17
セレイの義兄トゥアンの部屋に寝泊まりするのは二度目だ。以前ここへ訪れた際は、トゥアンはバンダルバードの専修学校の寮にいて不在だった。文机と一合の行李のほかはなにも荷物のなかったこの部屋に、ティセと寝泊まりした。主が戻ったいま、部屋は物に溢れすっかり生活感に満ちている。布団を二組敷くにはまず部屋を片付けねばならない。そのくらいトゥアンは散らかし癖があるようだ。
床に散らばっていたなにかの部品のようなものを拾い集めると、トゥアンは部屋の隅の木箱へそれらを突っ込んで、
「さあさあ、もう敷けるだろう」
リュイはうなずいて敷き布団を広げた。
新米ではあるが技術者のトゥアンは趣味と実益をかねて、新しい機械の開発に公私に渡って取り組んでいる。リュイの知らない、仕様もどんな効果があるのかもまったく分からない部品が部屋に山とある。一見するとガラクタの寄せ集めにしか見えないが、いつか大発明をして大金持ちになるのだと、トゥアンは冗談めかして豪語するのだった。
敷き布団のうえにトゥアンはごろりと転がった。そして、うぅぅん……と伸びをする。
「あー今日も一日、お疲れさん!」
誰に告げるともなく、かといって完全な独りごとでもないように言う。リュイは頭陀袋のなかを整理するふりをして短剣を取り出した。眠りにつくための必需品だ。気づかれないよう敷き布団の下にそっと隠す。
トゥアンは横になったままこちらへ向き直り、
「ここにいて、なにか困ってることとか不便なこととかないかい? 気づいたことがあったら遠慮なく言ってくれよ」
「……ありがとう、なにかあれば言います」
「ティセにもそう言っといて。セレイはたまに気が利かないから心配だ」
「大丈夫、遠慮がないのはティセの特徴だから……」
わははっ、とトゥアンは宙へ放つように笑う。それから、ゆっくりと半身を起こし、リュイと差し向かうように布団の上に胡座を組んだ。
「それにしても…………ティセのご母堂も思い切ったひとだよねえ。よく旅立ちを許してくれたもんだと、俺は感心してるんだ」
「…………」
「うちの両親も割合新しいものの考えかたをするほうだと思うけど……もしもセレイが男友達と旅に出たいと言い出したら…………さすがに許さないと思うな……」
さすがに……と言いながら、難しい問題に取り組むときのように首を捻る。
「……僕も許すはずがないと思っていた……」
ティセと再会した瞬間、本当に女だったと知って心から落胆したことを思い出す。
「ははは、普通そう思うよなあ。つまり……きみはよっぽどティセのご母堂に信頼されてるってことだ」
リュイは伏し目になって、やや間を置いた。
「……そうではなくて…………ティセの母親は僕ではなくて、ティセを信頼しているんだと思う。ティセは母親に、好きなように生きる代わりに自分で責任を取るように言われているそうだから」
ますます感心したとばかりに、トゥアンは目を見開いた。
「へええ! なるほどね……自分で責任を取れると信じてるからこそ、そう言えるんだろうねえ。すごいなぁ……確かにご母堂はティセを信頼しきってるんだろうね」
出発前のティセの言が、ふいに過ぎる。結果を全部背負う覚悟がある――――つねにまっすぐに立ち、強い瞳を先へ向けているティセにひどく似合う、痺れるような意思表明だ。そしてリュイにとって、心を貫いていく、凛乎として胸に迫ると同時に我を省みる言葉であった。
脳裏を過ぎったその発言を、トゥアンは知るはずもないのにまるで読んでいたかのごとく、同意するみたいに微笑んだ。
「ティセならそのくらいの度胸と気概がありそうだな。…………あの子は瞳がまっすぐだ、とてもかっこいい女の子だね。見たことないよ、あんな子は」
リュイはしみじみとした気持で、静かにうなずいた。その表情、佇まいには無意識のうちに愛しさが滲んでいた。そんなリュイの様子を、トゥアンは暫し黙って眺めていた。やがて、声音を落ち着かせて感慨深げに語り始める。
「きみと最後に会ったの、いつだったか覚えてるかい……?」
話題が過去を向いたので、にわかに緊張する。が、トゥアンの顔つきは穏やかなままだ。
「たしか……六年くらい前だった。あのころはまだ北の村にいたし、俺が入隊する前だからそのくらい立つだろう」
いっそう感慨深そうに目を細め、
「きみは……本当に変わったよね。子供のころのきみからは考えられないよ……いまのきみは……」
「…………」
