5
ティセは悶々としながらも、暗い顔つきを見せないよう心がけて勤務した。笑顔で常連客を迎え、いつもどおりに心を込めて調理した。けれど正直なところ、思いがけないリュイの返答で頭も胸もいっぱい、気もそぞろだ。
本当に気持ちが変わってしまったのか、もうともに歩く気などないのか、もはやふたりは、このうえない相棒ではなくなってしまったのだろうか……。頭のなかでそうつぶやくと、なんだか怖いような気さえする。不安で動悸が止まなかった。
汚れた皿に竈の灰をかけてこする、その手をふと止めて、口のなかで小さく言った。
「……あの日の誓いはもう、無効なの……?」
その声はあろうことか、自分でも情けないことに、涙が交じって震えていた。
夕飯どきを過ぎ、後片付けがおおむね終われば、あとは女将に任せてティセは退勤する。
「じゃあ小母さん、また明日。お先に失礼します」
「はいよ、お疲れさんね」
日常、これから母と遅い夕食を取る。そのため急いで帰宅をするのだが、今日はそんな気分にはなれない。夜道をとぼとぼと歩きながら、リュイの返答について考える。
……誘うつもりがないのは、いったいどうしてだろう……
リュイは理由を言わなかった。ただ、目を逸らして黙しただけだ。聞けば教えてくれただろうか。何故かと問えなかった、それはその理由を知るのが怖かったからなのだと、ティセはいま思う。そんな自分を、
「弱虫……っ!」
息交じりの小声で罵倒した。そして、自分を睨みつける気持ちで前方の闇をじっと見据える。黒い瞳に力が籠もると、おのずと自身を奮い立たせる意欲が湧いてきた。足取りにも力が入る。
そうだ、理由を聞かなきゃ、なにも始まらない……!
理由を聞いて、納得できるならしかたがない、できないのなら自分の思いを説明して、リュイの気持ちを変えなければいけない。リュイの気持ちを――――……。
そのとき思い及ぶ。以前の旅の始めにも、頑ななその気持ちを変えるため、五日間に及ぶ激闘を耐えたのだった。するとなにやら、ティセは小腹が立ってきた。
「なんだよ、あいつ……」
悪態を吐きつつ、なだらかな坂道を腹立ち紛れにもりもりと歩く。やるもやらないも、できるもできないも、あんた次第――――……かつて、ハマの宿の女神に言われた言葉を思い出す。その言葉と腹立ちが、ティセをますます元気づける。
坂を上りきったとき、一陣の夜風が吹き渡った。左手に立つ立派なジャガランダの木がざわざわと葉音を立てる。ティセはなんとはなしに足を止め、それを見上げた。
あの日の誓いがふたたび胸に浮かぶ。あの清亮な葉擦れの音と、降り注ぐ数多の鳥のさえずり、きらきらと揺れる木漏れ日、向かい合うリュイの真摯な瞳、粛として揺るぎない誓いの言辞――――……。
……神聖な誓いを、リュイが違えることなどあるだろうか――――……
心のなかを、確信めいたものがすうっとまっすぐに降りていった気がした。同時に、胸を満たしていた不安がほぼ掻き消えた。ティセはもう落ち着きを取り戻した。
「誘うつもりがないって……それならどうしてわざわざここへ来たんだよ」
挑むようにつぶやいた。心持ちを強くして、帰宅を急ぐ。
滅多にしない外出をして、母は大変疲れているようだった。「ああ、もうだめ」と布団へ横になった途端、落ちるように眠りについた。ティセはその寝顔をじっと確かめて、
……これなら、ちょっとやそっとじゃ目を覚まさないな……
ランプを消して室内を真っ暗にしてしまうと、自室にいるリュイのもとへ向かった。
コン、コン、コン、と妙にゆっくりもったいぶって戸を叩いてから、
「リュイ、起きてるだろ? 入るよ」
ランプを煌々とつけて本を読んでいた。リュイは目を上げてティセを見たが、その眼差しは少し戸惑っているようだった。話があれで終わるはずはないと、充分承知しているのだろう。
戸をぴたりと閉めて、
「母さんは疲れ果てて爆睡してる。わざわざ外へ出なくても話し声は聞こえないだろう」
やたら堂々とした調子で、リュイの真向かいにどっかりと胡座を組んだ。ついでに偉そうに腕も組んでみる。そんな様子をリュイは黙って見ていたが、やがて目を逸らして伏し目になった。長い睫毛が目元に影を落とす、その影がどこかつらそうな面持ちに見せる。それを眺めていれば、やはり気持ちが変わったというわけではないように、ティセにはますます思えてくる。
一音一音を明瞭に発するように問う。
「リュイ。おまえはここになにをしに来たんだよ」
目を逸らしたまま、リュイは答える。
「……久しぶりに会いに来ただけ……」
「……それだけ?」
「そう」
ティセは盛大に溜め息をついた。
「おまえ……ずいぶん嘘が下手くそになったんじゃないの?」
「……!」
リュイは目を上げてティセを見た。
「大嘘つきのおまえがさ、少しも隠せてないぞ」
顔つきが硬くなり、睨むような目つきに変わる。ティセは怯まない。九割の自信を持って言う。
