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翌日の日中、セレイは食堂の仕事へ出かけて行った。陽が西に傾きかけたころになって、リュイはふと読書を止め、昨日の場所へまた出かけると言って立ち上がった。
「帰り際に、また明日もおいでと言われたから……」
「そ? 分かった、いってらっしゃい」
快諾するティセの顔を見て、
「おまえも行く?」
「…………いや、私はセレイの帰りを待つよ。夕飯の仕度手伝いたいからさ」
本当を言えば興味があった。スルジェの友人たちはどんなひとたちで、リュイはどんな様子で彼らと交流するのか、見てみたい気がした。けれど、もしも付いて行ったとしたら、社交性に欠けるリュイは自分の後ろに控えたようになり、無口になってしまいかねないのではないか…………ティセは咄嗟にそんな懸念を過ぎらせたのだ。リュイひとりで同年代と交友したほうが、為になるのではないだろうか。
「で、夕飯はどうする?」
「……帰ってから食べるのではいけない?」
「いいよ、じゃあおまえの分も作って待ってるね」
なるべく早く戻ると言って、リュイは黄色く染まり始めた日差しのなかを出て行った。ティセはその後ろ姿を、初めて友達の家に招待されて緊張している子供を見守る母親のような心持ちで見送った。そんな自分に半ば呆れながらも、またもや喜ばしい思いが胸に滲んでいた。たとえ短い間に過ぎないとしても、次に会う日があるか分からないとしても、リュイに友人と呼べるような相手ができたらいい、ティセは胸でつぶやいて「うんうん」とひとり頷くのだった。
すっかりと陽が傾き、西の彼方に連なる山々が逆光にその影を濃くし始めた。どの家でも竈に火が入り、夕飯の下拵えの音と女たちのお喋りの声が響く裏町の屋根の上を、竈の煙が流れていく。
そろそろセレイが戻るはず、ティセは頃合いを読んで竈に火を熾した。夕飯の仕度を手伝いたいと答えたのも本心だ。「あなたみたいな子に女らしく料理の才があったなんて」と、母を驚かせた料理好きのティセは、知らない土地の料理や調味料に興味津々で、作りかたやその味わいを可能なかぎり覚えて帰還したいと思っているのだ。
焼きたての平パンを包んだ古紙を抱えて、セレイが帰宅した。ティセのいる台所に入るまえに居間を覗く。リュイの不在を知り、怪訝顔で尋ねる。
「ティセ、兄さんは?」
床に置いた鍋の前にしゃがみ込み馬鈴薯の皮を剥きながら、ティセはにこやかに答える。
「昨日のスルジェの友達んとこにまた行ってくるってさ、さっき出かけてった」
「……!!」
セレイは眉根を寄せた。平パンの包みを胸に抱えたまま、暫し黙ってティセを見下ろしていた。そのうち、戸惑い気味の声で問うた。
「ティセ……兄さんを行かせて、いいの?」
「いいことじゃん!」
即答した。
「リュイはいまだ友達と呼べるひとが私以外いないみたいだしさ。同年代と普通の付き合いをするいい機会だよ。またおいでって誘われたようだから、あっちもリュイが来るのを楽しみにしてるんじゃない? スルジェに感謝すべきだな」
肯定的な見解に、セレイはただ不安げな顔を返すだけだった。
翌日も同じようにリュイは出かけて行き、仕事から戻ったセレイはやはり気懸かりの色を隠さなかった。ティセはさすがに気になった。
「……なんでそんな顔するの、セレイ」
竈の前にしゃがんだまま、火吹竹から口を離してセレイを見上げた。セレイはなにか言いにくそうに視線を外し、黙り込んだ。ティセは小首を傾げる。
「スルジェの友達って……べつに悪いひとたちってわけじゃないんだろ?」
「…………私の友人たちよりは少し不良っぽいけど…………本当に悪いことするようなひとたちとは違うわ……」
「なあんだ、じゃあなにも心配することないじゃんか」
