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解放者たち 第二部  作者: habibinskii
第五章
44/71

3

 舳先の柵に両肘を預けてもたれかかり、ティセはまっすぐに前を見据える。ゆるやかに、それでいて大きく起伏する川面の向こうに、カウゼンの町が小さく見える。ふたりの乗る渡し船はセレイの住む町へとどんどん近づいていく。

 カウゼン東部に接するこの大きな川を渡るのは二度目だ。ティセは当時を思い出していた。今日と同じような曇り空だったことや、欠伸が出るほど長いこと渡し場で待たされて辟易したこと、まさかセレイが住んでいるとは露ほども思わずに、町の北西部にある炭鉱で採掘した石炭が船で次々と運ばれていくさまを、ふたりで漫然と眺めていたことなどを……。

 すぐ隣に立つリュイを、そっと見遣った。背筋をぴんと伸ばして、同じように前方を見つめている。その瞳は、零れそうなほど感傷を湛えている。


「いよいよカウゼンだね。長かったなあ」

「ん……」

「セレイは元気かな、家にいるかなあ」

「…………」


 こちらからの手紙はすでに届いているはずだが、ティセが最後にセレイから手紙を受け取ったのはもう一年も前になる。いま現在も変わりなく元気でいるだろうか。話を続けようと思ったけれど、リュイの顔つきがあまりに神妙なので、前を向き直す。川風が吹き抜けて、ティセの前髪とリュイの耳際の長い髪を揺らしていった。

 リュイは今朝から寡黙だ。カウゼンを目の前にしてさまざまな思いが胸に去来しているのだろう。リュイにとって特別な存在であるらしい妹との再会の喜び、その養父母との対面への不安……。過去に多大な迷惑をかけているうえ、いまでも逮捕の可能性がある以上、少なからぬ引け目を感じているだろうことは想像に難くない。


 きみさえ良ければ、またおいで。私たちはいつでもきみを歓迎するよ――――


 かつて養父は別れ際に、慈愛に溢れた声音と面持ちでそう告げた。あれが偽りの言葉だったとはティセには思えない。が、リュイは懸念を拭いきれないのだろう。それだけではない、養父母はリュイの罪をつまびらかに知っている……罪を意識させる存在なのだ。

 シドルがリュイを責めた晩のことを思い出す。罪を突きつけられてあきらかに怯えていた。闇はその濃さをいまもそれほど変えてはおらず、いまだに罪と向き合えていないのだと、ティセはあの晩思い知ったのだった。

 どうか、リュイの懸念は杞憂で終わりますように……カウゼンでの滞在がリュイの幸福になりますように…………ティセにはそう祈ることしかできない。



 昼食が待ち遠しく感じるころ、カウゼン側の渡し場に到着した。辺りは食堂や売店のほか、釣ったばかりの川魚を売る露店がいくつも出ていた。以前訪れた際は夕方だったためか寂しげな印象だったが、いま現在の中心街の喧噪を予感させるような賑わいがあった。ほかの町同様に、カウゼンもどことなく活気を増しているに違いない。

「とにかく腹減ったよリュイ、ほら、飯、飯!」

 その顔に浮かぶ気懸かりを蹴散らかす明るさで、ティセは昼食を促した。







 国士の銅像の建つ広場を抜けて、西へ延びる商店街を行く。郊外から町なかに入った途端、イブリアのひとびとが目につくようになった。さすがはシュウ国内でもっともイブリアが多く住むカウゼンだ。リュイが相対的に目立たなくなっていき、もとより異国の顔立ちをして目立っているティセが、代わりに更なる注目を浴びている気になってくる。


 陽が出ているうちでは一等ひと通りの少ない昼の遅い時間帯にも拘わらず、商店街は以前よりも活気を感じさせた。古い店舗を新改築し、流行りの建物に建て替えた店をちらほらと見かける。以前訪れた際には昔ながらという印象だった薄暗い店舗が、硝子窓を多用したいまどきの明るい雰囲気の店構えに変わっている。店の数自体も増えているようだ。商店街全体が明るさを増したように見える。


「けっこう変わったねえ!」


 初めて見るものはもちろん興味深い、けれど再訪して変化を知るというのも旅の楽しみであるのだと、ティセは二度目のシュウを訪れてしみじみと感じていた。



 ひしめく商店のなかでも店先の陳列棚がひときわ美しい果物屋が目に入る。南方から仕入れたマンゴーや波羅蜜(ジヤツクフルーツ)、マンゴスチン、バナナ、茘枝(ライチ)などの赤や黄色が、曇り空にも拘わらずまぶしいくらいに鮮やかだ。店内には杏やイチジク、タマリンドなど干した果物の入った木箱や麻袋も並んでいる。


