2
厨房と客席を仕切る台の上に、十年物と思われる煤けた鍋が四つ並んでいる。その向こうから、定食の盆をふたつ手にした三十路の店主が、ふたりの席へやってきた。油や汁が染み込んで黒光りしている使用感たっぷりの食卓に、少々乱雑に盆を置く。
「お待ちどお」
向かいに座るティセは、髭の剃り跡の青々したその顔を見上げ、
「どうも! いただきまーす」
店主はちらりとティセを見ただけで、無言で食べ始めたリュイをじっと見下ろしている。なかなか厨房に戻らない。……また始まった、リュイは心でつぶやいた。
なにか含みのある言葉つきで、店主は問う。
「兄ちゃん、旅のひとかい? 入隊はまだか?」
口のなかのものをゆっくりと飲み込んでから、店主を見上げた。
「はい」
「……いつするつもりなんだ?」
まるで急かすふうに尋ねる店主に、適当に返す。
「来年には……」
「……フン」
気に入らないときにするように、店主は鼻を鳴らす。と、ティセがそっと目を上げて、こちらに向かってにやりと口角を上げる。
「期間が短くなって、いまの若いもんはずいぶん楽なもんだ。俺が行ったころなんか長いうえに、いまよりもっともっと厳しかったんだぞ。しごかれて叩かれて……折れるくらい歯を食いしばって耐えたもんだ」
不満たっぷりの口調にぶすっとした面持ちだ。リュイは曖昧にうなずいて聞き流す。
「ヘラヘラしたいまの若いもんほど、あれぐらいしごかれなきゃならんのだ本来は!」
愚痴を重ねるほどに、リュイを見下ろす目つきが険しくなっていく。ティセは盆の上に目を落とし必死に笑いを堪えている。
「おまえたちは幸運だ、幸せだと思えよ」
「…………」
「とにかくな、早く入隊しろ。早ければ早いほどいいぞ!」
言いたいことだけ言って、店主はようやく厨房へ戻っていった。リュイはそれを見届けて、ふうと溜め息をついた。
店を出て、香辛料の香りがあちこちから漂う目抜き通りを行く。ティセは乾いた笑い声を真昼の空に向かって放つ。
「あはははは! みんな同じこと言うね、耳にタコができそう!」
「もう聞き飽きた……」
シュウに入国して以来、幾度となく同じことを聞かされていた。
終戦は誰もが待ち望んでいたことだろう。が、徴兵期間が短縮されたことについては、すでに兵役を終えている男たちにとってはひどくおもしろくないようだ。その不満、憤りの籠もった眼差し、妬みまみれの不平を、リュイは行く先々で浴びていた。
「俺が行ったころは……ってみんな言うけどさあ、みんな自分の行ったころしか知らないんだろ? それともほんとにそうなの?」
ティセはもっともな疑問を投げかけた。リュイは暫し考えて、
「ん……一般的には徐々にゆるくなってきていると言われているようだけれど……どうだろう。自分の時代がいちばん厳しくてつらかったはずだと思い込みたいのかもしれない」
「あはは、そうかもね。とにかく気に入らなくてしかたがないんだね」
リュイは前を向き直し、先ほどの店主の不満げな顔つきを思い浮かべた。そしてつい、
……僕たちほど過酷だったはずはない……
厳しかった鍛錬や稽古、勉強に追われた日々が脳裏を過ぎる。背筋がほんの少し伸びていないだけで張り倒されたことや、誰かのちょっとした失敗のせいで連帯責任としてひどい体罰を受けたこと、そして懲罰房に入る直前に受けたもっとも激しかった体罰を思い出す。途端、寒気に襲われて、リュイは思考を止めた。
……止めよう……
そうして、自分たちがいちばんつらかったと思い込みたいのは、自分も同じなのかもしれないと気づき、そっと溜め息を漏らす。
