18
セレイの友人たちとの集まりには二度顔を出した、それから数日後、リュイはカウゼンを出発する日を決めた。ふたたびセレイに会える日があるのだろうか……それを思えば、胸が締めつけられるように感じる。もう二度と目にすることはないかもしれない……この先なにがあるのかも、自分はどこへ行くのかも分からないのだから、そんな可能性も零ではない。けれど養家の負担を考えれば、長々と世話になるわけにもいかない。いちばんの懸念は、やはり逮捕の可能性があることだった。旅先でならまだしも、いまここで見つかれば、養家がしらを切るのは不可能だ。
居間の壁にかけてある月めくりの暦を見据え、リュイは頭のなかでその日に印をつけた。そして、暦のすぐ下に座っているセレイに視線を移す。トゥアンの洋装の脚衣にできた綻びを丁寧に繕ろうその姿を、いつまでも眺めていたいような気持で見つめた。
来客があり、セレイが居間から出た隙に、リュイは静かに立ち上がり暦を指した。
「ティセ、この日にカウゼンを出よう」
「え……」
ティセはなんとも言えない表情になって暦に目を向けた。困っているようでもあり、どこか怯えているようにも見える、どうにも浮かぬ顔だ。その日付をじっと見つめるだけで、まるで返答に窮しているように黙っている。
「……どうかした?」
「……ううん、どうもしない……」
「この日だと、なにか問題が?」
ティセは一瞬だけこちらを振り向いて、
「なんでもないよ……うん、分かった」
らしからぬ元気さに欠けた小声で言って、すぐに目を逸らした。
その様子は不可解だった。もしや、もっとここに滞在していたい気持でいるということだろうか。けれど、たとえティセの願いであっても、その希望には添えない……。この日に出発する――――リュイは再度暦に目を遣って、改めて意志を固めた。
セレイが居間へ戻ってきた。焼き栗を盛った盆笊を抱えている。
「いま、お隣さんからいただいたの。兄さん、栗は好き?」
「ん……」
ティセは「お茶淹れてくる」と、ひとり台所へ向かっていった。
別れを強く意識しながら、リュイはセレイを見た。もうすでに、切ない気持でいっぱいになっている。もっともっと、この子を眺めていたいのに……声に出さずにつぶやいた。
リュイは手持ちの札を五枚、表を向けて食卓の上に提示し、
「揃った。上がりだ」
沈着に告げた。途端、食卓に集まっていた若者たちから不満の声が上がる。
「なんだよー! 俺ももうちょっとだったのに!」
「たまには勝たせろよ」
「俺の小遣い、全部きみの懐に入ってくじゃん、腹立たしいなあ」
恨み顔で文句を言いつつ、その若者は食卓の上の掛け金をリュイのほうへ押しやった。たいした額ではないし、リュイは受け取らなくともいいのだが、それでは場が白けてしまうようなので、素直に受け取った。そして、おもむろに椅子から腰を上げ、
「そろそろ帰る」
すると、向かいの若者が、
「え! もう帰んのか、まだ来たばかりじゃないか!?」
別の食卓で盤遊戯をしているアミタブからも野次が飛ぶ。
「また勝ち逃げかあ? 感心しないなあ」
「そうだよ、昨日も一昨日も勝って早々と帰ったよな」
リュイはうなずいた。
「そう、僕はもうすぐこの町を出るよ。だから……できるだけ妹と食事をしようと思って……」
厨房で店主の妹とお喋りをしていたスルジェが、顔つきをはっとさせて食卓のほうを向く。アミタブはひどく残念だと言わんばかりの声を上げた。
「もう行っちゃうのかあ!? なんだあ……もっときみとやり合いたかったのに!!」
「まだ少しあるから、それまでよろしく」
「明日からもう歌留多はやめだ! 俺と盤遊戯だ! 最後まで俺を楽しませてくれよ!」
「また明日」
皆に片手を軽く上げて、リュイは溜まり場の店を出た。
夕食には十分間に合う時刻とはいえ、日に日に陽が短くなっていて、外はすでに暮れかけている。往来へ出てまもなく、スルジェの声がした。
「リュイ!」
振り返ると、わずかに眉根を寄せたスルジェが小走りに追ってくる。追いついて、そのまま並んで歩き始める。
「もうすぐ行ってしまうのね……」
スルジェは伏し目になって小さく言う。
「ん……」
「……とても残念だわ……」
