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解放者たち 第二部  作者: habibinskii
第五章
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20

 カウゼンに滞在して三度目の休日を迎えた。週に一度の婦人会の会合から戻った養母は、台所で夕飯の仕度をし始めたセレイとティセに合流した。暗黄緑色(モスグリーン)のシュウ人の衣装に白い前掛けを締めて、にっこりと微笑う。


「早く帰れてよかったわ、さあ、私も手伝いますよ」

「ご教授、よろしくお願いしまーす!」


 ティセはくだけた笑顔を満面に浮かべながらも、丁寧な言葉遣いで挨拶をした。今日は養母から、ファータなどイブリアの料理の作りかたを教わることになっているのだ。もちろんセレイにも作れるが、ファータの味付けについては養母にはとても敵わないと言う。それは決して難しい料理ではなく、むしろ素朴な一品で、使用する数種の調味料も特別なものはひとつもない。が、作るひとによってこれほど微妙に味が異なる料理は、あまりないそうだ。その理由について、養母は当然とばかりにこう言った。


「年季の差よ。だからお婆さんたちの作るファータはもっと美味しいはずよ」


 現在はどの家庭でもシュウの料理を作ることが多くなっているけれど、昔はいまよりもずっとイブリアの料理を日常的に食べていた。養母が幼かったころは毎日ファータで、それを作らない日のほうがめずらしかったと言った。


「そっかあ、セレイはどっちが好き?」


 セレイは包み揚げの皮を捏ねながら、のんびりと答える。


「そうねえ、シュウの料理のほうが食べ慣れてるから、どちらかと言えばそっちが好きかなあ……。でも、イブリアの料理にも好物はいくつもあるわよ」

「ふうん。じゃあ西の国の料理は好き? 前来たときは見かけなかったけど、何軒かそんな店ができてるね」


 以前より洋装の男たちが増えているように、西の国の専門料理店がカウゼンにも現れているのだった。とはいえ、もっぱら富裕層を相手にしているような勿体ぶった店構えで、庶民には縁遠い店かもしれない。セレイはやはりこう答える。


「あんな高いお店、なにか特別な日でもなければとても入れないわ。だから、西の料理のちゃんとしたものは食べたことがないのよ。ティセはああいうのよく食べてるの?」

「いやいや! ナルジャは田舎だもん、そんな店一軒もないよ。旅中に何度か食べたことはあるけどね。味は美味しいと思うけど、ナイフと肉叉(フォーク)を使うのが難しすぎて苦手だよ」

「ふふふ、手で食べたほうがきっと美味しいわ」


 養母は高い棚に収めていたファータ用の石鍋を取り出して、桶の水でさっと洗いながら、


「いつかあんな料理が家庭の食卓に上る日がやって来るかもしれないわよ。洋装がこんなに流行るようになったんだから……。うちのトゥアンだって着てるくらいだもの」


 呆れたように笑んで、それからティセに指示を与える。


「ヒヨコ豆の用意はできてるわよね。ではまず、玉葱と生姜とにんにくをみじん切りにしましょうね」

「はい」


 指示を与える養母の右手の甲には、既婚女性だけがする円形の刺青がある。イブリアの慣習のひとつだ。近頃の若い娘は、古い慣習を嫌ってしたがらないひともいるという。数年後に結婚を控えているセレイの手に、それは果たして描かれるのだろうか……。イブリアの伝統を守りつつも新しいものの見方を受け入れる養母と、来るべき時代を担っていく世代でありながらどこか保守的な印象のあるセレイを、ティセは交互に眺めて考える。


 養母はこの町のさまざまな問題を話し合う婦人会に参加していて、忙しいなかをやりくりしつつ、奉仕活動などを積極的に行っている。セレイの話によると、こうした社会的な活動をするのは北部の女性にはあまり見られないことという。とくに南部のイブリアよりも貧しいひとの多い北部のイブリアの女性には、考えられないことのようだ。女性の生きかた在りかたが、北部と南部ではずいぶん異なるのだった。

 セレイの生母の記憶は七歳までだが、覚えているかぎりの母の印象は、養母とはまったく違うと話していた。生母は家族や親族、近所のひとびとといった、実際に自分が身を置く世界だけを見つめ、そこに全愛情を注ぐようなひとだったという。それは、片田舎の小さな村に生きる女たちの典型的な姿だろう。世界が狭いといえばそのとおりではあるけれど、慣習と伝統を頼りに静かに暮らす賢さと慎ましさを持っていたともいえる。養母の眼差しに宿る理知の光とは異なる別の輝きを、生母はその瞳に灯していたのかもしれない。ティセの母親も、どちらかといえばそんな女性だ。


