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陽が入りかけて空が夜の気配を漂わせるころ、カウゼンのすべての家が祭事の準備を調え終わる。近所の数軒が寄り集まって拵えた、「宿り」と呼ばれる藁を編んだ依り代が、適当な間隔を空けて道々に設置された。各家ではたくさんの蝋燭を用意して、自宅の玄関のなかから前庭を通し、「宿り」まで達する蝋燭の道を準備するのだ。
陽が落ちきったのを合図に、家族が連れ立って蝋燭に火を灯す。今夜「宿り」に迎える古い土着の神を我が家に招き入れるために。神の正式な長い名もその経歴も、ほぼ忘れ去られていたとしても、それが幸福の神さまであることだけはひとびとは忘れない。信心深いものは祈りや願いを込めながら蝋燭に火を灯す。そうでないものや子供たちは、ただ家族が揃う祭りを楽しむために火を灯す。
ガウリ家でも蝋燭の道を拵えた。トゥアンが指南役となり、ティセとリュイがその指示どおり設置したのだ。セレイと養母は台所で祭事用の食事を準備した。ティセはそちらも興味があって、外と台所を行ったり来たりだ。
万端調え、家族は「宿り」に集まった。近所の家族が大勢出ていて、暮色に包まれた裏町の道は大変賑やかだ。子供たちは蝋燭の道を蹴散らさないように細心の注意を払いながらも、興奮して跳ね回っている。
依り代のもとに灯された聖火から、養父は手にした木切れに火を移す。いちばん始めと、玄関のなかにある最後の蝋燭に火を灯すのは家長の役目と決まっている。
「さあ始めよう」
養父は口のなかでなにか願いごとをつぶやきながら、石畳に立てられた赤い蝋燭に火を灯した。暗くなりかけた足元に小さな火が揺れる。すると木切れはトゥアンに渡された。トゥアンは心のなかだけでなにか願ったのか、ひょうきんさが返って際立つような神妙な顔つきになって火を灯す。そうして、家族はひとつずつ蝋燭に火を灯しながら、ゆっくりと自宅へ戻る。ティセとリュイも数本の蝋燭に火を灯した、まるで家族の一員であるかのように……。
玄関へ辿り着くころ、空は夜の色に染まりきった。来た道を振り返れば、ご近所の分も合わせて、幾つもの光の筋が輝いている。
「きれい……」
ティセは思わず感嘆の声を漏らした。生活臭漂う裏町のはずが、夢でも見ているのかと紛うような幻想の町となって目に映る。光の帯となった小道は、どこか別の世界に通じているように現実感を失っていた。子供たちの歓声さえ、別世界から木霊する可愛らしいもののけの声のごとく耳に響く。
リュイも同じように振り返り、幻想の町を見つめている。暗緑の瞳に光の帯が映り込む。ひとしきり眺めたのち、静かにティセを向いた。なにも言わずとも、その眼差しは共感を求めて語りかけている。
とてもきれい……
ティセはわずかに首を傾けて同意した。
感動を分かち合う――――ふたりの旅の醍醐味を、ティセはしみじみと思う。すると、日中胸に渦巻いた不快な感情は急速に薄まっていくように感じるのだった。
玄関に入り、養父が最後の蝋燭に火を灯す。
「最後の蝋燭は特別だ。いま我が家に神さまがやってくるよ」
小さな子供を諭すような温かみのある口調で言った。トルクの裾をゆらりと揺らして、養父は蝋燭に軽く一礼をする。のち、それとなくリュイを向き、目を見ながら最後の願いごとを口にする。
「いまここにいる者たちが、みんな幸せでありますように……」
ジジジ……と音を立てて蝋燭に灯が灯る。リュイは胸を衝かれたように、はっとしていた。
幸福の神さまを無事に迎え入れた家々では、特別に拵えた料理と菓子を頂きながら、家族団欒のひとときを過ごす。近くに住む親族が一同集まったり、普段は時間が合わず家族と夕飯を取れない勤め人も今夜は居間で憩うのだ。祝日ではないので仕事は休みではないけれど、この日は誰もが浮かれていて仕事は朝から等閑だ。残業どころか早引けしてしまっても、それが当然だと雇用主も含めて誰もが思っている。
