6
翌朝、養父母と義兄が出勤し、セレイの午前中の家事がようやく一段落着いたころ、ふいに折り戸を叩く音がした。セレイは茶の用意をしていた手を止めて、
「あ、お客様。ティセ、あとお願いね」
台所から出て玄関へ向かった。
硝子の湯呑みと棒状の氷砂糖、干した桑の実を盛った器を盆上に揃えたティセの耳に、玄関でのやりとりが聞こえてくる。聞き覚えのある声――――スルジェだ。ティセは耳を傾けた。
「あのね、昨日の晩にお総菜を作りすぎちゃって……もしもよかったら食べてもらえないかと思って少し持ってきたんだけど……どう?」
こんな訪問は滅多にないことなのか、セレイは少々面食らっているようで、戸惑いを含んだ声で返している。
「でも……いいの? 頂いちゃって」
「ご迷惑じゃなかったら、是非。うちは母さんとふたりきりだから、どうしても食べきれないもの。口に合えばいいんだけど……」
ティセは盆を抱えて廊下へ出た。玄関まで一直線のため、ふたりの姿が目に入る。両手に包みを抱えたスルジェがこちらを見てにっこりと微笑んだ。
「おはようティセ、昨日は楽しかった!」
昨日抱いたスルジェへの好感がふたたび湧いてきて、ティセは自然笑顔になる。
「おはよ、こっちこそ楽しかったよ」
スルジェは玄関に佇んだまま、ティセの抱えている茶の盆をじいっと見据えた。すると自然、誘うのが正しいような流れになる。ティセは、
「どう? スルジェも休んでかない?」
言ってすぐ、セレイに「いいよね?」と目で伺いを立てる。セレイはほんの一瞬、一考を要するかのように目を伏せた。のち、わずかに笑んで、
「そうね、もし時間が許すなら、どう?」
「そ? ありがとう、せっかくだからちょっとお邪魔するわ」
スルジェはことのほかゆっくりと……我が意を得たかのように……口角を上げた。
暖かみを帯び始めた風が流れ込む居間で、リュイは本を読みながら茶を待っている。スルジェの声は当然聞こえていただろう、三人が居間へ入ると、無言で目を上げた。スルジェは先ほど見せた笑顔とは趣の異なる、はにかんだ笑みを浮かべ、
「おはよう。昨日はありがとう、とても楽しかった……」
ひとつひとつの音を大切に発しているような、健気さのある言葉つきで挨拶をした。リュイはただ軽く会釈を返す。
「さ、スルジェ、座って座って。……ほら、おまえ偉そうに構えてないで、ちょっと端に寄れって」
「ん……」
素直に従うリュイのはす向かいに、スルジェはそっと腰を下ろして横座りになった。素晴らしく似合っている深紅の腰巻きが、艶やかなひだを作って彼女の細い脚を優美に覆った。はっきりと分かるものの自己主張しすぎない香水の香りが、たおやかな座り姿をいっそう淑やかに美しく見えるように作用した。男物の脚衣を身につけて胡座を組むティセとは対照的で、いかにも娘らしい風情だ。
青みがかった硝子の湯呑みに琥珀色の茶を注ぐと、ふわりと芳香が立ち上る。リュイは棒状の氷砂糖を取り上げ、匙で掻き混ぜる要領で茶に溶かし込む。五回、六回……掻き混ぜる回数はティセやセレイより多い。氷砂糖が溶けていくさまを無表情に見つめるその横顔を、スルジェがじっと眺めていた。
「ね、ティセ、ふたりはいつまでカウゼンにいるつもり?」
「んー、分かんないけどしばらくはいるよ。いつまでか決めるのはリュイだから、な?」
リュイは首肯の代わりに瞬きをひとつ返す。
三人の女の他愛ないお喋りが続いた。スルジェは話をしながら、ときおりちらりとリュイを覗っていた。話が退屈過ぎないか、茶は足りているか、そんな気遣いをしているように。もっとも話がいくらつまらなかったとしても、退屈を表に出しやしないのだが。そして茶が少なくなれば、客人として澄ましているより給仕するのが当然だというように、無言で小型焜炉の上の鉄瓶へ腕を伸ばす。目に立たない最小限の手つきでリュイの湯呑みに茶を注ぎ足して、どうぞ、と微笑みかけた。
