13
午前中の家事を手際よく終えると、セレイは前掛けを外して物干しに掛け、出勤のため身支度を整える。壁掛けの鏡へ向かい長い髪を結い直しながら、
「ティセ、ほんとに出かけるの? お昼は養父さんたちの分しか用意してないけど大丈夫?」
「うん、散歩したいから。外で食べてくるよ」
「そう、兄さんは帰ってくるかしら……」
リュイは古書市が立つというので、朝食後すぐ、ひとりで出て行ったのだ。
「いや、外で済ませるって言ってたよ」
確かにそう言って出て行ったのだが、ティセが散歩に出たい理由のひとつには、もしもリュイが早めに戻ってきて、養父母が昼食に戻るまでの間ふたりきりになってしまったら、平気な顔をしていられる自信がないというのもあった。
出勤するセレイと一緒に家を出て、途中で別れた。
散歩に出たいもうひとつには、イブリア街の祈りの樹を見たいという理由もあった。何故なら、「迷いのあるものは樹の下へ向かう」という古くからの言葉が、恋心に惑うティセをそこへ導いているように感じるからだ。古書市とは方向が違うので、リュイは訪れないだろうと踏んでいた。
西の市場の雑踏を抜けて、イブリア街へ出る。網の目のごとく通じる狭い路地を隔てて赤煉瓦の民家が並ぶ風景は、セレイの住む裏町と変わりはない。が、そこに集うひとびとが圧倒的にイブリアに変わる。それぞれ濃淡はあれど色の濃い肌、上衣の裾が足首まであるシュウ人の衣装が影を潜め、代わりに丸襟の上衣と腰巻き姿が闊歩する。男たちはトルクの裾を誇らしげに揺らして歩き、所帯を持つ女の手の甲には、既婚の証しである円形の刺青が見える。瞳の色はおおむね黒だが、まれに青や緑がかった瞳とすれ違う。シュウの一都市カウゼンのなかにある、ひとつの別世界のようだ。
連なる屋根の向こうに見え隠れしていた大樹の茂りが、見えるたびにどんどん大きくなる。やがて中央の広場へ出ると、驚くほどの高さで堂々と聳え立った。もう何度か見ているものの、ティセは見るたびに感嘆の息を漏らしてしまう。秋とはいえ常緑の葉は色濃く、地面にゆらゆらと木漏れ日を描いている。揺れる日差しを浴びながら、立て膝をしない簡略式の祈りを捧げているひとびとが何人か目に付いた。ほとんどは年配の男だ。祈りを捧げる男たちの身につけているどのトルクよりも美しく、大樹は整然とひだを寄せた白布を幹の高い処へ纏っている。
ティセはゆっくりと大樹のもとへ歩いていき、一等近くにある木の腰掛けに腰を下ろした。そこは、十四のころにリュイと並んで腰かけた思い出の腰掛けだ。風雨に晒されてわずかに劣化は進んでいるものの、ほぼ時を止めたようにそこにある。祈りの樹を仰ぎ見ながら、あのときを思い出す。
当時、こうしてここへ腰かけて、セレイの口から真実を聞いてしまうかどうかを、長時間思い悩んでいた。そのうちリュイがやってきて、そんな葛藤になど少しも気づいていない様子で微笑んだ。それがあまりに穏やかなうえ、ティセの抱える葛藤を知らない呑気さがそこはかとなく気に入らず、セレイの言を思い出してつい意地悪を言ってみたくなった。
――――俺たち……仲良しかな……?――――
リュイは虚を突かれたように、顔つきと声音を強張らせた。そして、「少なくとも悪くはないと思う」、冷静な返答をしたのち、瞳に感傷をたっぷりと滲ませた。困惑と、寂しさと、可愛げを含ませた微妙な言葉つきで、
――――僕がいちばん親しいのはおまえなのに、仲が良くはないと言われたら困る……
そう吐露して、息ができないほどにティセを大笑いさせたのだった。
可愛いとしか形容できない当時の様子を浮かべると、ティセの口角は思わずにやりと上がる。が、改めてその発言をくり返せば、胸が沁みるように苦しくなった。
祈りの樹がなにも変わらずにここにあるように――――いまも変わらずにそう言ってくれるなら――――……今度は大笑いどころではない、ティセは感極まって涙を堪えるだろう。まったく同じ言葉が、まったく違う感情を呼び起こす。言葉の意味することが時とともに変わっている。たとえば目の前の大樹が、いつでも同じように濃緑の葉を茂らせていても、その葉は密やかに生え替わっているように。そして春になれば毎年新しい花を咲かせるように、時は静かに流れて変化をもたらせる。同じ言葉でも受け取るティセの心が変わっている。
これから、どうしよう……
ふたりきりになるのを怖れて、こうして散歩へ出たけれど、こんなことを続けられるわけがない。そも、この町を出ればまたふたりきりなのだし、旅はまだまだ続くのだ。ティセは途方に暮れた。さわさわと心地よい葉擦れを立てる大樹を、教えを乞うような思いで見上げていた。
太陽が一等高く上がり、広場の南側にある時計台の鐘が正午を告げた。カァンと乾いた音が響き渡り、明るい空へ吸い込まれていく。祈りの樹よりずっと背の低い赤煉瓦の時計台へ目を遣って、ティセは心臓が縮み上がるまでにどきりとした。リュイの姿が映ったからだ。遠くから歩いてくる。しかも、その隣にはスルジェがいた。
――――……!!