伏せた長い睫毛が哀しみに湿っているように見える。こんなにも感情を孕んだ睫毛の表情を、初めて見た気がした。果敢なく見えるほど寂しげで、しかも、可憐だった。どうにかしてあげたいと男に思わせないではいられないような、いじらしさを漂わせている。いくぶんは媚態であったとしてもそれはやはり関係がなく、リュイはつくづくきれいな子だと思った。だからこそ、あえて前を向いて目を逸らす。
スルジェは睫毛に哀しみを孕ませたまま、リュイに目を向けて小さく問う。
「いつ……?」
「来週の祝日に」
「……そう……本当にもうすぐね」
どこか苦しそうに言う。
「……いつかまた、セレイに会いに来る?」
「分からない……」
故意に素っ気ないつもりではなく、本当に分からないので即答した。冷たく聞こえたのか、スルジェはしゅんとうつむいた。さらに濃く感傷を滲ませると、長い睫毛はますます魔力を持った。不当なまでにひとを惹きつける色香を漂わす。リュイはめずらしく……というよりは初めて、返答を言い損じたのだろうかと、決まりの悪さを感じた。
スルジェは束の間黙っていたが、やがてまた目を上げて、控え目に問うた。
「また……集まりに来てくれる……?」
「ん……。まだ数日あるし、アミタブと対局したいから」
じゃあ、というふうにリュイは片手を上げた。スルジェは足を止めて、
「うん、またね、待ってる」
寂しげに微笑んで、手を振った。
リュイは訳もなく疲れたように思った。夕焼けの空に向かって軽く溜め息をつく。あと数日だ……心でつぶやいた。
昼食を取りに戻っていた養父母はふたたび職場へ向かい、ティセは近所の子供たちから「はやくはやく」と手を引かれて居間を出ていった。セレイは後片付けに立ち、リュイは居間にひとりとなった。
ティセは子供たちに人気がある。旅中、どこへ行ってもたいていはそうだ。子供と遊ぶのが上手いうえ、「大都会イリスからやって来た、めずらしい話をたくさん聞かせてくれるひと」として、よくなつかれている。実際はイリア人であるだけで、大都会イリスからではなく田圃の広がるナルジャから来たのだが、子供たちにとってそれはなんの関係もないようだ。ティセのほうも子供たちの夢と興奮に水を差さないよう、とくに否定はせずに、一度だけ行ったことがあるというイリスの様子についてを話巧みに語っているようだった。
陽の差し込む居間で、リュイは本を読む。隣家の庭先から、ティセと子供たちの面子遊びに興じる声が聞こえていた。子供特有の甲高い声は、少々耳障りであるのと同時に、平和で健やかな日常を演出する最高の音色でもあるだろう。こんな子供時代はリュイにもその周囲にもなかったが、窓越しに聞こえる無邪気な歓声は、それでも心なしか郷愁を帯びて聞こえるのだった。
洗いものを終えたセレイが、前掛けで手を拭きつつ居間へ戻ってきた
「兄さん、とくに用事がなければ、一緒に散歩へ行かない?」
意外なことを言うので、リュイは少し驚いた。
「良い天気だし、祈りの樹を見に行きましょうよ」
セレイは言いながらもすでに決まったように、外した前掛けを窓枠にかけて干すと、そのまま隣家の庭にいるティセに声をかけた。
「ティセー! 兄さんと少し散歩に行ってくる。もしも誰か来たらよろしくね」
「了解っ!」
さあ、とセレイは微笑んだ。リュイは本を閉じて無言で立ち上がった。
西の市場の裏側に広がるイブリア街を目指して、ふたりはゆっくりと歩いて行く。こうして妹とふたりきりで長閑に散歩をするのは初めて――――記憶のあるかぎりは初めてのことだった。かつて、休暇で帰省していた間にもない。ともに散歩をするような仲の兄妹ではなかったし、妹は眺めているだけのものだった。ここではティセがいつも一緒で、リュイはティセと妹が並んで歩く数歩後ろを付いて行くのが常だった。
途中、セレイと親しくしている町のひとびとから幾度も声がかかった。皆、感心したように目を見開き「本当によく似てる」「目立つ兄妹ねえ……」とつぶやいた。兄妹だと認められるのが嬉しいことであるかのように、セレイは柔和な笑みを返していた。
不思議な心持ちで、セレイを見遣る。顔立ちも、瞳の色も、髪の質感や肌の微妙な色合いまでも、なにもかもがひどく似ていると自身でも思う。自身を厭わしく思うリュイにも拘わらず、これほど似ている妹を何故特別なひとに思えるのか…………それは幼少時、なにも知らない小さなセレイだけが、ハジャプートであることを自身に突きつけない存在だったことからくる思いなのだが…………いまだその理由について、リュイは気づいていなかった。理由は分からずとも、たとえば天つ少女かなにかのように、セレイは清浄・神聖な存在であると思えてならなかった。故に、もしもセレイがなにかを命じたら、リュイはティセに対するよりも従順になったろう。かつて、二度と会えないと信じつつ、誓う対象のない切ない誓いを、乞われて立てたときのように……。