「一緒に行きたいって顔に書いてある。……鏡見てみる?」
リュイはさらに顔つきを硬くした。長らく押し黙っていたが、やがて、あきらめて往生したように深い溜め息をついた。小首を傾けて、呆れ気味に言う。
「僕を変わらないと言うけれど…………おまえこそ、なにも変わらない。その自信はどこからくるの……?」
「腹の底だって、十四のころ言っただろ」
「…………」
もういちど溜め息をつき、困惑しているような声と調子で、
「……けれど……非常識だろう……。それに、おまえの母親が許すはずがないだろう」
もっともな意見を、フンと鼻で笑ってやる。
「非常識…………おまえの付け焼き刃の常識で考えたのかよ」
「……!」
癇に障ったようにティセを睨んだ。構わずに続ける。
「非常識でもけっこうだ。私には結果をぜんぶ背負う覚悟がある」
毅然として告げた、黒い瞳は強い意志を湛えている。その眼差しと言葉に胸を突かれたように、リュイは目を見開いた。
「それに、母さんはもう了承してるよ」
「まさか!?」
夜更けであるのを忘れたような声を上げた。ティセはニッと笑い、
「と思うだろ? でも本当なんだ。母さんはもう私のしたいことに反対はしない。リュイが来たら行くと言ってある」
「…………」
にわかに勢いを失ったふうに、リュイはふたたび伏し目になった。なにか考え込んでいるのか、敷物の一点を見据え始める。部屋はまた静まりかえる。
なにか物言いたげなリュイの睫毛の先を見つめていた。見ているうちに、心に残っていた残り一割の不安がもやもやと立ち上ってきた。素直になって、ティセはその不安を隠さずそっと口にする。
「それともリュイ……本当に気が変わったの? ……誓いはもう無効なの?」
やや間を置いて、リュイは顔を上げた。
「……少しも変わらない。誓いは有効だ」
囁くように告げる。そして、辿々しさのある言葉つきで、あの返答の理由を語り始めた。
「僕は……もしもおまえが本当に女だったら、誘わないつもりでここへ来たんだ」
「は!?」
ティセは驚きのあまり目を真ん丸にした。まさかそんなことを言うとは思わない。
「……あまりに非常識だということくらい……僕にだって分かるよ……」
「……おまえ、なに言ってんの? ちゃんと確かめただろう? その手で!」
その右手をびしりと指す。と、リュイはその手をわずかに強張らせ、居たたまれなそうに目を細めた。遣り切れないと言いたげな口調で、
「それはそうだ、けれど…………けれど……あとになって、どうしても信じられなくなって……もしかしたら、からかわれただけだったのかもしれないと……」
あれからずうっと半信半疑でいたようだ。あんなことまでして証明してみせたというのに、ティセは心の底から唖然とし呆れ返った。リュイはますます居たたまれなそうに完全に顔を背けてしまった。
白けた空気が暫し漂っていたが、「まあいいや……」とティセは気を取り直す。眼差しと声を真摯にさせて、改めて思いを語る。
「リュイ……。たとえあまりに非常識だとしても、私は一緒に歩いて行きたい。おまえさえよければね。おまえはどうなのか……本当のところをちゃんと聞かせて」
リュイはおもむろにこちらを向いた。いままで滲ませていた戸惑いや決まりの悪さを跡形もなく消している。同じく迷いを消し去った声で、はっきりと告げる。
「おまえと歩いて行きたい――……」
喜びが、ティセのなかを突き抜けていった。
「本当に、それが本心だな……?」
ゆっくりとうなずいてから、ティセの目を正面から捉え直し、
「行こう、ティセ。…………宝物を探しに」
「……リュイ!」
ふたりは同じほど瞳を強くして、どちらからともなく堅い握手を交わした。そして、ニヤリと笑い合った。
明くる晩、母と娘の布団が並んだ部屋は夜更けの静けさに包まれていた。ティセはその上に背筋を伸ばして座り、神妙な顔つきをして母に差し向かった。耳を傾ける母もまた、同じほど真剣な表情だ。
リュイと行きます――――
束の間黙っていたが、母は穏やかに答えた。
「どんなことが待ち受けていても、逃げたりしないわね?」
「もちろん。前に母さんに言われたことは、しっかり胸に刻んである」
「それなら、あなたのしたいようにすればいいわ。母さんは大丈夫、のんびりとあなたの帰りを待ってるわ」
大きな気懸かりとたまらない寂しさの予感でいっぱいであるはずなのに、母はおおらかに微笑んだ。その優しい微笑は、厳しい顔をされるよりもずっときつく、ティセの胸を締めつけた。つい、鼻の奥がつんとなる。
「……母さん……ありがとう」
母は部屋の壁にゆっくりと目を向けた。リュイのいるティセの自室を壁越しに眺めるように。やわらかなランプの灯りに照らされた顔の陰影が流れるように揺れ、描き直される。
「彼は……とても静かなひとね」
しみじみとした調子で言った。
