11
西に傾き始めた陽の光を受けて、スルジェの染めた頭髪は金髪みたいに輝いている。同じくらいきらきらした微笑みを湛えて、ほっそりとした右腕を優美に上げた。
「はあい、みんな元気? 遅くなっちゃった」
ティセは一瞬だけその顔を見たが、何故か眺めていられずに、すぐに目を逸らしてしまった。隣の食卓にいたシュウ人の少女が、冗談めかしてスルジェに応える。
「あんたが遅いのはいつものことでしょ、おめかしに時間がかかるから」
「そんなことないわ、お化粧なんかしないもの」
熟した酢桃のように瑞々しく紅を差した唇を弓形にして返すと、スルジェを包む空気がぱあっと華やいだ。化粧してもしなくても、スルジェの美しさは本物なのだ。
スルジェは戸口に近いところに座る友人たちから順に、挨拶代わりの目配せをしつつ、迷う素振りを微塵も見せずに狭い食卓の間をすり抜ける。そして、ティセのすぐ後ろ、リュイの隣に腰を下ろした。ティセは無意識にも息を呑む。
そこは、ひとがひとり座るには間隔が少々狭く、とても親しい間柄でなければ普通は遠慮するか、ひとこと許可を得るだろう席だった。スルジェは当然のようにそこへ腰かけた。その行動はまるで、ティセのあずかり知らぬ間にふたりの距離が縮まっていることを証明しているかのように思えた。
胸の内がしんしんと冷えていくようで、ティセは顔を強張らせてうつむいていた。その隣でセレイが、硬い顔を向けて三人の様子を見つめている。
肩が触れあうような距離で、スルジェはリュイに声をかける。
「順番待ちなのね」
「ん……」
距離の近さをどう感じているのか、リュイは少しも様子を変えることなくいつもの鼻音で返す。
「アミタブほどのひとは、残念ながらきっとこのなかにはいないわよ」
「そう……そうかもしれない、彼は本当に手強い」
ふたりはティセのまったく分からない会話を交わしている。些細なやりとりに過ぎないのに、けれど、入っていけない壁のようなものを感じさせるのに充分だった。手を伸ばしても届かない遠い処にリュイはいる、そしてその傍らでスルジェが微笑んでいる……そんな気がした。同時に、スルジェの友人の集まりに快く送り出しておきながら、そんなことに衝撃を受けている自分を知る。なにをいまさら…………頭の隅でそうつぶやきつつも、
いやだ――――……
ティセは唇を噛んだ。スルジェの声も、それに答えるリュイの声さえもいやだった。スルジェの纏う香りが、いまはなにもかもいやにさせるほど鼻に付く。
そのうちに遊戯の盤が空き、リュイとイブリアの青年の一戦が始まった。ティセはドゥルガやミイシャたちの会話に加わりつつも、ほぼすべての意識が背後へ向かう。女たちの陽気な喋り声は、ただの雑音さながらにティセの耳を右から左へと抜けていくだけだった。
スルジェは静かに対局の行方を見守っている。彫刻の施された駒が秩序正しく置かれた盤上と、それと同じだけの静けさを纏って盤を見つめるリュイの横顔を交互に眺めている。熱と湿度を多分に含んだスルジェの眼差しは、ただの友人に向けるものとはあきらかに異なり、特別な異性に対するものだった。
そんな瞳を向けないで――――ティセはいらだちを募らせた。一昨日の祭りの晩に、リュイと慕わしさの籠もる眼差しを交わし合ったことを、ふと思い出す。スルジェの潤んだ瞳は、ふたりの親愛の情を邪魔し、交わし合う眼差しを遮り、汚していくように思える。そんな莫迦な話はないのに、ティセはうつむき加減になって、
そんな瞳でリュイを見るな――――……
黙りこくって唇を噛み続けていた。
そのうち、あるシュウ人の娘が菓子を盛った銀色の盆を左腕に抱えて立ち上がった。牛脂と蜂蜜をふんだんに使った手作りの焼き菓子だ。三口ほどで食べきれる大きさに切り分けてあり、個別に白い紙に乗っている。娘は菓子作りが好きで、いつか製菓店を開くのが夢だと先週話していた。食卓の間を縫うようにして、友人たちにひとつずつ配って回る。
ミイシャは受け取るとすぐに口にして、感心の目を見開いた。
「美味しい! また腕を上げたんじゃない?」
「ほんと? よかった!」
ほどなくして、ティセのところまで巡ってきた。「ありがと」と菓子を受け取り、とりあえず食卓の上へ置いた。それから娘はすぐ後ろに座るリュイを向き、
「甘いものは嫌いかしら?」
声をかけつつ、菓子をひとつ摘んですっと差し出した。
すると、スルジェがすぐさま口を挟んだ。
「ああ、駄目駄目、それじゃなくて、そっちの蜜の塊が乗ってる甘そうなのを頂戴」
言いながら自らそれを摘み上げ、リュイへ差し出した。
「はいどうぞ」
リュイは目を上げて娘に軽く礼を述べたのち、スルジェの手から菓子を受け取った。そのとき、ふたりの指先がわずかに触れあったのを、ティセは目の端に捉えた。
――――……!!