「こんなふうに、普通に話をすることがあるなんて、あのころは思ってもみなかった」
返す言葉を見つけあぐねて、リュイはうつむいた。トゥアンは決して神妙にはならず、けれど故意に場を和ませようとすることもなく、淡々と続ける。
「昔はさ…………正直に言えば、きみが怖くてたまらなかったんだ。俺のほうがいくつも歳上なのに……。きみがたまに家に来ると、内心びくびくしてた……。だから、ほとんど話をしたことなかったろう?」
「……なかった」
それはトゥアンにだけではなく、養父母に対しても、来訪する目的であったセレイに対してもだった。当時のリュイは一般のひとに対しては日常の挨拶すらろくにせず、必要最低限の受け答えのみを子供とは思えない冷え切った表情で行う少年であった。それでも養父母が訪問を断ることはなかった。セレイが兄に会いたがっているのを十分知っていたのか、それとも人情的に断れなかっただけなのか、リュイには分からない。いま現在のように団らんを用意してもてなしてくれたわけではないが、ひどく扱いづらい子供であったはずなのに受け入れてくれていたのだと、いまとなっては理解できる。
トゥアンは自嘲気味ににやりとし、
「当時はね、きみが来るという日……俺は学校が終わると必ず長々と寄り道をしてから帰ったもんだよ。家にいる時間をできるだけ短くしようと思ってさ」
わはは、とひとりで笑って、こんどは真面目な顔つきになる。
「きみが養成所を出て、うちに捜索が入ったとき、俺はちょうど学校にいて家にはいなかったんだ。夕方近くに帰ってみたら、家のなかが静まりかえってて、なんだか妙な雰囲気で…………。セレイは目を真っ赤にしてしくしく泣いてるし、父さんは顔が腫れてるし、母さんは神妙な顔で黙り込んでるし…………なにがあったのか、結局初めは近所のひとたちから聞いたんだ。まあ驚いたよね……」
リュイがすっかり表情と居ずまいを硬くして、うつむき加減に黙っているのを見て、トゥアンは少々慌てたように声と顔つきを和らげた。
「あ……ごめんごめん! べつに責めてるわけじゃないんだよ。ただね…………うん、もう少し聞いてくれるかい……?」
「…………」
顔色を窺うように、ひと呼吸置いてから続ける。
「でさ…………まあ、初めはね、父さんが人前でひどく殴られたと聞いたから、息子としては怒りを感じたし、きみを責めたい気持も湧いたんだけど…………冷静になっていろいろと考えてるうちに、基本的なことに気がついたんだ」
うつむき加減のリュイの瞳を、そっと覗き込むようにして囁いた。
「きみは望んでハジャプートになったわけじゃないんだって……当たりまえのところにね」
そして、静かに微笑みかけた。
「父さんも母さんも、そこを気にかけていたからこそ……当時のきみに同情的でいられたんだなって……もちろん知ってはいたんだけど、改めてそう思ったよ。……同情って言葉が気に障ったらごめんよ」
リュイはうつむいたまま、ただ聞いていた。
「望んだわけじゃないし、巡り合わせが悪かっただけだ……。たとえば、俺の生まれた年に特別徴兵令状が出されていたら……そして、もしも俺が長男じゃなかったら……俺のところに令状が来ていた可能性もあったわけだ。そう思い至ったら、きみを責めたいと思った気持ちがすっかりなくなってしまった……」
硬い表情を崩さないリュイの様子に、こんな話をしてごめんよ、と言いたげにトゥアンはゆっくりと目を伏せる。ふたりの間に、暫し沈黙が流れる。窓の隙間から入り込んできた小さな羽虫が一匹、ランプの周りをしきりに飛び回っていた。トゥアンはぼんやりとそれに目を向けて、リュイはひたすら下を向いていた。
おもむろに視線を戻すと、トゥアンはだしぬけに問うた。
「きみはいま、幸せ?」
「…………」
ひどく難しい問いかけだった。下を向いたまま黙っているリュイを、トゥアンはぬくもりの籠もる眼差しで見守るように眺めていた。待っているからゆっくりと考えてみて、そう無言で言っていた。
リュイは答えられない。幸せか不幸せか分からないというよりは、それはあまりにも遠い処にあって、この手に掴むことはおろか、その片鱗を目にすることさえ叶わないもののように感じてならなかった。たとえば、北方に連なる山々のはるか向こうにある故郷の村の風景と同じく、決して目にすることのないものだ。
幸せでないのなら不幸せなのだろうか……自問すれば、そう言い切ってしまうのは違うように思えた。十五のころならそう答えたかもしれない。けれど、いまは違う。罪を知っていることで、逆に息をつかせてくれるひとが――――苦痛から解き放ってくれるひとがいるのだから……。