澄んだ秋空に、祈りの樹は光沢のある葉をいっぱいに広げ、今日もさわさわと癒しの音色を奏でている。少しも似てはいないのに、何故か笛の音を思わせる。広場も常と変わらず、イブリアの民の憩いの園だ。年寄りの社交場であり、針仕事や乾燥果を作る女たちの仕事場であり、子供たちの運動場でもある。年頃の若者たちの姿はこの時刻には少ないが、陽が沈み暗くなるころには恋人たちがやってきて、声を潜めて語り合う逢瀬の場になるのだった。祈りの樹はイブリア街のすべてを見守るように、高く、神々しく聳え立つ。
幸運にも、樹に一等近い例の腰掛けは空いていて、兄妹が来るのを待っていた。ふたりは静かに腰を下ろす。束の間、互いに黙って樹を見上げていた。
「兄さんはいまも祈りの儀式をしているの?」
セレイは見上げたまま尋ねた。
「たまに……」
「正式な?」
「ん……」
この町に着いてから、リュイはまだ祈りの儀式をしていない。こんなにも惹かれているのに、目の前のこの大樹にはいまだどうしても身を預ける気にはなれなかった。
セレイは微笑んだ目をリュイに向け、
「兄さんが正式なお祈りをしてるって、このまえ来たときティセから聞いたのよ。私、すごく驚いたの。父さんと母さんがするのしか、正式なのはあまり見たことがなかったから……。あとはここの、亡くなってしまったお爺さんくらいよ」
「……兄もしていたと、ガルナージャの森で聞いた……」
「シューナ兄さんが!? そう……うちの家族は、私以外みんなするのね……」
うちの……とセレイはリュイ以外はもう亡い本当の家族をそう呼んだ。
「何故かしら……不思議ね」
リュイはわずかに首を傾げてみせたが、理由はおおよそ分かっていた。おそらく笛があるからだ。笛が儀式に導いている。笛は父のものだったから、母は父に倣ってそれをしていたのだろう。
襟もとの薄布のなかに忍ばせた笛を、強く意識した。犠牲を求めるもの怖ろしい笛をだ。だからこそ、セレイには関わらないで欲しいと、リュイは心から願うのだった。いまそれを口にしなかったのは、そんな思いからきていた。もっとも、セレイもうすうすは分かっているのだろう、笛は大木信仰に関わりがあると、すでに知っているのだから……。
改めて大樹を仰ぐ。ここへ来ると、薄布のなかの笛がそこはかとなく自己主張をしているような気になった。祈りの樹と引き合い共鳴しているのだと、リュイには分かる。もしもここで笛の音を鳴らせたら、かつてセザの家の神木と呼応したときのように、鳥肌が立つほどの音色を奏でるだろうことも。あのときと同様に、祈りを捧げてもいない神木の霊力が笛に作用して、その音を磨き上げる。神木から押し寄せる得体の知れない強い圧力に、この身体が押し潰されそうになる。セザの神木でさえそうだったのだから、この見事な大樹の霊力の大きさ、強さを、リュイは想像もしたくなかった。どんなに慈悲のない乱暴な力で、自分を押さえつけるのだろうか……。その葉音がもたらす絶大な癒しとは真逆な、精霊の残酷さを思わずにはいられない。
もしも、兄シューナのように聖笛使であったなら、神木の霊力を自然にこの身に受け入れることが、きっとできるのだろう……。けれど、リュイの笛は未熟な音しか鳴らしはしないのだ、もう何年も――――……。
養成所に入る前日の、父の姿をふと思い出す。生家にある沙羅の大樹に長い祈りを捧げたあと、幼いリュイの瞳を見て告げた。
――――いつでもおまえを思っているし、おまえのために祈っている――――
父は笛について、それほど詳しく知ってはいなかった。笛を自分に譲って旅へ出た兄も、当時はそうだったのだろう。この笛が、本当に自分を幸せに導くと、ふたりは当然のように信じたのだ。実際は手元に置いたことで、なにもかもが決まっていたのと違う方向へ動き出したのだとしても…………。