自身、ナルジャで不良と呼ばれ続けているティセは、セレイの懸念を笑い飛ばすように言った。
「ずいぶん心配性だなあ。昔の私の母さんみたい」
今度は本当にニヤニヤして見せた。
「で、今晩はなに? どんな料理教えてくれるの、セレイ」
まだ気懸かりが晴れないのか、セレイはなんとも言えない顔で瞬きをくり返していた。
その晩、リュイの帰宅はだいぶ遅かった。残業の義兄はとうに帰宅して、家族はそろそろ寝る準備を始めようかというころだ。裏町の生活音はおおむね止んで、酔っぱらいや夜遊びの男たちの声がときおり上がるくらいに静まっていた。ふたりも半ば寝る態勢で、「遅い遅い」と言い合っていた。
折り戸の開くかすかな金属音がしたので、ティセはセレイよりも先にぱっと立ち上がり、薄暗い玄関へ向かった。幽霊さながらの静けさでリュイは折り戸に鍵を下ろしている。
「おかえりー、ずいぶん遅かったね」
声を落として出迎えたティセは、腕を伸ばし合えば届く距離まできて、無意識に足を止めた。かすかな違和感がティセを不意打ちのように襲ったからだ。出かけて行ったときのリュイとはどこか違う。否、同じなのに、ほんのわずかにそぐわない処があった。
……なんだろう……
すぐに思い至る。それは、リュイの白衣から漂う香り――――ほのかでありながら妙に存在感のある、スルジェの香水の移り香だ。
何故か、頭のなかが急に真っ白になった気がした。ティセは口を閉じて、リュイの顔をじっと見上げた。
「…………」
昨夜の帰宅時にも移り香はしていただろうか…………していたような、いなかったような気もする。もしもしていたのだとしても、気にならなかったし、今日ほどには鼻腔を刺激しなかった。たんにこんな夜更けまでともに過ごしていたせいなのか、それともスルジェとの距離が実際に近かったことを物語っているのか、定かでない。いずれにせよ、それは言い表しようのない靄に似たものを胸の奥に呼び起こした。思いがけず生まれた不可解な違和感に戸惑いを覚え、ティセはますます口が開かなくなる。薄闇に静かに溶け込む暗緑の瞳を見据えながら、胸の奥の靄を意識した。
セレイが遅れてやってきて、ティセの背後から兄の様子を覗った。
なにか言いたげに見えたのだろう、リュイはわずかに首を傾げて、
「遅くなった」
ティセはようやく気を取り直し、なんでもないような表情を作る。
「うん……どう? 楽しかった?」
リュイはひと呼吸間を置いて、
「……ん、まあ……」
肯定でも否定でもないような、ひどく曖昧な返答をした。のち、気になることでも思い出しているかのように、ゆっくりと瞬きをした。
「どっちだよ……で、腹は減ってるの? おまえの分、いちおう残してあるけど、もしかして食べてきた?」
「少し食べた……けれど、食べるよ」
セレイのすぐ横を通り、リュイはそのまま台所へと向かった。そのとき移り香に気づいたからか、セレイははっと顔を強張らせて兄の後ろ姿を見た。それからそっと振り返り、玄関先にぼんやり佇んだままのティセの顔を見据えた。
困惑気味に目を揺らしているセレイになにか返そうとは思ったが、ティセは言葉が出なかった。無事に帰宅して食事も取ると言う、どこにも問題はないはずなのに、胸の奥の靄は見るまに濃く、厚くなっていくように感じていた。
折り戸に鍵を下ろしていたリュイの姿を思い浮かべる。ふたたび違和感に、今度は強い違和感に襲われた。なんだかよく分からなくなって、ティセは混乱した。そこはかとなく動悸を覚えていた。何故なのかまったく分からなかった。
ただなんとなく感じていた――――リュイに余計なものが纏い付いている、リュイには要らない、似つかわしくない、汚れた空気のように感じてならなかった。
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