縮まった心臓は、そのまま元には戻らずに、ずきずきと痛み出す。
……どうして来るの……なんで、スルジェと一緒なの……
膝の上で両の拳を硬くして、じっと押し黙るようにうつむいた。気づかないふりをして、このままやり過ごしてしまいたかった。空気に同化してふたりの目から消えてしまいたかった。が、無理だ。ティセが気づいたときには、もうすでにリュイは気づいていて、こちらへ歩きながらティセをじっと見ていたのだ。
ティセは視線を逸らしながらも、目の端ではふたりをしっかりと捉えていた。心が言うことをきかず、見たくもないのに見ずにはおけないのだった。リュイは右腕に本を数冊抱え、普段のとおり落ち着き払った様子で歩いてくる。隣のスルジェは左腕に買いもの篭を提げている。ふたりはやけに距離が近かった。ただの友人としては少々不自然なくらい…………知らないひとが見れば、恋人同士だと勘違いするほどにぴたりと身体を寄せている。手を繋ぐか腕を組んでいないのが、かえって不自然に思えるような近さだ。ティセはますます胸が痛い。
……来るなよ……お願いだからほっといて……!
心でそう叫びながら、ふたりを待つしかなかった。
声が届くところまでやって来て、リュイは穏やかに声をかけた。
「こんなところにいた」
ここへきてスルジェはようやくティセに気づいたようだ。「あら!」と顔つきをぱあっと明るくして、
「ティセ! ティセにも会えるなんて、今日はずいぶん幸運よ」
嬉しげに言う。声音にも表情にも嘘や偽りはない、スルジェは純粋にティセに会えたのを喜んでいる。悪意も屈託もないのだった。
本当は居たたまれないのを押し殺して、ティセはゆっくりとふたりに目を遣った。どうにか平静を装って笑いかける。
「……スルジェ、元気?」
「もちろん! さっき西の市場でリュイに会ったのよ、ね? ティセにも会えるなんて思わなかったわ」
「ね?」と愛嬌のたっぷり籠もった眼差しでリュイの顔を覗き込む。リュイはとくに反応を示さなかったが、スルジェのその親しげな仕草にティセはひどく厭な気持ちになった。顔に出ないよう全力で堪えた。ティセの胸の内が不穏の色に染まっていることに、スルジェは微塵も気づいていないのだろう。
「ティセは散歩の途中なの?」
「……ん、まあ、そんなところ」
リュイはスルジェを横目で見下ろし、
「ここで。僕はティセと戻るから」
静かに別れを告げた。その口調と表情は、もしも相手に好意があったとするならば、冷たい、素っ気ない、と思わず哀しくさせるような、悪意はないが愛想もまるでない素振りだ。出会ったばかりのころにティセを寂しい気分にさせまくった、至極リュイらしいさめやかな応対だ。ティセはそれを見て、意地悪にも安堵している自分がいることに気がついた。
愛想のなさに少々落胆したのだろう、スルジェはほんのわずかに顔をしかめた。が、すぐに改め、
「そうね、私もまだ買いものが残ってるから、ここで」
なんの不満も感じていないような素直な微笑を浮かべた。それでいて、左腕に提げた買いもの篭の縁を、なにか言いたげに右手指でなぞりながら、
「今日はたくさん買いものがあって、帰りは大変そう……」
ふうと、困り気味の顔で艶めかしく溜め息をついて、これみよがしに科を作った。手伝いを申し出なければいけないような気にさせる、あるいは申し出たい気にさせる物言いと素振りだ。ティセはすぐに気がついた。そして、そんな言いかたをするスルジェを、したたかで、卑怯で、不愉快だと感じた。同時に、そんな自分を思わず恥じた。
……なに言ってんの、私……
けれど、リュイはスルジェの策略にまったく気づかないようだ。
「そう」
表情を微塵も変えず静かに返した。ほんの一瞬、スルジェが押し黙ったようになったので、ひと呼吸分だけぎこちない空気に包まれる。
恋の駆け引きの手管を、スルジェはいくらも持っているのだろう、またすぐに笑顔に戻る。今度の笑顔は控え目ながら、甘えるような、縋るような、若い男の心をくすぐる健気さを含んでいた。リュイの瞳を覗き込みつつ、本を持たないほうの左手をそっと取ると、
「ね、また集まりに来てね……。アミタブがあなたとの対局をとっても楽しみにしてるから」
瞬間、身体のなかを熱いものが突き抜けた。炎の鞭が内側で唸りを上げたような、鋭い感情に貫かれた。我知らず、心で叫んでいた。
やめて……!! その手を離せよ――――……!!
