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上段に構えた木刀の剣先が、青々と晴れ渡る初秋の空を刺している。野辺の秋桜は対峙するふたりを取り囲むように咲き乱れ、さながら観衆のようになって眺めている。やわらかな風が吹き、秋桜は大きくうなずくみたいに薄紫の花を一斉に揺らす。それを合図に、ティセは一歩を踏み出してリュイへ斬りかかる。
上から、と見せかけて胴を薙ぐ。リュイは余裕の無表情で、風にそよぐ垂れ柳さながらの優美さでひらりと躱す。間髪を容れず、隙のできたティセの右脇腹に剣先を向けて、寸前でぴたりと止めた。
「う……」
固まったように動きを止めて、ティセは小さく呻いた。リュイは眉をしかめて不満げに言う。
「前のほうが断然動きがよかった」
「…………」
「攻めるのと同時に防御も忘れるなと、あれほど言ったろう」
「…………」
「少し稽古をしないとすぐに鈍る」
無言を返しつつ、ティセは苦々しさに鼻のつけ根を少しく皺める。そうは言うけれど、稽古をするような心中でなかったのはおまえだろ、頭のなかで反論する。シドルと別れてから、リュイは明るさと微笑みを取り戻し、そして稽古を続ける意欲をも取り戻したようだ。それなのに、まるで鈍ったティセが悪いかのように言う。文句を言いたい気持ちをぐっと呑み込んで、ティセは叱られた子供のようにぶすっと口を尖らせた。
「初心者なんだからしかたないだろう、多目に見てよ……」
リュイは偉そうにふうと溜め息をついて、
「ほら、次」
続きを促した。
改めて対峙する。リュイは身体を斜めにし、剣先をまっすぐに突き出してティセに向かう。ティセは隙を探しつつ律動的に退いていく。呼吸を計り、リュイは大きく踏み出して振りかぶった。振り下ろされた木刀を左斜め後ろへ飛び退いてやり過ごす。そこから相手が手を出しにくい利き腕の外側へ、ティセは一気に踏み込んだ。そのまま手首を討つ――――が、リュイのほうが速い、いともたやすく跳ね返される。
「くっ……!」
ティセは咄嗟に間を取った。
「遅い!」
腕を鈍らせたのを非難して、リュイはいらだちを含んだ声で言い放つ。そして刀身をティセに垂直に向けて、まるで猪のように突き進んできた。
「わ、わ、わ……!!」
その迫力に、ティセはつい大きく後退った。すっかり慌てて、地面の窪みにうっかりと足を取られてしまう。
「わあっ!!」
そのままひっくり返って無様に尻餅をついた。
「いててて……」
リュイは冷ややかにティセを見下ろして、
「転んだらおしまいだ」
ティセはやれやれ顔で訴える。
「……お手柔らかに頼むよ」
「ほら、立って」
リュイは言うだけで手を貸さない。ティセはひと呼吸分、そんなリュイの顔をじっと睨んだ。
「…………」
無言で立ち上がり、ふたたび間合いを取る。にわかに湧いた不満を胸に覚えながら、リュイをしげしげと見据える。それから、その不満をぶつける勢いで、
「いくぞ!」
リュイに向かって突き進んだ。
シュウに入国して十日ほど立っていた。出入国管理所では、さすがにリュイは緊張していた。が、無事審査に通った。「喉が渇いた」と疲れた顔でつぶやいた。そういえば以前の旅でも、入国した直後には同じことを言っていたのを、ティセは思い出した。
入国してすぐ、セレイに手紙を送った。予定が遅れてしまったけれど、順調にそちらへ向かっていると書いた。手紙はそろそろ届いただろう。ふたりがセレイの住むカウゼンに到着するのは、まだ半月ほど先のことだ。
二年半ぶりのシュウ南部の様子には、さほど変わりはない。洋装の紳士が以前より目に付くようになっていたが、足首まであるゆったりした上衣に身を包んだ男たちの装いも、身を回せば花開くように裾が広がる女たちの伝統衣装も健在だ。リュイと同じ北部の衣装を身につけた北のひと、イブリアの民族衣装である腰巻きとトルク姿も入り交じる。相変わらず町は多用さを抱えていて、ティセを愉しませるのだった。