「……分からない」
リュイは正直に答えた。
「……そうか」
つぶやくように返して、トゥアンは持ち前の剽軽さを仕舞い込み、いっそう真摯な顔つきになった。ひとつひとつの言葉を慎重に選ぶような口調で語る。
「きみの村のことは、少しは聞いている……。つらいことがたくさんあったらしいね…………だからこそ、俺は思うんだ。きみは……幸せにならないといけないよ」
途端、胸の奥が氷のようになって凍みる。
「偉そうなこと言うようだけど、俺は本当にそう思うんだ。俺の言わんとしてることは、きっと分かってくれると思うけど……」
ひとしきり、うつむくリュイを見据えていた。リュイはなにひとつ返せない。
一転して戯けた調子になり、トゥアンは真面目な話を打ち切った。
「なぁんて、俺こそ早く幸せを掴まなきゃいけないんだ。除隊後に進学なんかしたもんだから、もうこんな歳だ。まわりの友達はほとんど結婚してるっていうのにさ! セレイにも先を越されてしまったしね」
言いながらトルクを外すと、大事なもののように丁寧に折りたたんで枕元へ置いた。
「そろそろ寝ようか」
「……はい」
リュイはまだ緊張が解けないでいた。トゥアンはそれを見て取ると、申し訳なさそうに微笑んで、
「子供のころはあんなにきみが怖かったのに……いまはねえ、なんだか従兄弟がひとり増えたみたいな気分になってるんだ。ははは」
おやすみ、とトゥアンはランプを消して横になった。
まもなく寝息が聞こえてきた。普段はすこぶる寝付きのいいリュイだが、なかなか眠りにつけなかった。短剣を胸にしながら、トゥアンの言葉を頭のなかに行ったり来たりさせていた。
――――きみは、幸せにならないといけない――――
誰かを犠牲にしたのだから……その分だけ幸せにならなければいけない。トゥアンの言いたいことはそれだろう。それは、リュイの罪の意識の……闇の核心に迫っていた。
決して出られない闇の奥に自分を追いつめた、あの日のできごとがよみがえる。
南部のとある町で、出稼ぎに来ていた故郷の村の農夫に、食堂で偶然出くわした。農夫は憎しみの刃をリュイに向けて振り回し、震え声で怒鳴り散らした。
――――うちの子を返せ、できないなら死ね!!
激昂に血走った生々しい両目と、いままで見たなかで一等怖ろしいと感じた刃と、自分に向けられた死をも忘れるほどの憎しみの凄まじさを、まざまざと思い出す。あの日、脱走してから初めて、リュイは自分が負っている罪をようやく意識したのだった。
けれど、もっとも強くリュイを苛む事実は、罪そのものではなかった。それは、村の犠牲を知りつつ出てきておきながら、結局は苦痛に囚われたままでいるという事実のほうだった。
…………意味も必要もない犠牲を強いた…………
僕を赦すひとはいない――――暗闇に目を向けてそうつぶやいたとき、自身を忌み嫌う気持が猛烈に湧き上がり、まるで夜の闇が全身にくまなく流れ込んだように、リュイを罪と嫌悪の闇に閉じ込めたのだった。
――――きみは、幸せにならないといけない――――
その犠牲に意味や必要性を与えなければならない。きみには、幸せになる義務がある…………遠回しにそう告げられたに等しい。けれど――――……リュイは思う。
――――果たして、自分にはそんな価値があるのだろうか……――――
幸せになる、義務と価値――――あるいは資格と言い換えてもいいかもしれない。
十五のころ、ライデルの占い師ザハラに問われた義務と価値が、いま問いかけの内容を変えて、リュイに答えを乞うのだった。
幸せ……口のなかでそっと唱えてみる。それは、見知らぬ誰かの手のなかにある金色の林檎のように、なんの関係もない遠いものにしか、どうしても思えない。リュイの手のなかにあるものは、冷たい短剣と、持ち主に犠牲を要求するもの怖ろしい笛だけだ。
考えたくなくて、どうにか眠ろうとまぶたを閉じた。窓から漏れてくるかすかな月明かりが遮られ、視界は真っ暗になった。にも拘わらず、暗闇の奥で罪が模糊とした形を取って、石の裏にはりつく虫の群れのように蠢いているのが見える。罪と嫌悪が、幸せという言葉に反応してヒクヒクと震えるように…………まるで異議を唱えるかのように、蠢いている。
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