 家に籠もって家事をしているのが好きというセレイには、新しい時代を生きる女性として、外の世界を眺める意識をもう少し持って欲しい――――養母は内心そう思っているのではないか。それがセレイの個性であり尊重すべきだと考えるからこそ、あえて口には出さないのはないか。けれど、もしもセレイが婦人会の活動に参加してみたいと言い出したら、とても喜ぶのだろうとティセは思う。

 ティセがセレイについて思うことも、推察する養母の思いと少しだけ似ていた。

 十四のころここへ訪れたとき、養父はセレイの夢についてこう話していた。


 ――――いいひとに出逢って普通の家庭を作るのが夢なんだって言うんだよ――――


 そして、「平凡だろう?」と呆れたように笑っていた。

 そのとおりと言っていいのか、セレイは普通に結婚を決めた。聞けば、相手はとても誠実なひとではあるが、とくに裕福ではなく、家柄が良いわけでもなく、容姿も十人並みだという。なんとも平凡な男だと、養父やトゥアンを始め、セレイの友人たちもそう口を揃えていた。家族はともかくとして、それは他人が取り沙汰することでもないし、ましてや笑うことなどではない。が、おそらく多くのひとが思うはずだ――――……セレイほどの美しさを持っているのなら、その気にさえなれば上流社会に食い込むことも夢ではないかもしれないのに、と……。

 美貌を武器にして野心に燃える女性の逸話は、古今東西星の数ほどあるのだから、ひとびとがそんな感想を抱いたとしても至極自然だ。たとえ生まれは庶民でも、巧みに立ち回れば上流紳士の目に止まることもある。実際、そのために女優や歌手を目指す娘たちもいる。富裕層のほとんどをシュウ人が占めているこの国では、イブリアであることは玉の輿に乗るには不利であるかもしれない。しかし、シュウ人との格差が全くないわけではないイブリアでも、社会的に成功しているイブリアの家系はいくつもある。その詳細をもちろんティセは知らないが、カウゼンのような都会では、仕立ての良い洋装を纏って立派な自家用馬車で移動するイブリアの家族を見かけることがあった。あんな馬車に乗って、着飾ることだけを考えて過ごす未来を掴む可能性を、セレイは充分に有していると思われた。


 にも拘わらず、セレイはそういった夢を抱かない。特別であるのを望まずに、養父が言うような平凡を望むのだ。華々しく生きることよりも、前掛けを締めて家庭で働くのを好み、穏やかに慎ましく暮らすことを望んでいる。たぐいまれな容姿の美しさと反比例するかのように、その装いも、性格も、生きかたも、たいへん地味なのだった。


 ティセは自身を顧みる。かつて村を飛び出したあの時代のころのように、身の回りの世界を否定して、外の世界に過剰な夢や期待を抱く幼い心は、いまはもうだいぶ薄まった。あれほど出て行きたくて堪らなかったナルジャを、自身を閉じ込める檻だと憎んだナルジャの日常を、いまは愛している。けれどなお、平凡であるよりもなにか特別であることに憧れる気持を、ティセはいまも忘れていない。どこか特別な自分でありたいと願う気持は、幼子の気質が百年の歳月を経ても変わらないのと同じように、心の奥に染み尽くしている。そんなティセには、特別であるのを嫌厭しているようにさえ感じられるセレイの心の持ちようは、とても不思議に思えた。


 重い石鍋を慎重に竈へかけると、養母は次の指示を与える。


乳酪(ギー)をたっぷりね。みじん切りはじっくりよく炒めて」

「はい」


 みじん切りの玉葱と香辛料を鍋に投入すると、ジュジュジュ……という音とともに、香りが立ち上って鼻腔を刺激した。この香りだけでも腹がぐうと鳴りそうだった。養母は傍らの小さな椅子に腰掛けて銀杏の殻を割りながら、


「ねえティセ、カウゼンでは去年、バンダルバード大学を出たある女性が立派な論文を書いて学者になったって、とても大きな話題になったんだけど……イリアでは大学に進学する女性はもうどんどん増えてるんでしょう?」


 イリアは進歩的だという先入観があるのだろう、当然よねえと言わんばかりの口調だった。ティセは「いやいや」と返す。


「まだまだめずらしいですよ。イリスでは女子大学校ができたって話だから増えてるのかもしれないけど……私の村の女の子たちは、高等部には行かないひとがまだほとんどだし。そう、少しまえに隣町にある新聞社に、大学出の女記者が雇われたってむちゃくちゃ話題になってて……。大学出の女も、女記者も見たことないって、村のひとたち驚いてたくらいだから。わざわざ見に行ったって暇人もいたらしい……」