特別に拵えたといっても肉料理などのご馳走ではない。縁起がよいとされている食材……例えば干した木の実や果物、乳製品などをふんだんに使用した具飯や詰め物、焼き菓子だ。居間の敷物の上には昼間買ってきた赤い篭入りの菓子を中心に、真鍮の皿に盛ったそれらが用意された。
茶の入った硝子の湯呑みがひとつ余分に用意され、赤い篭の横に置かれている。ティセが興味を示すと、養母がにっこりとして説明する。
「今夜招いた神さまの分なのよ。見えないけれど、いま一緒にお食事をなさってるのよ」
「へええ!」
見えない神さまを目にしたいとばかりに、ティセは宙に目を瞠る。家族が微笑っていた。
食後、三人の男たちは盤遊戯をし始めた。台所を片付けて女たちが戻ると、ちょうどリュイと養父の対局が始まったところだった。早くも眉間に難しそうな皺を寄せた養父と、落ち着き払ったリュイが対面している。トゥアンは対局が始まるや、なにやら大仰な仕草で腕を組み、盤をじっと凝視する。
ティセは邪魔をしないよう、リュイの隣にそっと座り込んだ。が、盤を見て「そういえば」とばかりに声を上げる。
「リュイ、シュウ式もできるようになったの!?」
ティセが教えたイリア式の規則ではなかったのだ。リュイはにやりと笑い、
「そう、集まりで教わったシュウ式の規則はもう完全に覚えた。今度は僕がおまえに教えてやる」
リュイが一手を指すと、途端、養父の眉間の皺は海溝のように深くなる。
「むむむむむ……」
「さあ父さん、どうする? 早々に難局だ」
トゥアンが口を挟めば、
「うるさいっ!! 黙ってなさい。気が散るっ!」
穏やかな養父とは思えない勝負師魂を剥き出しにして怒った。が、盤遊戯に関してはいつものことなのだろう、セレイも養母も呆れ気味に笑って見ている。
長い考察ののち、養父は慎重な手つきで駒を取り上げて、思うところへ進めた。犀の骨でできた駒がコツリと小さな音を立てる。そんなかすかな音が耳に届くほど、居間は養父のために静まりかえっていた。普段のおおらかさからは意外としか思えないその姿に、ティセは内心ニヤニヤしていた。
リュイは養父の指した駒を見据えて、静かに瞬いた。先ほど対戦したトゥアンの腕前とはあきらかに水準が異なっているのを悟ったようにだ。トゥアンもそれを承知しているようで、ヒュウと口笛を吹いた。
「父さんはね、若いとき盤遊戯の地区大会で優勝して、全国大会出場を決めたことがあるんだって。そのときの大会は戦況が悪化してお流れになったそうだけど、もしもやれていたら十位以内には入れたのにって、変な自信に溢れてるんだ」
「全国大会? すっごい!」
尊敬の眼差しを向ければ、遠目に眺める養母とセレイから横槍が入る。
「若いときの話よ、過去の栄光」
「いまは滅多にやらないんだから腕だって落ちるわ、あんまり力まないで、養父さん」
と、妻子をギロリとひと睨みし、
「黙ってなさい!!」
真剣なリュイを除き、皆が苦笑した。
指し手の放つ静かで熱い緊張感と、のんびり見守る家族たちの気楽さのなかで対局は進められた。やはり腕が鈍っているのか、養父の劣勢で大詰めを迎えた。トゥアンは断然父の味方につき、横から様々に口を出す。養父はいちいち煩そうだが、怒る余裕もなさそうだ。対してリュイは、対局が進むほど緊張を解いていくようだった。ある一手を指したとき、隣に座るティセにうっすらと笑んだ。すでに幾通りかの展開を読んでいて、いま勝利を予感したのだと分かる。頭に余裕ができたのだろう、
「ティセ、茶をもらえる?」
「はいよ」
茶のお代わりを注いでやり、ついでに甘い菓子を小皿につまんで差し出した。
「ありがとう」
ティセは目を見てうなずいた。
微笑いかけるリュイの瞳はとてもやわらかい。ほかの者へ向ける幾分醒めた眼差しとは異なっている。ティセはその奥に自分に対する親しみを明瞭に見ることができる。慕わしさと言ってもいい、それは自分のなかにあるリュイへの慕わしさと同等のものだ。同じ景色と体験を共有し、共感し、感動を分かち合う、かけがえのない相棒なのだ――――……。