「ちょっと寄っていこうよ。なんか買ってかないと」


 足を止めたリュイは、顔に疑問符を浮かべていた。そうか、とティセはすぐに腑に落ちた。誰もが常識として知る訪問時の作法を、リュイは知らないのだ。


「ひとんちにお邪魔するときは、なにか手土産を用意していくものなんだ」

 リュイは瞬きをくり返し、

「そういうもの……?」

「そ。そういうもの。ほら、マンゴスチンが美味そうだよ、これがいいんじゃない?」

「…………」


 返答を待たず、ティセは奥にいる壮年の店員に呼びかけた。店員は愛想笑いを浮かべて、幼児の背丈ほどもある天秤と錆びた分銅を運んでくる。左の秤皿にはティセが申しつけた重さの分銅を置き、左手で支柱を支えつつ、山盛りのマンゴスチンを右手で掴み取り、右側の秤皿に積んでいく。

 右側が若干重くなったところで手を止めて、


「ほらよっ、ちょっとおまけだ!」

「わお! ありがとう!」


 笑顔を見せれば、あちらでも日に焼けた顔に白い歯を見せる。


「どっから来なさった?」

「イリアです。申し訳ないんだけど入れる物を持ってないから、なにかに入れてもらえませんか。できればちょっときれいなものがいいんだけど」

「贈りものにするんかい? ちょっと待ってな」


 店員は一旦店の奥へ戻り、しばらくしてから造りの荒っぽい籐篭を手に戻ってきた。


「これがいちばんまともだな、これでどうだい?」

「ありがとう、十分です!」


 籐篭に収まったマンゴスチンを受け取ると、リュイが代金を差し出した。


「私も半分出すよ」

「……いや、いい……僕の妹だから」


 店を出てしばらく行くと、リュイはぽつりと言った。


「……おまえの家を訪ねたときも、なにか用意するべきだった……?」


 意外にも気になったようで、顔に気懸かりの色を浮かべている。ティセはつい失笑してしまった。


「おまえにそんな期待はしてないから、気にすんな!」

「…………」

「母さんも驚きすぎて手土産どころじゃなかったから、心配すんな!」


 あははは、と笑い飛ばせば、リュイは安堵したというよりも不服げな表情を見せた。





 町の表側といえる繁華街の様子は時の流れを十分に感じたが、セレイの自宅のある商店街の裏町に入り込むと、急に時が止まっているように感じた。こぢんまりとした赤煉瓦の家屋がひしめくように並ぶ景色に、少しも変わりはない。新しい家屋は見当たらず、せいぜい屋根や玄関先などを補修していたり、新調した窓掛けの色目が鮮やかなだけだ。

 そこに集うひとびとの姿も生活の様子も、十年一日という言葉そのままのごとく変わらずにいる。狭い庭にぎゅうぎゅうに干された色とりどりの洗濯物、玄関先で地面をついばむ鶏の親子と、他愛ない遊びに興じる幼児たち。奥の土間からは香辛料を砕く律動的な音とともに、女たちのお喋りが絶え間なく聞こえてくる。狭い路地を縫うように行き交う流しの平パン売りや牛乳売り、御用聞き…………行き違えば互いに道を譲り合う人情味が溢れている。わんぱく小僧が曲がり角から飛び出せば、厳しい顔をした老爺の喝破が飛んだ。




