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解放者たち 第二部  作者: habibinskii
第五章
57/71

16

 遅い昼の日差しを受ける暖簾をひらりと寄せて、リュイは溜まり場の店の様子を戸口から覗った。一昨日とは違い、今日は若者がもう数人来ていて、トルクの白がいくつも目に入った。歌留多(トランプ)の札を手にしつつ、煙草と茶と雑談を楽しんでいる。アミタブも来ている。リュイに気づいて、大仰に手を振り上げた。


「いよう! 来やがったなあ!? 待ってたぜえ!」


 リュイは軽くうなずいて、アミタブのいる席へ向かった。見たところ、スルジェはまだ来ていないようだ。厨房では店主の妹がひとりで惣菜の下拵えをしている。アミタブの正面に腰を下ろすと、その染めた髪や衣服に染みついた煙草と麻の匂いがふわりと漂って、リュイの鼻腔をかすかに突いた。

 ちょうど歌留多遊び(トランプゲーム)の一戦を終えたところだ。アミタブの横に座る若者が、次の一戦のために札を入念に切っている。鮮やかな手付きで切りながらリュイへ笑いかけ、


「次の一戦(ゲーム)、やるだろう?」

「する」


 それからアミタブへ向き直し、


「一昨日は誰も来ていなかったから、今日はどうだろうかと思っていた……」


 すると、アミタブは初めて大事なことに気づいたように目を瞠った。


「おっと、そうか! 木曜日はね、みんな用事があって来れないんだよ。最初に言っときゃよかったね、待ちぼうけしちゃった? ごめんごめん!」


 顔の前で手を合わせ、戯けたように謝罪した。

 あれ……とリュイは思った。食卓の上、各々の前に一枚ずつ配られていく札を漫然と見ながら考える。

 スルジェはなにも言わなかった。毎週そうであるならスルジェが知らないはずはない。一昨日ここへ来たときにはすでにいて、ひとりで店番をしていた。今日はまだ誰も来ていないと言っていた。もしも忘れていたのだとしても、誰も姿を見せなければそのうち木曜日だったと気がつくはずだ。にも拘わらず最後までなにも言わなかった。どう考えても、それは不自然ではないだろうか……。


「…………」


 リュイはその前日にここを去るときのことを思い出した。

 あのときスルジェは、妙に控え目に内気さを漂わすように自分を見上げ、はにかみながらこう言った。まるで無垢な少女のような佇まいで。



 ――――もしよかったら、ぜひ明日も来てね。……あなたが来てくれると、みんなとても楽しそうにしてるから、私もなんだか嬉しくて……――――



 ……そうか……


 リュイは納得した。葦の原での一件、誘われていると思ったのはおそらく間違いではない。考えすぎなどではなく、スルジェは初めからそういうつもりだったのだろう。どこから見ても当世風のスルジェが、ときおりいたいけな少女のように、かと思えば天真爛漫な少女のような雰囲気を醸し出したりするのは、つまりは媚態だったのだ。その様子を素直に可愛らしいと思えたのは、それならば当然なのだった。

 改めて、一昨日のスルジェを思い浮かべる。遊戯の盤を挟んで、くるくると表情を変えていた愛らしい様子…………散歩に付き合うのを了承した際に見せた、はしなくも我が儘を許してもらえた少女のような微笑みかた…………そのまま抱き寄せるのが自然なほどの間近から、湿り気と熱を帯びた瞳をじっと向けていた……。すべて意識的だったのだと思えば、その印象が少しく変わってくる。けれど――――いやな気持になりはしない。誘われて困惑することはあったとしても、不愉快に思う男などいないだろう――――リュイはそう思う。スルジェに対する好感度が上がることはないが、下がることもなかった。




 歌留多遊び(トランプゲーム)をしているうちに、スルジェが店へやってきた。殺風景な店内にその声が響くと、急に灯りがついたように辺りが明るくなる。香水の香りがふわりと漂った。


「みんな元気? 昨日のお祭りは楽しんだ?」


 スルジェは皆の妹分か、あるいは色娘(アイドル)なのだろう、若者たちは誰もが気をよくしたように顔つきを緩ませる。スルジェは笑みで応えつつ、皆に愛嬌をふりまきながらリュイのいる席へまっすぐやってきた。