 あはは、とティセは呆れ笑いをしてみせた。


「あら、そうなのかい、イリアでも地方はここと変わらないのねえ……」

「ナルジャはここよりずっと田舎ですよ。隣町だったらもっといろいろと進んでて、高等部に行く女も、下働きや女工さんじゃない職業に就く女も年々増えてるって聞きます。ナルジャにはないけど、隣町にはやっぱり婦人会とか女だけの組合がいくつかあって、いろんな活動してるみたいです」


 婦人会と聞いて、養母は手元から目を上げ、興味深げに眉を上下させた。


「そう、どんな活動してるのかしら?」

「うーん……詳しいことは知らないけど……友達から聞いた話では、仕事の斡旋とか講習会を開いたり、貧しい子供たちへの援助とか相談とか教育とか……。あとは私も何度か行ってみたことあるけど、たまに慈善市(バザール)を開いたりしてますね」

 仕事で隣町に通っているラフィヤカから聞いた話だ。ラフィヤカの勤める洋品店には、そういった活動をしている比較的裕福な女たちがよく訪れるという。熱心なシータ教徒であることも少なくないそうだ。

 養母は大きくうなずいて、


「そう! 我がカウゼン・ヴァルサ友愛会でも、恵まれない家庭の子供たちのための活動には力を入れてるのよ。とくに悲惨になりがちな女の子にはね……」

 そういった意識が、かつてセレイを家に迎える気持にさせたのだろう。セレイは静かな微笑を浮かべながら、包み揚げの皮を麺棒で一枚ずつ伸ばしている。


「カウゼン・ヴァルサ友愛会っていうんですか。かっこいい! 友達が言ってたのは『ヒナゲシ会』だったけど……あはは」


 養母はつられ笑いをしたのち、


「ヴァルサっていうのはね、昔この国にいたヴァルサ・ラムチャンドラという女性政治家の名前なのよ。よくも悪くも有名なひとでね…………。慈善事業に関してはとっても力を入れてたそうで、たくさんの功績を残した女性なの。彼女が設立した孤児院や養老院、施療院がいくつもあるし、奉仕活動家の間では聖人扱いしてるひともいてね……志を継ぐ意味で会の名称に彼女の名前を冠してる婦人会も少なくないわ。うちの会もね、会長さんが信奉者なのよ」

「へえ! すごいひとなんですね、いつごろの……ん? ヴァルサ・ラムチャンドラって、なんか聞いたことがあるような……」


 小首を傾げると、養母は目を見開いてティセを見た。


「あら。まさかイリアでも知られてるの?」

「いやぁ……そうじゃないんだけど……」


 みじん切りを炒める手はそのままに、ティセは記憶を探る。


「あ! 思い出した! 少し前にリュイが読んでた本に出てたひとだ。一五〇年くらい前にいた有名な実業家の娘で、政治家になったっていうひとですよね」

「そうそう! ラムチャンドラ家のお嬢さまよ。政治家と結婚したんだけど、早くに夫を亡くしてね、そのあと夫の意志を引き継いで自分も政治家になったって言われてるわ」

「へえええ! ますますすごい!」

「でもねえ、疑惑の女性でもあるのよ。父親のナラヤン・ラムチャンドラも政治家の夫も、どっちも不審な死を遂げていて、じつはヴァルサがふたりの死に関係してるんじゃないかっていう見方も当時あったそうよ」

「まさか暗殺!? 父親と旦那さんを!?」

「なんでもねえ、ヴァルサは長いこと公の場に出されなかったことから、ナラヤン・ラムチャンドラの妾腹の子だったんじゃないかって言われてて、一族のあいだになにか軋轢があったとかなんとか……そんな噂が勝手な憶測を呼んだんじゃないかと思うけど……。もちろん信奉者のあいだではそんな疑惑は否定されてるわ。なんにせよ、慈善事業に熱心なわりに、気の強い冷たいところもある女性だったと言われてるわ」


 ティセはリュイが読んでいた本の挿絵を思い浮かべた。ふくよかな体つきをした品の良さそうな中年女性だ。慈悲の心ばかりでなく、後世に語り継がれるほどの冷淡さをも併せ持っていたのかと思うと、人間の心の奥深さをつくづくと感じた。

 セレイが口を挟む。


「なにか後ろ暗いことでもあって、その罪滅ぼしのために慈善事業に打ち込んだのかしらねえ……。それとも、政治家として箔を付けるためだったのかしら……」


 養母は感心したように目を丸くした。


「あらあら、ずいぶん鋭いこと言うのね、我が娘は恐ろしいわ」


 うふふ、とセレイは得意げに笑った。香辛料を効かせた具材を、伸ばした皮に丁寧に包み始める。きれいな三角形に整えて盆に乗せ、


「兄さん、好きだといいんだけど……」


 不安と期待を半々にしたように、つぶやいた。






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