 すぐそこの小さな煙草屋の女店主が、目を丸くして店先から顔を出す。


「あんれ!? ちょっとあんたたち! セレイんとこの!!」


 素っ頓狂な声を上げた。ふたりが振り返るとますます目を開き、


「間違いないね、セレイの兄さんとその…………」


 そこで、口をぽかんと開けて絶句する。訊かずとも理由は明白だ、ティセは苦笑いと照れ笑いを半々にして会釈した。

「こんにちは、お久しぶりです。またセレイに会いに来ました」

 リュイもわずかに会釈をした。店主はティセをまじまじと眺め、信じられないと言わんばかりの口ぶりで言う。


「……ティセ、だったかい……あんた……あたしゃ男の子だったと思ってたよ……」

「あははは……こんな恰好してるからよく間違えられるんです、気にしないで」


 適当に誤魔化して、すぐに話題を変える。

「セレイは元気でいるかな? 家にいますかね?」

 店主は呆気に取られながらも、

「ええ、変わりないよ。昼過ぎにここで挨拶したばっかりだから、きっと家にいるわよ」

「よかった! じゃあ、またあとで改めて挨拶に来ます」


 その後もセレイの自宅が近づくにつれて、懐かしいひとびとと巡り会った。誰もが皆、ティセを見て目を瞠る。


「おや、おまえさんがた! セレイの…………おやおや!? ええええ!?」

「セレイの兄さんとティセよねえ? やだあ、あなた女の子だったの!!」


 近所の六歳児は初等部低学年になっていて、あどけない顔をぽかんとさせてティセを見上げた。


「お……お兄ちゃん、お姉ちゃんだったの……?」


 ティセはマンゴスチンの籐篭を左腕に掛けたまま、両手を腰にして意味もなくふんぞり返り、

「そう、お兄ちゃんはお姉ちゃんだったんだ」

 と、リュイは顔を背けるようにしてふっと小さく吹き出した。

「……おまえ笑うな!」

 ひと睨みしたものの、その緊張が少しでもほぐれるのならと、ティセは思う。




 大人が三人も入ったら身動きが取れないほど小さな駄菓子屋の角を曲がれば、その三軒先がセレイの家だ。懐かしい折り戸の戸口が目に入る。

 ふと、リュイは足を止めた。緊張した横顔にはためらいがうっすらと滲んでいる。ティセは急かさずに、リュイが自ら戸を叩く気持ちになるまでそうっとしておこうと思った。なにも声をかけずに駄菓子屋を覗き込む。


 黒光りする木造の陳列棚に子供好みの菓子が並んでいる。黒砂糖のかたまりや粗目糖のついた飴玉、米や雑穀の打ち菓子、豆菓子、シロップに漬け込んだ杏など、瓶や木箱に無造作に収まっている。その奥で、そろそろお迎えが近いのよ、といった風情のイブリアの老婆が目を開けながら寝ているように座している。口元にも目元にも、なにが起こっても動じないと思わせるかすかな微笑みを湛えている。以前訪れた際にははきはきと子供たちの相手をしていたのを覚えている。印象ががらりと変わっていた。ティセが挨拶をすると、だいぶ間を置いてからわずかに会釈を返した。ティセを覚えているのかいないのか、よく分からない。どころか、自身のことすら覚えているのか分からないような、ぼんやりとした様子だ。恍惚という言葉が、ティセの頭を過ぎった。


 ……おばあさん……


 切なさがうっすらと胸に広がった。

 どこか幸福そうな老婆の顔をそっと見つめていると、奥の部屋からここの嫁である五十過ぎの女将が顔を出した。でっぷりとした身体を屈め、狭い出入り口に腰や胸をつかえさせながら売り場へ降りてくる。


「あらあなた! 覚えてるわよ、セレイんとこの外国人よね!」

「お久しぶりです。またセレイに会いに来たんです」

「そうかい、兄さんのほうも一緒かい?」

「はい。外にいますよ」


 女将はティセをまじまじと眺め渡すように見て、感心した様子で言った。


「はああ、あなたほんとに女の子だったのねえ、ばあさんの言ってたとおりだったわ!」

「え……」


 微睡んでいるような老婆の顔をそっと見遣り、小声でティセに言う。


「あなたのこと、みんな男の子だと思ったけど、ばあさんだけはオナゴじゃって言い張ってたのよ。正しかったわあ」


 見抜いていたのはセレイだけじゃなかったのだと、ティセは驚いた。女将はティセの顔つきを確認するように見たのち、寂しげに語り出す。


「覚えてるかい、ばあさん元気だったろう? 去年の暮れから急に弱々しくなっちゃってねえ……たまに元に戻るんだけど、近頃はたいていこんな調子なのよ」

「……そうなんですか」


 老婆は瞬きすら忘れてしまったように微動だにしない。湾曲した白髪のほつれ毛だけがそよ風に震えている。なにかを超越してしまったようなその風情は、古木を連想させた。すると、以前面会したイブリア街に住む古老のことが頭を過ぎった。リュイを見て、ガルナージャの護りびとと見紛うたと述べた、古木さながらの翁だ。