瞬間、身体の奥底から鋭い矢が放たれて、胸を貫いていった。頭のなかは真っ白になった。矢に突き破られた心臓のあたりがずくずくと強烈に痛む。ティセは青ざめた顔をふたりの後ろ姿に向けて、身も心も強張らせた。
……触れた……
心でつぶやくと、何故か瞳の奥が震えて熱くなる。
…………私には決して触れないのに……スルジェには触れる…………
あの嵐の日以来いちども触れていない事実が――――ずっと胸につかえているそのわだかまりが、いま目の前にした衝撃をティセにとって尚いっそう残酷なものにした。瞳の奥はさらに熱さを増していく。怯える小動物のように震えていく。ティセは熱いものが瞳から零れぬよう、息を凝らして必死に堪えた。
なんとはなし、というふうにスルジェは不意に振り向いた。ティセはどきりとする余裕もなかった。ティセの不自然な様子にはまったく気づかないようで、スルジェは小首を傾けるようにしてお愛想を見せた。のち、盤に集中しているリュイの横顔をちらりと見てから、ティセのほうへ身を乗り出して、そっと耳打ちをした。暴力めいた香水の香りがティセを襲う。
「ねえ、ティセ知ってる? 彼、甘いものを食べると、なんともいえない瞳をするの。なんだか可愛いのよ……」
「――――……っ!!」
心を叩かれた気がした。平手での打擲というよりは、奥底まで響く固い拳での殴打だ。その発言はティセを一撃で完全に打ちのめした。一切の言葉を失った。ただ呆然としていた。スルジェはさも愛しげに「ふふ……」と笑みを零す。なんの悪意もなさそうに、再度リュイに寄り添うようになって盤の上に注目する。
悪意などスルジェには少しもないのだ。自分の気持ちに正直なだけなのだろう。むしろ、悪意に漲ったのはティセのほうだった。打ちのめされた心のなかで、訳の分からない嫌悪と憎しみが突き上げて破裂しそうになっていた。いままで生きてきて経験したことのない赤黒い感情だ。内臓を掻き混ぜられているようなひどい動悸に見舞われる。
少しでもまぶたを伏せたら、もう堪えきれない――――……。ティセは隣に座るセレイへ、
「ちょっとごめん……」
顔も見ずに小声で言って、音もなく立ち上がる。逃げるように、できるだけ目立たぬように、店の外へ出て行った。セレイは顔をはっとさせ、やはり目立たぬように無言でティセの後を追う。
日差しのだいぶ傾いた商店街を、ティセは小走りに駆けていた。虚空に目を向けて呆然と彷徨った。休日のため、通りは普段より空いているとはいえ、日暮れ前にお使いに出るひとびとでそれなりの人通りだ。幾度となくひとにぶつかりそうになりながら、ティセは無心に駆けた。吐き気をともなうほどの動悸と、内側を満たした不穏な感情がやわらぐように。込み上げてくる涙がその熱さを失うように――――……。セレイが後を追ってきているのは気づいていたけれど、気にかける余裕もなかった。
やがて、辺りに人気がなくなった。空き地が多くなり、納屋ほどの大きさの倉庫だけが寂しく立ち並ぶ。その向こうに運河が見える。見覚えのある場所だった。
運河をのっそりと流れていく、石炭を積んだ灰色の船を目に留めて、すぐに思い出す。ここは以前、セレイからリュイの本当の生い立ちを聞いた、あの場所だ。ティセはとうとう足を止めた。
色を失ったような河辺の風景に目を向けたまま、膝の辺りに両手を置いて、乱れてしまった息を整える。ほどなくして、遠くからセレイの声が聞こえてきた。
「ティ……ティセェ……」
ティセ以上に息を乱して、ほとんど喘いでいた。それでも大事な話があるといわんばかりに、なりふり構わずティセに向かって駆けてくる。ティセは振り返らず、ただ心のなかをぐちゃぐちゃにさせたまま運河のほうを見ていた。
十歩ほど後ろに立ったセレイは息が乱れて声が出ないのだろう、荒い息を吐きながら暫し黙っていた。無我夢中で追ってきた証のように、額の生え際や後れ毛の細い髪を散らかしている。腰巻きの裾もやや乱れ気味だ。
雲が出始めた空から水鳥の群れが舞い降りて、川面を滑っていった。セレイは髪や衣服の乱れを気にすることなく、顔を上げてティセの背中へまっすぐ向いた。大事な話をするときに自然とそうなるような、芯のある声で問う。