「父さんとは全然違うわ……」
ティセはクスリとして、
「そうだね、父さんは明るくてよく喋るひとだった。少し子供っぽいとこもあったよね」
「まあティセったら……」
母は目線を戻し、ふふふと笑う。ティセもまた、壁越しにリュイを見つめる。短剣を抱いて眠っている姿を思いながら。
「リュイほど静かなひとは見たことないよ。……でも、私の一歩先をただ黙って歩いてるだけで、ものすごく安心するんだ……。リュイはそんなひと」
道の先をまっすぐに見つめて歩く姿をまぶたに描く。薄暗い部屋のなかではより黒く大きく見えるティセの瞳が、さらに潤んだような深い黒に染まる。娘のそんな眼差しを、母はじっと眺めていた。
食堂の女将へ退職を告げるのに、ティセは非常に心を悩ませた。恩を仇で返すようで、心苦しくてたまらない。お話しがありますと改まり、昼どきを終えて一段落ついた店内の食卓に向き合った。母に対したのと同様に、神妙な顔つきで退職を告げた。
ふたたび旅へ出ることに、女将は驚きを隠さなかった。が、申し訳なさをいっぱいにするティセの佇まいを見て言った。
「まあねえ、あんたの母さんが許してるなら、私がとやかく言うことなんにもないけどね……。にしてもティセ、あんた大丈夫かい、またみんなの目が厳しくなるよ。私はそれがいちばん気懸かりだよ……」
「うん、分かってる。でも覚悟はできてるんだ。心配してくれてありがとう」
女将はさっぱりと笑み、
「辞めたあとのことはなんとかするから、それまでは来てくれるね?」
「もちろん! ありがとう、小母さん!」
女将は甲にえくぼのような窪みができるほど肉付きのいい手で、ティセの頭にポンと触れ、しんみりと囁いた。
「あんたは……ほんと、男の子に生まれてきたほうがよかったかもしれないねえ……」
月のものが訪れるたびに湧き上がる無念に似た思いが、そっと頭をもたげた。
……そうだよね、小母さん……
ティセは女将の顔を見て、切なげに微笑んだ。
ほどなくして、二度目の旅立ちの噂が村へ広まった。驚愕と呆れ、世間の目や常識を無視する者への憤り…………村びとたちは様々な思いを抱いてティセを見た。なかにはそこはかとない憧憬を覚えるひとびともいたのだが、それは口には出さない。憧憬は妬みに変えられ、非難の目となってティセを突き刺した。
すでにティセを受け入れてくれたひとのなかには、女将のように理解を示すひともいた。が、そうでないひともいた。昨日まで挨拶を交わしていたひとが、噂を聞きつけて冷たい目を向けるようになった。もとより赦していない村びとはますます不信を強め、まるで罪人を咎めるような目つきをした。
心の用意はできている。気懸かりはただひとつ。この冷たく厳しい視線が、どうか母に向かいませんように――――――……ティセの願いはそれだけだ。
リュイはますます外へ出ない。ひとびとの視線が煩わしいのだろう。根が生えたようにティセの自室に籠もるか、そうでなければひと目の届かぬ裏庭に過ごしている。
本来なら村中を案内したいところなのだが、とても叶わない。呆れ返るほど下卑た新しい中傷の言葉を、ティセはさっそく耳にしていた。例の噂を信じるひとびとが二度目の旅立ちを知って、おもしろ可笑しげに言いふらしていた。その男がそれほどよかったのだろうと、そのために旅に出るのだろうと、吐き気を催しそうに下品な笑みを浮かべながら……。
ひどい侮辱の言葉がもしもリュイの耳に入ったら…………考えると、身悶えたいほど居たたまれなくなった。やましいことはひとつもないのに、低俗極まる視線をリュイに向けられるのが許しがたく、そして申し訳なかった。くだらない連中の口を塞いでしまえないことが悔しくて、痛いほど奥歯を噛みしめた。
けれどなによりも、自分がそんな中傷を受けている事実を、リュイに知られたくないという思いが一等強かった。それは、中傷の内容そのものや受けている事実が、ひどく恥ずかしいからというだけではなかった。むしろ、ティセは別のことを怖れていた。
その事実は、もうひとつのある事実を明白にしてしまう。そんな言葉を受けてもしかたのない性を紛れもなく持っているという事実――――……それを、リュイの前で露わにしたくなかったのだ。
少年としてともに旅を続け、少年として友情を築いた。このうえない相棒という、最高の関係だ。
むろん、リュイはティセが少女であるのをもはや充分知っている。それでもできることならば、ティセはあのころのままの存在でリュイの前に立っていたい。あのころのままに、遠くへと歩いて行きたい。
少しも変わらないなど、どだい無理な願いかもしれない。頭の隅では理解しつつ、それを切望していた。無念に似た思いを湧き上がらせる事実を、できうるかぎり有耶無耶にしたいのだった。
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