そう考えてから、いや……とリュイは思い直した。記憶のないころから笛の音を耳にしていたはずなのだから、もとよりそういう宿命だったのかもしれない。というよりは、こうなることこそが始めから決められていた宿命なのだろう。目に見えないものの加護からは決して逃れられないと、ライデルの占い師ザハラが宣告するように、逃れられはしない……。リュイは遣り切れない思いでいっぱいになる。
物思いに沈んだ兄を、セレイは暫しじっと見据えていた。眼差しに憂いを潜ませて……。やがて、言葉を選びながら言うように、控え目に話し始めた。
「……ねえ兄さん……。兄さんは、今回の旅が終わったら……どうするつもりでいるの……?」
少しも予期しない問いを掛けられて、リュイは思考が停止したようになる。
「…………」
足の先辺りに視線を落として、じっと黙するしかできない。これからどうするのか、なにをしたいのか、自分はどこへ行くのか――――……リュイがこれほど答えられない問いかけは、今も昔もほかにはないのだから。
セレイは静かに返答を待っていた。顔つきは優しげだが、目にはやはり憂いを湛えている。
リュイはようやく、つぶやくように返す。
「……分からない」
セレイはそっとまぶたを伏せた。おおよそ予想通りの返答だったのだろう、予想通りであったことが哀しそうに、伏せた睫毛をかすかに震わせた。
「……そう……」
再度、兄妹は口をつぐんで大樹を見上げる。セレイのした難しい問いかけは、辺りの空気を重々しくさせて、ふたりを覆っていった。葉擦れの優しさと澄んだ木漏れ日が、重たい沈黙を中和するように降り注ぐ。
セレイは下を向くと、大樹の根元のほうを見据えて兄に語り始めた。とても大切なことを口にするときの、もの静かな言葉つきで…………。
「兄さん……。私はね、兄さんにはいつか、普通に暮らしてほしいと思ってるの……。いつまでもこんなふうに旅してるんじゃなくって……どこかに落ち着いたらいいと思ってる……」
リュイははっとしていた。妹が自分の身の上を案じているとは、それほど思っていなかった。そのうえ、どこかに定住することを、いままでいちども考えたことがなかったのだ。返す言葉に詰まり、大樹のほうを見据えるセレイの真剣な横顔をただ見ていた。
「みんなが当たりまえにしているように、普通に家を借りて、普通に仕事して…………そう、シュウではないどこかの町や村でね……」
「…………」
セレイはゆっくりとリュイを見遣り、かすかに眉を寄せて訴えるように言う。
「もちろん、ひとりぼっちではなくて…………誰か、好きなひとと寄り添って、幸せに暮らしてほしいの」
「…………」
「そうしてくれたら……私はようやく安心できるから……。私がこんなふうに願ってることを……兄さん、忘れないで覚えていてね」
ようやく言い切ったというような顔をして、セレイはそれきり口を閉ざした。初めて兄を散歩に誘ったのは、ふたりきりの静かな場所でこれを告げたかったからなのだろう。
リュイはなにひとつ返せなかった。忘れずにいるという約束すら口に上らない。セレイの真剣な願いに大きな衝撃を受けていた。いまセレイの口にした幸せという言葉が、冷たい雪の塊のようになって胸の奥で冷気を放っていたからだ。その言葉が持つはずの喜びやぬくもりといった情感は何故か微塵もなく、むしろリュイを冷え冷えとさせた。
息苦しさを堪えているときにするように、リュイはうつむいて息を凝らす。
――――幸せに暮らしてほしいの……――――
くり返せば、反対に問うてみたくなる。
……セレイまで、それを言うの……?
リュイは初めて、セレイに対して不服に似た感情を覚えていた。自身、その不快な靄さながらの感情に戸惑った。が、滲むように湧き出た反発心は誤魔化しようがなかった。
もうひとつの笛を探せと言い遺した父の願いも、セレイの養父が神にかけた願い事も、トゥアンが口にした義務も、すべてみな、幸せだ――――……。リュイを追い立て、追いつめるその言葉を、心の安らぎだと思っていた妹までもが願うのだ。
……幸せに……
すっかりとトドメを刺された気になった。暗澹たる気持で、もう幾度となくくり返してきた問いかけを自身に囁く。
――――僕は、どこへ行くの……――――
迷いのあるものは樹の下へ向かうという。けれど目の前の神木は、道標のひとつも示さない。ただ、万人に対してするように、優しい木漏れ日と葉音でリュイを包むだけなのだ。
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