「今日も来てくれたの、嬉しいわ」


 (カード)から軽く目を上げて会釈する。


「お茶がまだなのね。待ってて、すぐに美味しいのを淹れるから」


 そそくさと勝手知ったる厨房へ入っていった。

 ほどなくして、熱い茶の入った鉄瓶と、人数分の湯呑みを盆に乗せて戻った。皆に注いで回ると、スルジェはそこが指定席であるかのように、リュイの隣へ腰かけた。


「…………」


 スルジェは身を傾けて寄り添って、リュイの手にした札を覗き込む。


「ふん、ふん……なぁるほど!」


 手の内に対して意味深に反応した。距離が近い。体温と交じった香水の香りが、一昨日の晩のように妙な力をもってリュイの鼻腔をくすぐった。誘われていると気づいたら、距離の近さはやはり気になった。

 アミタブがにやにやしながら言う。


「おい、スルジェ、手の内を合図(サイン)で教えろよ」

「莫迦! そんな密偵(スパイ)みたいな真似しないわよ、実力で勝ちなさい」


 ふん、と小生意気に口を尖らせる。そして寄り添ったままリュイの顔を見上げて、「ねえ?」とばかりに微笑んだ。

 ちらりと目を遣ると、まずその微笑みが、それから胸元が目についた。リュイはどきりとした。


「…………」


 スルジェが――――とりわけその魅力的な部分が――――桜桃(さくらんぼ)色の唇や、つやつやと輝く豊かな茶髪、それを束ねて露わになった首筋とうなじの線、恥じらうようにあえかに光るやわらかな後れ毛……やや大きめに開いた襟もとから覗く滑らかな肌、そして充分なふくらみを持つ胸元と、椅子に腰かけることで強調されたあだめかしい腰の線――――そんなものがリュイの意識を捉えてならなくなった。目に映れば映るほど、それらがますます意識に上っていくようだった。



 ――――困ったな……――――



 思わず胸の奥で独りごちた。途端――――なにを困るのだろう…………そう思った。

 困らなければならない理由はどこにもない。そのうえ、誘われて断る理由もない。リュイのなかには少しもないのだ。が、実際に困惑している。何故…………少しばかり考えてみると、困惑の理由にすぐ思い至った。

 スルジェが、セレイの友人だからだ。スルジェの望みはひとびとの眉を顰めさせる類の行為だろう。世間知らずのリュイでもそれくらいは知っている。いつかの宿の娘とは状況が違うのだ。もしも誘いに応じたとして、それがいつか妹との間で不穏や不和の種になる可能性がないわけではない…………あるいはセレイがいやな思いや恥ずかしい思いをすることがあったとしたら…………無意識にもそう思ったのだった。そう思い至れば、誘いに応じようとは到底思えない、否、応じてはいけないのだ。

 ――――ゆえに、リュイは色娘の魔力と戦わねばならない。


 ある若者が、少々性的な下卑た冗談を言って、店内が莫迦笑いに包まれた。リュイにはその卑猥な言葉の意味が分からなかったので黙っていたが、皆、身をよじって笑っている。隣のスルジェも口に手を当て、押し堪えるようにしつつ可笑しさに肩を震わせる。


「いやぁねえ、もう」


 と、スルジェはリュイの肩にこめかみ辺りをすり寄せた。かすかな体温を肩に、甘い香りを鼻に、やわらかなほつれ毛の愛撫を頬に感じる……。

 遣り切れない思いになって、リュイはそっと目を逸らした。そして、スルジェに悟られないほどの静かな溜め息をつき、



 …………いま寄り添っているのが、肩に触れているのが…………スルジェじゃなくて、ティセならよかったのに…………



 心の底からそう思った。現実には、もう二度とティセには触れられないのだ。一瞬でもいい、指の先でわずかに触れるだけでも構わない、ティセに触れたい……。リュイはまぶたを閉じて、肩にぴたりと側頭部を寄せて楽しげに笑っているティセの姿を想像した。けれど、自身を錯覚させることも、慰めることも、とてもできやしなかった。







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