「ティセ……本当の気持ちを教えて……」
「…………」
本当の気持ち……水面に浮かぶ水鳥を見つめてぼんやりと反芻する。
「本当は……兄さんが好きなんじゃないの……?」
「…………」
水鳥を見つめる目が、わずかに見開く。
答えを返さないティセに、セレイはいらだちを露わにする。声を尖らせ、
「……自分で分からないの!? じゃあどうしてそんなに動揺してるのよ! どんな目でスルジェを見てたのか、気づいてないの!?」
考えるまでもなく、答えは胸を満たしている。けれど、飽和した感情が喉元に詰まっているみたいで、うまく言葉にならなかった。
セレイは落ち着きを取りもどすように、いちど深く溜め息をついた。そして、さらに芯の通った低声で、ティセを諭すようにゆっくりと告げる。
「ねえ……言ったでしょう、スルジェは兄さんが欲しいのよ。…………分からないなら、ふたりが抱きしめ合ってる姿を想像してみなさいよ」
ティセは心臓をぎゅっと掴まれた気がした。そんな想像が頭をふっと過ぎったが、稲妻のような拒否感に打たれてただちに消し去った。代わりに、ありありと思い出したのは、あの嵐の日の記憶だ。
指先まで拘束してしまう圧倒的な強さで自分を抱きしめた、リュイの両腕の力……隙間なく合わさった上半身、濡れた衣服から滲む熱い体温と、かすかなその肌の匂い。呼吸を取り上げる強引な唇の塞ぎかた。優しさの欠片も感じられず、底冷えするような怖ろしさを覚えたにも拘わらず、少しもいやだと思わなかった。ティセはその力強さとあらゆる感触を肌によみがえらせ、頭のなかに再現させる。
リュイ――――……
あの腕がスルジェを抱きしめる…………自分にしたのと同じ触れかたで唇を合わせるの…………雨や風、雷鳴さえ分からなくなるようなあんな抱擁を、スルジェと……――――
声にならない絶叫が、腹の底から突き上げる。
いやだ――――……!!
突き上げて、ティセの中心を貫いていく。同時に、堪えていた涙がぼろぼろと零れ落ちる。震え声で吐露した本心は、セレイへの返答というよりは、自分自身への返答だ。
「いやだ……いや……絶対にいやだ……っ!!」
ティセはようやくセレイを振り返った。声を無惨にわななかせ、あられもなく零れる涙を拭いもせずに。それでいて、濡れた瞳を黒く美しく輝かせる。セレイをまっすぐに見据え、
「リュイが好き……リュイが好き……めちゃくちゃ好きだ…………!」
セレイはまぶたを震わせた。告白した途端、さらに大粒の涙を零し始めたティセに駆け寄り、まるで溢れる想いの手助けをするみたいにティセを優しく抱き寄せる。
「ティセ……!」
自分より少し背の低いセレイの胸元に額を押しつけて、ティセは嗚咽を漏らし続ける。そして胸の奥で、
……リュイが好き……どうしようもなく好き――――……!
目一杯の本心をさらけ出し、叫びまくる。
リュイは、私のリュイだ――――……! リュイに一等近くいるのは、自分でなければいやだ。絶対にいやだ……!! ――――あの暗緑の瞳に特別な他者として映るのは、ほかの誰でもなく自分でなければいや……!! あの熱い腕に、自分でない誰かが包まれたら……絶対にいやだ……絶対に、いや――――……!!
額を押しつけたまま、子供のように厭々をする。
……リュイ……
呼びかければ、自分を静かに見つめている暗緑の瞳が浮かぶ。すると、途方もなくなるほどの――――気が遠くなっていくほどの、愛しさが込み上げる。
そう…………甘いものを口にして瞳に情緒を滲ませる、大好きなあの秘密の癖は……私だけのものだ――――……
ぐちゃぐちゃに散らかった胸のなかが落ち着くまで、ティセはセレイの胸元を借りていた。弱々しくなってしまったティセを抱き寄せて、セレイはほんの少しの憐れみと、大きな安堵を覚えているかのような、複雑な色を瞳に浮かべていた。
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