強く握ったわけではない、そうっと愛撫するように触れただけだ。が、はにかんだようなその触れかたは、逆に淫靡なものを滲ませている。わりと簡単に身体を許す――セレイの言がよみがえり、
リュイに触るな!! ……その手でリュイを汚さないで――――……!!
錯乱したように無言で喚いた。すぐにまた我に返り、
……なに言ってんの…………スルジェはなにも悪いことしてないよ……
スルジェには決して悪意はない。悪意があるのは、むしろ自分の胸のなかだ。赤くて黒いどろりとした感情が、不快な熱を帯びながらそこで渦を巻いている。自らを嫌悪する冷静さを持ち合わせながら、それでもスルジェのほっそりとしたきれいな手は、リュイを汚しているようにしか見えなかった。
リュイはなにも気にしていないようで、従順に手を取られたまま返す。
「また」
スルジェはようやく手を離し、ふたりに向かってにっこりと極上の笑みを浮かべ、
「じゃあね! ティセもまたね!」
舞うような仕草で片手を上げた。すると、辺りの空気がはっきりと色を変えた。たとえば、枯れ野に瑞々しく咲き誇る一輪の花を見つけたときに感じるような、見るものを思わず嬉しくさせる雰囲気をにわかに纏うのだ。スルジェはそのくらい美しい。それは、セレイの持ついくぶん中性的で芸術品と形容したくなる美貌とはまた異なる、娘らしい可憐さや儚さを含んだ守ってあげたくなるような美しさだ。ティセはその美しさに、改めてはっとする。赤黒いものを胸に覚えつつも、
……とても……とてもきれい――――……
心の底から認めざるを得ない。
とてもきれいで、そして――――……
ゆっくりと遠ざかっていくスルジェの後ろ姿を、ティセはぼんやりと見つめる。ひとつに束ねた明るい栗色の頭髪が、日差しを受けてきらきらと波打っている。
そして――――……同じような肌の色をしたスルジェは、リュイの隣に並んでいるのが、とてもしっくりと馴染んで映る。北と南の違いはあれど、同じイブリアの民であるうえ、リュイの美貌と釣り合いの取れる美しさを持っている。ふたりは、言ってみればお似合いの恋人同士に見えるだろう。少なくともティセにはそう見えた。
それは、無意識にもある事実をティセの胸に突きつけた。
……自分とリュイが並んだら…………きっとちぐはぐだよね……
肌の色も顔立ちも、まるで異なっている。誰から見てもあきらかに、民族も国籍も違っている。リュイと釣り合いの取れる美しさなど、持っているはずもない。そもそも自分たちは並んでいても、下手をすれば同性だと思われるかもしれないのだ。
いままで考えたことがない。睫毛の先ほども、そんな考えが頭を過ぎったことはない。けれど、たったいまふたりが並んだ印象は、ティセにとって強烈な痛手となった。かといって、スルジェのように女らしくきれいになりたいという願いが湧いたわけではなく、男の身なりをしていることを悔やむ気持ちもまったくない。これが揺るぎない自分なのだ。ただ、スルジェのようには釣り合いが取れないだろう事実が、よりいっそうティセの自信を失わせたのだった。
リュイは隣に腰を下ろして祈りの樹を見上げている。スルジェは広場から出て完全に見えなくなった。突き上げる感情に翻弄されて、ティセはなにやらひどく疲れたように感じていた。しかも怖れていたとおり、ふたりきりになってしまった。
優しい葉音が静かな雨のように降り注ぐ。リュイは葉擦れに全身を愛撫されて、心地よさそうに目を細める。ティセの戸惑いにはまったく気づかぬように微笑みを浮かべ、
「前にも、ここで偶然おまえと会ったのを思い出した……」
先ほどティセが思い出していたのと同じことを言った。
もういちど、あのときと同じ言葉を、今度は別の意味合いを込めて言ってくれたらいいのに…………ティセは溜め息が出るほど切実に願った。けれど、思わず口から零れた返事は、まるで脈絡のない、何故言ったのかも分からないひとことだった。
「…………スルジェ……すごくきれい……」
そんな言葉が勝手に出たことに心底驚いて、ティセは足の先を見据えて呆然としてしまう。
束の間、リュイは不思議そうに首を傾けてティセを見た。
――――なに言ってるの、私……リュイが不審に思うよ……――――
平常であれば、取り立てて気にするほど奇異な発言ではないと分かるのに、おかしなことを言ったと焦ってしまう。どう言い繕うべきか、ティセは慌てて考えた。が、リュイはさほど気にはならなかったようだ。たとえば月がきれいだと言われれば、誰もが反論なく同意するように、ふたたび穏やかな笑みを浮かべて、
「ん……きれい」
囁くように返した。
途端、ティセは胸に矢を突き刺された気がした。背中がひんやりと冷たくなった。見えない傷口から血が溢れ出し、ずきずき、ずきずきと痛み出す。
――――莫迦じゃないの、自分……――――
祈りの樹を見つめるリュイの隣で、泣きたい気持ちを懸命に押さえて、必死に平静を装った。
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