ティセが二度目のお代わりをした折、ちょうど鉄瓶の茶が空になった。それを頃合いとばかりに、スルジェは腰を上げた。
「そろそろ帰るわね。ごちそうさま」
「ううん、こちらこそ、お総菜をたくさんありがとう、助かるわ」
「またね、スルジェ」
にっこりとしてティセに片手を上げたあと、スルジェはリュイを向いた。暗緑の瞳をじっと覗き込むように見ながら、
「じゃあ、また」
友人やその兄弟に挨拶するような調子ではない、なにか意図を潜ませているような湿り気のある声音でそう告げた。リュイはいつもと変わらぬ暗い調子で、
「また」
ひとこと返した。セレイがスルジェの横顔を、わずかに眉をしかめて眺めていた。居間の空気がほんのかすかに緊張していたことを、ティセは少しも気づかない。
翌日の午後、ティセとセレイは西の市場へ買い出しに出かけた。それぞれ買いもの篭を提げて意気込んで行ったのは、午後だけの大売り出しをするという乾物屋の広告に惹かれたからだ。
半円形をした市場の門のひとつをくぐり、乾物屋が軒を連ねる一画を目指して通路を行く。左右にはまず金銀細工煌びやかな宝飾店が並び、衣料品、雑貨、敷物と続き、十数分も歩いてようやく食料品売り場へ辿り着く。一等活気のある生鮮食料品売り場はその先で、自宅からでは最奥にあたるのが不便なのだとセレイはぼやくのだった。そこがもっとも賑わうのは早朝なので、いい品物を手に入れたいのなら遠くても早めに行かねばならない。午後のこの時間にもなれば、その辺りは半分店じまいをしているのだった。
幾つもの香辛料と各種豆類に粉類、干した野菜や果物、魚の乾物…………ふたりは篭をいっぱいにして自宅へ戻った。すると、折り戸には鍵が掛けられていた。留守番のリュイは、どうやら外出してしまったようだ。教えられていたとおり、玄関脇の植木鉢の下から鍵が見つかった。セレイはそれを取り上げながら、
「兄さんたら、どこに出かけたの……?」
「あいつのことだから、出かけるとしたら本を買いに行ったか、じゃなかったらイブリア街の祈りの樹の処だと思うけど」
「そうね……お爺さんのお墓参りのついでに見に行ったばかりだけど、兄さんあの樹がとても好きだったものね」
「好きっていうより、あれは取り憑かれてるな」
ティセは不気味に笑ってみせた。
すぐ戻るだろうと、ふたりはとくに気にかけず買いものの片付けをして、夕飯の仕込みに取りかかった。ところが、夕飯を取る時刻になっても、リュイは戻ってこなかった。
セレイは台所の小窓から薄暗くなった空に目を遣って、
「どこ行っちゃったのかしら……」
「うん…………とにかくお腹空いたよね、おじさんとおばさんを待たせたら悪いから、先に食べてようか」
「……そうねえ、お腹空いたわよねえ……」
リュイと、毎日のように残業があって帰宅の遅い義兄の分を鍋に残し、先に夕飯を取ることにした。
まだそれほど遅い時刻というわけではなく、往来も賑やかだ。子供ではないのだからやたら心配する必要もないのだが、気懸かりの種はある。脱走の罪を負うリュイには逮捕される可能性がいまもあるのだ。なにか事件に巻き込まれたり、ほかのことで不審尋問などを受けない限り露見することはないとしても、その万分の一の可能性が頭の隅にあるのだろう、セレイはそわそわする気持ちを抑え込むような硬い面持ちで食事をしていた。向かいで食事をする養父母は、それについて直接触れはしないが、セレイの心配を思いやり、
「帰り道に迷っているのかもしれないねえ、なんたってこの辺りはたいそう道が入り組んでるからな」
「その可能性は高いわ、カウゼンの迷路だって言われてるくらいだもの」
穏やかな調子で語りかける。ティセも心配ではあったが、それよりも、
