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解放者たち 第二部  作者: habibinskii
第五章
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10

 楽しい祭事を終えて、町もひとも日常に戻る。橙色の花輪と蝋燭の残骸が散らばる通りを、ひとびとは普段どおりに通勤、通学、または買いものに出る。昨夜見た、別世界に通じているとしか思えない幻想的な町の様子と、日差しの下に晒されたゴミだらけの町のそれはひどく対照的で哀しみを誘うほどだ。目が覚めた、とはまさにこんなとき使う言葉だろう。



 夕方近くになって、リュイはまた「スルジェの友人の処へ行く」と、おもむろに立ち上がった。お三時の茶をのんびりと飲んでいたのに、ティセは急に胸のなかに靄が立ち込めた気になった。今日はセレイがいて、腰を上げたリュイに立ち向かうようになって言う。


「兄さん……!」

「なに?」


 なんの他意もなさそうな様子で返されて、セレイはたちまちためらい気味に一瞬口を結んだ。さも言いにくそうに、辿々しく問いかける。


「……スルジェの友人たちは……そんなに楽しいひとたちなの……?」


 リュイは少しだけ考えてから、


「ん……いろいろな遊びを教えてくれるんだ」

「……遊び?」

「そう、歌留多(トランプ)のやりかたを幾つも教わった」

「……歌留多……」

「なにより、盤遊戯のとても強いひとがひとりいて、対局が愉しみなんだ」


 その様子は無邪気にも見えるほど率直で、世の男たちの遊戯(ゲーム)に寄せる情熱そのままだ。こんなところは普通の男となんら変わりがないのだった。隠しごとのない真実なのだとすぐに分かる。が、セレイは渋面になって、まるで非難するように食い下がる。


「でも……スルジェの友人たちって……ちょっと不良じゃない?」

「そう……? このまえ会ったきみの友人たちよりは、少しだけ砕けているようには思うけれど……」

「……うぅ……」


 まだなにか言いたげな顔つきをしながらも、引き留めるための言葉をそれ以上思いつかないのか、セレイは困ったような目をして口籠もっていた。相手が義兄トゥアンであるなら、遠慮なく理不尽な我が儘のひとつも言えるのだろう。けれど、おそらくリュイには言いづらいのだ。

 ティセはそんなセレイを見て、なにやらもどかしく思った。うっすらとしたいらだちさえ覚えていた。



 ……行って欲しくないなら、もっとはっきり言えばいいのに……



 セレイが止めてくれるという期待が、そんなつぶやきをもたらせたのかもしれなかった。が、昨夜セレイにした返答が本心だと信じるティセは、そのきつめの心の声を自ら聞き流してしまう。

 胸の内を覆った靄を漠然と意識しながらも、なんともないような顔をリュイに向けて、


「セレイはおまえが不良になっちゃうんじゃないかって、このまえから心配してるんだ」

「不良……?」


 まさか、とリュイは微笑んだ。


「夕飯取っておくよ?」

「ん……ありがとう」


 なにか違う気がしながら、ティセは快くリュイを送り出した。セレイは納得がいかないような顔を兄の背に向けつつも、兄にもティセにもそれ以上は言わず、引き下がった。








 玄関の外でしたとても小さな物音に、ティセは真っ先に気がついた。まるで、リュイの帰宅を待ちわびるあまり、気持ちが逸っていた証拠のような敏感さだった。簡単な旅日記を書いていた手をぴたり止め、


「あ、帰ってきた」

「え? なにか聞こえた?」


 セレイにはまったく分からなかったようだ。


「うん」


 ティセはぱっと腰を上げ、急いで玄関へ向かった。


 薄暗い玄関でリュイを出迎える。開いた折り戸から夜風がふうと吹き込んだ。風は夜気の匂いとともに、別の香りを運び込む。リュイの衣服に移り込んだ香り…………煙草の匂いと、そこに紛れながらも自己主張をするような、ほんのかすかなスルジェの香りだ。


「おかえ……」


 途端、「おかえりなさい」は途切れてしまう。

 一昨日の夜よりも弱い移り香であったにも拘わらず、それは一昨日感じた何倍、何十倍もの不快感をティセに覚えさせた。同時に、またもや激しい動悸と強い不安に襲われる。胸のざわめきに耐えかねて、ティセはつい、わずかにだが顔を歪ませた。

 リュイはすぐに気づいたようで、


「どうした?」


 顔をじっと覗き込む。


「え……」


 ティセは動揺した。どうもしない……どうもしていない……どうにかする理由はないのだから……自分に言い聞かせるように、頭のなかでくり返す。


「ううん……なんでもないよ。それよか、楽しかった?」


 小首を傾けながらも、リュイは「ん……」と返す。


「台所におまえの分の夕飯取ってあるよ」

「ありがとう」


 リュイが台所へ入っていくのを、ティセは玄関に佇んだままなんとなく見届けた。鼻腔に流れ込んだかすかな香りが肺のなかで膨張し、血液に混じり込み、身体中、手足の先まで巡っていくような気がしていた。なにかの病原菌に全身が冒されていくように、隅々まで不快感が広がっていく。その不快感はほどなくして、嫌悪感に変わっていった。

 呆然と立ちつくしながら、身体のなかに嫌悪感が厚く沈積していくのを、ティセはありありと感じる。



 いやだ――――……!