 ……古老はいまもお元気かなあ……


 視線を感じて往来を振り向けば、心の準備ができたのだろう、リュイがなにか言いたげにこちらを見ていた。

「じゃあ、またあとで改めてご挨拶に来ます」

「ああ、待ってるよ」

 リュイはまだわずかに戸惑いを滲ませている。

「ごめんごめん、行こっか」

 本当は待っていたのは告げずに、軽い足取りでセレイの家へと歩き出す。



 周りの民家とどこも変わらない赤煉瓦の質素な家屋も、細木を組んだささやかな塀もあのころのままだ。折り戸のペンキを塗り直してからまだ日が浅いのか、苔緑の色の新しさだけが際立って目に映る。リュイは折り戸の前にしばし佇んだ。ティセは一歩下がって、今度は「ほら」と促した。ためらい気味に右手を上げて、ようやく戸を叩く。

 ほどなくして、「はあい、いま参ります」と声がした。少女にありがちなかしましさを少しも感じさせない、落ち着いていて耳に馴染みやすい、懐かしいセレイの声だ。瞬間、リュイは目元をわずかに震わせた。続いて、折り戸が静かに開かれる。外の明るさに慣れた目にはやけに薄暗く感じる戸口の奥に、白い丸襟の上衣と辛子色の腰巻きを纏ったセレイが立っている。



「……!!」



 兄妹は同じ色の瞳を合わせた。妹の目は見開かれ、兄のそれは感傷と戸惑いに揺れている。束の間、時が止まったように互いの顔を眺めていた。


「……兄さん……」


 ようやく出したような小声とともに、瞳が潤み始める。


「……久しぶり」


 リュイもまた同様の声をかけた。セレイは後ろに控えるティセに目を向けて、目頭に溜まった涙を指先ですっと拭う。声の調子と表情を明るめに変えて、


「ティセ……! 久しぶりね、お手紙ありがとう、そろそろと思って待ってたの」

「久しぶり! 変わりない?」

「ええ、こちらは変わりないわ。さ、入って!」


 満面の笑みでふたりを促したのち、


「みんな仕事に出ていて、いま誰もいないから……」


 リュイを見上げてそっと囁いた。





 室内の様子もほぼ変わりがなかった。洗濯物の揺れる小さな庭が見える居間も、すっきりと片付けられた土間や掃除の行き届いた手洗いも、当時のままだ。居間で足を休めていると、セレイが茶の盆を両手にしてやって来た。臙脂色の敷物の上を乱れのない裾さばきで滑らかに歩く、その身ごなしは変わらぬ慎ましやかさを物語っている。流れるような手つきで鉄瓶の茶を硝子の湯呑みに注ぎ、感激の微笑みとともにふたりへ差し出した。


「来てくれて嬉しいわ。ふたりとも変わりはない?」

「うん、元気元気。な?」


 リュイは「ん……」と答えたきり、十五のころとまるで同じく、妹を静かに眺めるだけで積極的に語りかけはしない。けれど久方ぶりにも拘わらず、兄妹の間には以前ほどのぎこちなさは感じられなかった。それはもはやこの場においては、過去について隠すことも嘘をつく必要も、お互いにもうないからだろう。


養父(とう)さんも養母(かあ)さんも、ふたりが来るのを楽しみにしてたのよ。もうそろそろだろうって、養父さん先週の休日に玄関の戸を塗り替えてきれいにしたの。見たでしょ?」


 ふふ、とセレイは可笑しそうに右手を口元に当てた。

 兄と似て大人びていたセレイは、少しく残していた少年少女が持つ頼りなげな雰囲気をもうすべて消し去って、女性と呼ぶべきひとへと変わっていた。ひとを振り向かせずにはおかない美貌はいっそう輝きを増している。その暗緑の瞳は兄のような吸い込まれそうな湖面というよりはむしろ、見るものを惹きつけてやまない翠玉(エメラルド)を思わせた。息を呑むほどの美女だ。けれど、美人にありがちな近寄りがたさはさほど感じない。

 それは日常生活の匂いを隠さない気取りのなさと、洒落っ気と化粧っ気のなさがそうさせているのだろう。芥子色の腰巻きは既婚者のそれのように控え目な色合いで、前髪を作らずに伸ばした黒髪は工夫を凝らして纏め上げることもせず、ただ後ろでひとつに括ったのみ。化粧は堅気の庶民にとっては日常的なものではもともとないが、口紅だけは差す女は少なくない、セレイはそれさえもせずにいる。妙齢の女性として――――とりわけカウゼンのような都邑に暮らす女として――――娘盛りには地味に過ぎる装いといえた。が、それを補って余りある生まれながらの輝きを十二分に放っている。むしろ華美にせずにいたほうがいいようにも思える。もしも化粧を施したなら、その美貌は不吉さを予感させかねないだろう。