約二年半ぶりの祖国だ。町の様子ががらりと変わったわけではないが、どことなく浮き立っているようにも感じられる。はっきりと分かったのは、ティセさえ気づいたように、町なかを監視する兵士の数が随分と減っていることだった。もともと南部は戦の影響も内紛の問題もそれほどなく、町は平穏、ひとびとは明るくておおらかだ。が、さらに陽気に開放的になったように感じられる。リュイはすぐそこの揚げパンの屋台の賑わいを眺めてから、ゆっくりと北方に目を向ける。
…………北部はいま、どうなっているだろう…………
稜線のはるか彼方に思いを馳せる。故郷の村を、生家とそこに立つ沙羅樹を思い浮かべる。北部の空気はうっすらともの哀しさを漂わせていた。青々と晴れ渡る空の下は静けさに満ちていた。つねに誰かに視られているような、小声で話さなければ叱られてしまいそうな、そんな緊張感が町や村には漂っていた。終戦を迎えて、あの独特の雰囲気もいくらか変わったのだろうか。静まりかえっていた町や村は活気を得て、ひとびとの笑い声が響いていたりするのだろうか……。リュイには想像もできない。
ただ、北の地を懐かしく思う。あの静けさと澄み切った日差し、冬になればまれに吹き荒れる雪風を恋しく思う。もういちど、あの日差しや風を肌に感じてみたい、そんな気がしてしまうのは、単に帰れないという事実が思わせるだけなのか……。
南へと歩を進めながら、心の奥底は北へと向かっている。十五のころと、少しも変わらずに…………。
濡れ髪を手ぬぐいでゴシゴシと拭きながら、ティセが部屋へ戻ってきた。
「もう水が冷たく感じるようだねえ。ちょっとだけ寒かったよ」
リュイは本から目を上げずに返す。
「そう? 僕はまだ平気」
「おまえ鈍いんじゃ……」
悪口を言いかけて、ティセはふいに、リュイの背後から本の頁を覗き込んだ。
「あれ! その挿絵のひと、あの首飾りの女の絵と同じような服着てるじゃん」
言われて、手にした本の挿絵を改めて眺め見る。
「……そうだった?」
ナルジャを出て以来、リュイは首飾りの細密画も隠されていた手紙も目にしていなかったので、記憶が曖昧だった。ティセはすぐ横にしゃがみ込んで、挿絵の女を指差した。石鹸の香りがリュイの鼻腔をふわりとくすぐった。
「そうだよ、この胸元の白い腸詰めみたいな凝った飾りかた。何の本?」
「昔、シュウ南部にいたナラヤン・ラムチャンドラという名士について書いた本。実業家であり政治家でもあって、色々な功績を残したひとだけれど、同じくらい疑惑の多いひとで、最期は不可解な死を遂げたという。シュウでは有名な人物だ」
「へええ。いつごろのひとなの?」
ティセの母親の言を思い出す。
「そう、おまえの母親が話していたとおり、こういう衣装が流行っていたというころに活躍していたひとだ」
つまり一五〇年くらい前だ。
「母さんの記憶正しいなあ! で、この女のひとは誰なの?」
小さいうえ印刷がよくないため、人物の詳細な顔立ちまではよく分からない挿絵だ。ただ、ふくよかな体つきから、中年の女性であることは分かった。ティセはやや乗り出して、挿絵を凝視する。石鹸の香りがほのかに濃くなった。
「ナラヤン・ラムチャンドラの娘ヴァルサ・ラムチャンドラと書いてある。このヴァルサ・ラムチャンドラというひとも割合有名なひとで、のちに女政治家として活躍したという」
ティセは目を丸くして、
「へええ! そんな大昔に!? すごいなあ! かっこいい!」
感歎の声を上げる。そして、ますます挿絵を見入るのだった。
……ああ、そうか……
リュイは初めて思い至った。ティセのような型破りなひとは、保守的なナルジャでは生きづらさを覚えたこともあるのかもしれない、と。だからこそ、いまよりもっと女の立場が弱かったはずのその時代に、政界という表舞台で女ながらに活躍したヴァルサ・ラムチャンドラを褒め称えるのだろう。そう思いつつ、勇ましさを感じさせるその直線的な眉と、それと対照的な、両手でそっと包みたくなるような薄桃色の頬を眺め見た。