 声にできない叫び声が、奥底から突き上げる。けれど、なにがそれほどいやなのか、自分でも説明ができなかった。

 スルジェの纏う香水は高価なものではないにしても、充分に良い香りであるし、なによりも彼女にとてもよく似合っている。その美しさと淑やかさをよりいっそう引き立てる。再会した際に感じたとおり、香りそのものはティセ自身間違いなく好ましいと思えるものなのだ。

 にも拘わらず、リュイの衣服から漂うほんのかすかな移り香は、どうしても良い香りには思えなかった。どころか不快さに満ち満ちて、鼻腔に流れれば息が苦しくなるほどの動揺をティセにもたらした。ほんのかすかな香りだというのに決して無視できない。ひどくいやな香りに感じて堪らない。



 いやだ――――……いやだ――――……!!



 冷たい空気に満たされた玄関に立ったまま、ぎゅっと目を閉じて声なき叫び声を何度も上げる。



 いや――――……でも、なにがそんなにいやなのか分からない…………



 あの白衣に染み込んだ(よご)れにも似たいやな香りを、どうにかして消してしまいたい。そして、余計なものでふたたび汚されないように、どこかきれいなところへ仕舞っておきたい――――!


 どろどろとした嫌悪の情に息を苦しくさせながら、ティセは自分でも訳の分からないことを胸の内でくり返していた。










 カウゼンへ到着してから二度目の休日が訪れた。午後にはまた、暗黙の了解となっている友人たちとの集まりがある。皆、適当な時間に適当な話題を持って、馴染みの茶屋へと足を運ぶ。三人が店に着いたときには、すでに顔ぶれは概ね揃っていた。


「みんな元気?」


 先頭に立ったセレイが微笑むと、皆が「来た来た」と笑顔を見せる。先週リュイに盤遊戯のシュウ式規則を教えていたイブリアの青年が言う。


「セレイの兄さんたち、出発はまだだったか。また会えてよかった!」


 リュイは薄く笑みを作り、青年に軽くうなずく。ティセも笑顔を返しつつ、そうっと店内を見渡した。スルジェはまだ来ていなかった。


 …………なにを気にしてんだよ…………


 無意識にもそれを確かめてしまったことが、恥ずかしいような、うしろめたいような気がして、自分がいやになる。

 青年はリュイの左肩に手を置いて、奥の席のほうへと促す。そこでは二組の若者が盤遊戯を挟んでいる。


「このまえ教えたシュウ式、覚えてる? おさらいしよう!」

「完全に覚えた。もういつでも対局できる」

「ほんと!? よおし、盤が空いたら早速俺と勝負だ!」


 青年は真っ白な歯を見せて快活に笑い、リュイに勝負を申し込んだ。

 気さくな雰囲気はないにしても、兄が難なく皆の輪に入っていけるのを見て、セレイは安心したようににっこりとした。そしてティセを連れ、ドゥルガとミイシャが手招きしている席へ向かった。


「ティセ、お祭りどうだった? きれいだったでしょう」

「めちゃくちゃきれいだったよ! あんなお祭りが私の村にもあればいいのにと思った」

「でしょう!」


 六人掛けの簡素な食卓、ティセとセレイは長椅子に並んで、ドゥルガ、ミイシャと向かい合うかたちに腰を下ろした。ティセのすぐ後ろにある奥の食卓で、リュイと先ほどの青年が盤遊戯の順番を待ちながら熱心に観戦している。食卓と食卓の間はとても狭いため、振り返ればリュイとも会話ができるくらいだ。

 他愛もない、取り留めもない話で、暫し盛り上がる。甘い炒り豆をつまみ、湯呑みが空けばお代わりの茶を頼み、小腹が空けば各々好きに軽食を注文する。店主の老婦はこのなかのひとりの身内であり、煩いことはなにも言わない。



 ふいに扉が開いて、カランカランと鐘の音が鳴り響いた。ティセははっとして、あまり好ましくない予感とともに戸口を振り向いた。そして、にわかに気持ちを沈ませた。



 ……スルジェ……










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