改めてそう思うと、日中覚えた不快な感情はいよいよ薄まって完全に失われていった。リュイは普段と変わりがない、そしてすぐ隣で慕わしげに微笑んでいる。自分もまた変わりなく、同じ時間を穏やかに過ごしている。あの不安に似た感情や、息苦しいほどの動悸はなんだったのか……。ドゥルガの噂話のいったいなにが気になったのか、なにが自分をそうさせたのか、ティセにはますます分からなくなってしまった。気のせい、気の迷いに違いないと呆れ笑いで一蹴できる。
特別の夜を心地よく祝うための麻の煙が裏町に漂っている。少しだけ開けた居間の窓から、その青い香りがかすかに流れ込んでくる。鼻腔をくすぐられるだけで恍惚となるのはそれこそ気のせいに過ぎないが、ティセはなんだか夢心地でいた。甘い菓子を静かに口にするリュイの隣で心から安心していた。ぬくもりそっくりの幸福を覚えていた。
どこの家でもくつろぎの晩を終えて、裏町の生活音はすっかりと止んだ。リュイはやわらかな瞳をしたまま、
「おやすみ」
ティセに告げ、トゥアンの部屋へ入っていった。
セレイは敷き布団の上に横座りになって、なんとなくといった仕草で籾殻の枕を胸に抱き寄せた。自ずと滲み出てしまったというような笑みを湛えて、
「兄さん……よくあなたのこと見てるわね」
寝転がっていたティセは半身をひょいと起こし、
「え、そう? ……そうかなぁ」
「そうよ、しょっちゅう見てる。……子供のころも前にここに来たときも、兄さんは会えばいつも私のことをじいっと眺めてたから、私にはよく分かるのよ」
「確かに前にここへ来たときはそうだったね。庭で洗濯物干してるセレイを、リュイが居間からじいっと見つめてたのをよく覚えてるよ」
そのときの様子を思い出す。感傷を溶かし込んだ瞳でただ妹を見つめるだけのリュイに、疑問と違和感を覚えたことも。セレイはわずかにはにかんだ。
「いやなわけじゃなかったけど…………少し恥ずかしいなあって思ってたから、視線が逸れてなんだかちょっとだけ気が楽になったわ」
と、セレイは笑う。幼いころからじつは恥ずかしかったのだろう。本人に聞かせてやりたいとティセも笑った。
やがて、セレイはゆっくりと笑みを収め、いやに真面目な顔つきになった。
「……ねえ、ティセ…………昼間、ドゥルガたちが話してたこと、あなたはどう思ってるの……?」
一段低い落ち着いた声で尋ねた。慎重さを帯びて耳に届く。途端、ティセは急激に気持ちが落ちていくような気分に襲われる。夢心地が一瞬にして覚めたかのように。無意識に表情から微笑みが失われ、胸の内側がざわめいた。
「…………」
投げ出した足の先を見据えながら、ティセは返答を考える。不安に似たものが、まるで重い鍋の蓋を押し上げる湯気のような勢いで、ふたたび湧き出していた。胸のなかは掻き乱されて、適切な回答が出てこない。うつむき加減で黙るティセの返答を、セレイは真剣な面持ちで見つめて待っている。
明瞭さを欠いたらしからぬ口調で、足先を見つめたまま答える。
「…………なんていうか……リュイが軽いひとみたいに思われてるなら、それは全然違うと思うし、そんな評価は心外だけど……」
声はくぐもって、途切れてしまう。セレイは続きを待たず、かすかに眉根を寄せてティセに私見を告げる。
「スルジェ…………たぶん、兄さんに気があるんだと思う」
どきり、心臓が冷たく縮み上がった気がした。が、そんな反応を示す理由や原因はどこにもないはずなのだ。だからこう返した。
「……そういうことは、私がとやかく言うようなことじゃないだろ……自由なんだから」
「…………本当にそう思ってる?」
何故か念を押すように確かめる。ティセはそれが変に気に障り、わざわざ再考する必要などないとばかりに、
「うん、そう」
即答した。
……そう、だって、そんなの当たりまえじゃないか……
心のなかでくり返す。――――そのじつ、なにか違うような気もしていた。違うような気がどこかでしながら、違うはずはないと、心のなかで言い張っていた。
セレイはまだなにか言いたげな目元と口元をして、自分の足先に目を向け続けるティセを見つめていた。そして、言葉をぐっと呑み込んだかのように、不満げに唇を軽く噛んだ。
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