 小豆蔲(カルダモン)の香る茶を口にしつつ、セレイは近状を語る。


「義兄さんが帰ってきてね、いままた一緒に住んでるの」


 セレイの義兄――――養父母の嫡男は以前訪れた際には、最大都市バンダルバードにある専修学校へ進学していて不在だった。春に卒業してカウゼンに戻り、現在は新米の技術者として近隣の会社に勤めているという。


「義兄さんもふたりが来るのを楽しみにしてたのよ、イリアの話をぜひ聞きたいって。あとで帰ってきたら喜ぶわ」


 以前と同じく、セレイは家事の大半を担いつつ、週に幾度か食堂で働いているという。養父母も変わることなく、親類筋の経営する会社で揃って働いているそうだ。終戦を迎えて以来会社の業績は右肩上がりで、養母の勤務時間は増える一方、その分自分の家事の負担も増える一方だと、セレイは満更でもなさそうに苦笑してみせた。


「とくに義兄さんが帰ってきてから大変なのよ。食べるものにとってもうるさいひとなの。ちょっと味付けが気に入らないとくどくど文句を言うのよ、そのくせ少しも手伝わないわ」


 不満げに一瞬唇を尖らせて、ふたたび笑顔に戻る。のち、わずかに伏し目になりはにかむような素振りを見せた。声を落として大事なはなしをするときのように、まっすぐにリュイを見る。


「けれどね、毎日家族のためにご飯を作る時間が、いまはとても大切に思えるの。どうしてかと言えば……じつはね、兄さん」


 リュイは首を傾けて先を促した。


「私、結婚が決まったの」


 目元をぴくりとさせただけのリュイよりも、むしろティセのほうが驚いた。


「えええっ! 結婚……!?」


 目を丸くして、つい身を乗り出した。セレイはさらにはにかんで、長い睫毛を震わせて瞬きをくり返す。


「すぐにってわけじゃないけれどね、彼はいま入隊してるから。でも話は両家でもうまとまっているの。兵役が終わって落ち着いたら正式に婚約式をするつもり。だから結婚はもっと先、たぶん来年末か再来年になると思う」


 相手は勤め先の食堂の経営者の甥にあたる若者で、以前からの顔なじみだ。養父のもとへくる縁談には見向きもせず、「自分で探すもの」と豪語していたとおりの恋愛結婚だという。


「へえええ!」


 あまりに驚いているティセを、セレイはクスリと笑う。

「そんなに驚かないで。特別早くもないでしょう? それともイリアでは随分遅いものなの?」

「……うーん……確かにすごく早いってわけじゃないとは思うけど……」


 ナルジャでは平均的に、男女とも二十歳を境にばたばたと結婚していく。女に限ってはとても早ければ十五で嫁に行くひともいるけれど、稀なことだ。十七歳のセレイがいま話を決めて再来年に結婚するならばとくに早いとは言えないだろう。ただ、ティセの親しい友人たちのなかでは、結婚の話が持ち上がっている者はまだひとりもいなかった。自身、つい先日初めて恋というものを経験したばかりであるし、自分のような者に縁談があるかもしれないなどとは想像しがたいことだ。母親から「結婚資金の面倒は見ない」と宣言されたときにも思ったが、ティセにとってはなんの関係もない言葉に思えるのだった。


 リュイもまた、その言葉はあまりにも馴染みのないものなのか、まるで初めて聞いた言葉であるかのように、ただ黙っていた。あまりに沈黙が長いので、祝ってはくれないのかとセレイは不安になったようだ。


「……兄さん……?」


 リュイは瞬きをひとつして、ようやく反応した。


「……あんなに小さかったきみが……」


 しみじみとそう言った。まるで、リュイの心のなかに住んでいるセレイは、いまでも生家にいたころのままの――――夢のなかに沙羅樹とともに現れる、幼女のころのままのセレイであるかのように…………。

 セレイは不服と呆れを綯い交ぜにしたように顔をしかめ、


「…………いやあね……それいつのこと……?」


 聞こえよがしにぼやいた。あんなに他人行儀だった兄妹が、その後会うこともなかったにも拘わらず、以前よりも近しくなっている。ティセは確かにそう感じた。













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