったのよ。だからあんなこと言うんだわ……おっかしい!!」
セレイの憶測に過ぎないが、ティセはそれを聞いておおいにほっとした。すると、ドゥルガの目撃談や、あの晩のリュイの曖昧な返答など、わだかまりになっていたものがすうっと溶けていく気がした。緊張が解けたようになって、ようやく笑い声が出た。
「あははは!」
「誰でも自分になびくと思ってるんだから…………あの言いようなら、つれない態度に相当腹が立ったんじゃないかしら。兄さんは良い薬だったわね」
「じゃあ、ここで会えてよかったっていま言ったのは本心だね。家に行ったら、リュイと顔を合わせちゃうかもしれないもんね」
「きっとそうよ。それに、あんなにご執心だったくせに、兄さんにはお餞別の用意はないのね……ああ、おっかしい!」
「そうだよね! あははは!」
ふたりは笑いながら家へ戻った。
平日は帰宅の遅いトゥアンも今日は仕事を切り上げて、最後の晩には家族全員が揃った。たっぷり用意した羊肉の串焼きに舌鼓を打つ。男三人は酒瓶を空けた。養父とトゥアンはほろ酔いの上機嫌になり、今度来るときは甥か姪が生まれているかもしれないよ、などと言うので、リュイは少しだけ眠たげな目で困ったように微笑んだ。
今度来るときは――――……
言葉の奥にある温かな意味を、リュイはきっと気づいただろう。
その晩、就寝間際にセレイから真剣な願いを託された。前回訪れた際にも、兄を救ってほしいと、ティセがとても手に負えないと思った真剣な願いを託していたので、「我がままなお願いばかりでごめんなさい……」セレイはとても心苦しそうにそれを告げた。
――――いつかこの先……兄さんが旅をやめるときが来て…………そのときまだティセが一緒にいたとして、もしも、もしもそういう気があったなら…………兄さんが普通に暮らせるように、いろいろと助けてあげてくれないかしら……。みんながしているように、普通に、穏やかに、幸せに毎日過ごせるように、手助けしてあげてくれないかしら……――――
「兄さんが……とても心配……」
憂慮に堪えないとばかりに、セレイは声を詰まらせた。瞳が少し潤んでいた。
セレイの懸念と願いを、ティセはしみじみと理解した。暫し黙って考えたのち、ゆっくりと答えた。
「この先どうなるか少しも分からないけど…………リュイがそれを望むなら、できるだけのことはしたいと思う」
涙交じりに礼を述べる兄思いのセレイを見つめるうちに、ティセはふいに気がついた。セレイがとりわけ平凡を好み、華々しく生きることよりも穏やかに慎ましく暮らすことを望むのは、兄の数奇な境遇を背景にした信念なのだと――――……。
空も風も澄み渡る出発の朝だ。これからカウゼン東部を流れる川を、バンダルバードへ向けてゆっくりと下っていく。セレイは舟着き場まで来てふたりを見送った。
ひときわ広く見える青空の下、シュウ国最長の川が横たわる。向こう岸にいる人間が豆粒のように見えていた。石炭などを積むための船が川上に何艘か繋がれているが、祝日のため船上にひとの姿はない。川岸にあるさまざまな店も多くは閉まり、桟橋で船の出発を待つ乗客もほんの数名だ。カウゼン発の定期便はもう準備を整えて待っていた。
同じだけ感傷を滲ませた暗緑の瞳を向け合い、兄妹はしばらく互いを見据えていた。
セレイは震えた小声で兄へ囁く。
誓いは立てないけど、また会えるって信じてる……――――
リュイは苦しげに目を細める。以前の旅でも別れ際にそうしたように、そっと右手を上げると、まるで尊いものに触れるようなためらいのある手つきで、妹の頭をそうっと撫でた。
出発を告げる鐘の音が、チリンチリン……と鳴らされた。音色は冷ややかな風に乗って、ゆったりと流れる川の上へ響いていく。
艫の辺りに立ち、桟橋の上で手を振るセレイに手を振り返す。その姿がどんどん小さくなっていくのと反対に、ティセの途方もない戸惑いと不安はむくむくと大きくなっていく。リュイの視線から自分を隠してくれるひとはもう誰もいない。斜め後ろで同じようにセレイを見ているリュイを振り向く勇気が、ティセには少しもなかった。
【第五章 了】
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