……よけいな心配させんなよ……
少しく怒りを覚えていた。リュイはきっと、自分が誰かに心配されるとは微塵も考えていないのだ。少なくとも、ティセ以外の誰かに心配されるとは思いも及ばないのだろう。ティセは、やれやれとそっと溜め息をついた。
普段義兄が帰宅するくらいの時分になった。夕飯の洗いものを済ませて居間で休んでいると、玄関の折り戸の開く気配がした。それがとてももの静かなうえ、ただいまの声がなかったので、
「あ、兄さん!」
セレイはすぐに聞き分けて玄関へ向かった。ティセも腰を上げてあとに続く。
皆の心配など露ほども知らないといった澄まし顔で、リュイは暗い玄関を入ってくる。セレイの顔を見て、
「少し遅くなってしまった」
なにも悪くなさそうに言う。セレイは安堵の息をつくだけで文句は言わない、緊張の解けた眼差しで兄を見ている。代わりにティセが声を尖らせる。
「おまえ! どこ行ってたんだよ、こんな時間まで!」
非難されたのが意外そうに、リュイはわずかに目を丸くした。そして、ティセとセレイを驚かせるもっと意外な回答をさらりと返す。
「すまなかった、スルジェの友人の処にいた」
「へ?」
ティセは思わず聞き返し、セレイはかすかに眉根を寄せた。
「ふたりが市場へ出かけたあと、スルジェが来たんだ」
さらにセレイは目元を強張らせる。居間から漏れてくる灯りだけの薄暗い玄関の土間で、リュイの弁明は続く。
「友人との集まりがあるからよかったら是非、と言われて」
顔をまじまじと見上げながら、ティセは驚き声で先を問う。
「それで、行ったの?」
「初めは断った。けれど、重ねて誘われて……。とくに断る理由がないし、時間もあったから」
「へえええ!!」
心底驚いた。
「集まりって、いっぱい来てたの?」
「……十人くらい……ほとんどイブリアの若い男ばかり」
スルジェの男友達ということだろう。ティセは驚くと同時に、それはとても良いこと、良い傾向だと思った。何故なら、リュイはいまだ友人と呼べる他者は、ティセ以外にひとりもいないというからだ。ひとと――――とりわけ同年代と普通の交流を持つことは、リュイにとって良い経験になるに違いないと直感的に思ったのだ。
なにやら喜ばしくなってきて、込み上げるように笑顔になった。
「へええ! で、どうだったの? 楽しかった?」
「ん……割と。そうしたら、少し遅くなってしまった」
わずかに口角を上げて肯定したので、ティセはますます嬉しくなる。
「そっか、それは良かった!」
でもさあ……と不満げな顔を作り、
「夕飯作って待ってるんだからさあ……夕飯までに帰るか、いらないならいらないとか、あとで食べるとか、書き置きのひとつでも残しといてよ。帰らないから心配するじゃんか。ねえ、セレイ」
同意を求めてセレイを見向くと、なにか違うことを考えていたのか、
「え、あ……そうね、そうしてくれると嬉しいけど」
我に返ったように答えた。
「すまなかった。次はそうする」
リュイは納得したようだ。
そのときちょうど義兄が帰ってきた。開いた折り戸からひやりとした夜風が流れ込む。玄関先に集まっているのを見て、
「ただいまー……って、なんだなんだ? みんなして集まって……」
不審そうに眉を盛り上げた。
「ああ、義兄さん、おかえりなさい」
「おかえりなさーい。……で、リュイ、おまえ腹は減ってるの?」
「ん……少し」
「じゃ、夕飯の用意するから、トゥアンさんとちょっと待ってて」
鍋に残しておいたふたりの分の惣菜を盆に分け、付け合わせの玉葱を切る。その間、セレイは口をつぐんだようになり、また気懸かりに似た色を顔に浮かべていた。
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