少年だと思い込んでいたため、ティセがいままでどんなふうに、どんな気持ちでナルジャで生きてきたのか、本当のところを自分は少しも考えたことがなかったいうことに、リュイは気がついた。幼少時からの思い出話は数え切れないほど聞いている。村中にいたずらを仕掛けまくった悪童だったことや、ガキ大将として君臨していたこと、傷害事件を起こして警察沙汰になってしまったことも。が、リュイはそれを少年としての行為だと思って聞いていた。少女としての行為だと改めて考えてみれば、その行為には違った意味が生じてくる。ガキ大将とは、女だてらにということなのだった。
リュイの目には違和感なく当たりまえに映っているけれど、男の身なりをしていることにも、ナルジャでは風当たりが強かったに違いない。ティセはどんな思いでそれを受け止めてきたのだろうか……。そんなことに気づいてみると、生理のはなしを聞いたときのように、ティセがまた知らない存在のように思えてくるのだった。
ティセは「よっしゃ!」と立ち上がると、女としては常識外れな短髪を手ぬぐいで乱暴に拭きまくり、
「さ、洗濯洗濯! おまえも洗うものあったら貸しなよ」
「ん……ありがとう」
手渡した衣服と手ぬぐいを抱えて、ティセはふたたび部屋を出て行った。パタンと閉まった扉をなんとはなしに眺めつつ、石鹸の残り香を意識する。
ともかく、ティセはいまもそばにいる。ともに歩いている――――……。その事実を噛みしめるように、ゆっくりとまぶたを伏せる。
シドルと別れる瞬間まで、リュイは怖かった。ティセは自分の後ろを歩いてこないのではないかと、生きた心地がしなかった。けれど、ティセはともに歩き始めた。リュイは激しく安堵した。消えかけたとさえ思った道の先を照らす灯りが、ふたたび灯ったように感じていた。
ああは言ったものの、シドルはじつのところティセを誘わなかったのだろうか。ただ自分を困惑させたかっただけだったのだろうか。それとも、ティセはシドルの誘いを断って、自分と歩いて行くほうを選んだのだろうか…………。いくら考えても、まるで分からなかった。本当はどちらなのか、ティセに尋ねてみたい――――……そうも思ったが、リュイは疑問を呑み込んだ。どちらにしても同じこと、こうしてティセは自分とともにいるのだから――――……。
ティセはまた元のように一歩後ろを歩いている。ティセの気配が背後にある。それはまるで、冷えた肌が日差しを受けてじんわりと温まるみたいに、リュイに心地よいぬくもりを覚えさせるのだった。
あの嵐の日以降、ティセはつねにどことなく硬い表情を向けていた。明るい口調で話していても、隠しきれないぎこちなさを含んでいた。いまではもう、そういうことはなくなった。以前のように自然に接している。リュイは胸を撫で下ろした。そして、思う。
ティセはもう自分の想いを知っている。そのうえで、なにも返してはこないのだ。こうしてなにも変わらずに接しているということが、返答だ。旅の相棒のままでいたい、それ以上の気持ちはないと、無言で答えているということだろう。そして、シドルに向けていた想いを忘れるつもりも、当分はないのだろう。リュイはそう受け止めている。
ティセの心がもしも自分に向いたなら――――……もちろんそうは願っている。けれど、いまのままでもいい。こうしてともにいられるのなら、それでいい。それ以上を望んだら、きっと壊れてしまう……。
手を引かれた瞬間が、頭を過ぎる。と、胸がずきんと疼いた。右の手のひらをそっと胸元に当てる。そこには見えない刃が、いまでも静かに刺さっている。