少し大きめの町の繁華街ならどこも、以前より活気を増しているように感じられた。そして、以前は町なかで多く見かけた兵士の数がぐんと減っていた。活気を増して見えるのは、長い徴兵期間が短縮されて、若者が解放されたことを意味しているのだった。新聞で終戦の文字を見ていたが、ティセは繁華街の活気を納得するような思いで目に映した。楽しげに遊んでいる若者の群れを見て、不思議にしみじみとした。それとなくリュイを見遣れば、感慨深げな眼差しで彼らを眺めていた。
町なかの兵士が減ったのと対照的に、以前より目に付くように思うのは、ひと目から隠れるようにして寄り添い合う若い恋人たちの姿だった。ひと気のない路地裏や、昼下がりの公園の樹木の陰、小川のほとりなどで息を潜めるようにしてぴたりと寄り添っている。終戦と軍縮は若者たちの心にそこはかとない解放感をもたらせたのだろう。それとも、恋を知ったいまの自分だから、恋人たちの姿がやけに印象的に映ってしまうのかもしれない……そう思えば、いまはもうどんな町にいるのかも分からないシドルが心を過ぎる。
シドルと別れるまで続いていたふたりのぎこちなさは、表面的にはなくなっている。いままでのように、ときに笑い合い、ときにはむっとし合いながらともに歩いている。リュイは相変わらずなにもなかったような態度でティセに接している。話しづらさを覚えていたティセも、普段どおりに軽口を叩けるようになっていた。
あの嵐の日のことを、ティセはもちろん決して忘れたわけではない。まったく気にしていないわけでもない。たまに思い出せば、なんだったのかと問い質したい気持ちにはなった。けれど、いつまでも引き摺っていてはせっかくの旅がだいなしだ。それに、なにもなかったように接しているリュイに申し訳ない。なにもなかったことに、きっとリュイもしたいのだろう。ふたりはとりあえず自然さを取り戻した。
ただひとつ、ティセに一切触れないことだけは続いていた。手を引かれた衝撃を、リュイは意固地なまでに忘れないのだった。そんなリュイに対して、ティセは傷つけてしまった後悔や申し訳なさよりも、その頑なさへの不満のほうを募らせていた。たやすく深手を負ってしまうその心の在りように、ますます不安や空恐ろしさを重ねるのだった。
一見、元に戻ったようなふたりだが、やはりそれは上辺だけのことであり、ティセを嘆き悲しませる不自然さを内側に潜ませている。変容してしまった自分たちの関係を元に戻す術はないだろうか…………あの嵐の日以前のふたりに……二度目の旅へ出たばかりのころのふたりに……。ティセは心からそれを願い、思い巡らせた。が、いくら願っても考えても、そんな魔法のような術は思い浮かばない。
そも、変容をもたらせたのは第三者でなくリュイなのだ。最高の関係だと思っていたのは、そしてそれを保ちたいと思っていたのは、自分だけなのだろうか。それとも、あの最高の関係はリュイにとってはどうでもいいことなのだろうか……。そんなふうに思うと、ティセはいっそう悲しくなった。
前を行くリュイをじっと見据えて、ティセは頭のなかで語りかける。
……そのうちきっと、元に戻るよね……
路傍に秋桜の揺れる、なだらかな坂道をのんびりと行く。涼風に乗るように蜻蛉の群れが流れ来て、ふたりを掠めて飛んでいく。風は初秋の香りを漂わせる。
「いよいよ秋っぽくなってきたねえ」
リュイは「ん……」と返して、秋桜に目を向けた。その微笑んだような瞳を見れば分かる、リュイは秋桜が好きなのだと。かつて、その花の名を教えたのは自分だったと、ティセは懐かしく思い出す。
シュウに入るまではよく見かけた庭石菖の可憐な花は季節を終えて、すっかり見かけなくなった。まるで、北方へ向けて歩いて行ったシドルがその花を引き連れて行ってしまったように、ティセには感じられた。
別れてから数日は、切なくてたまらなかった。幾度もシドルを思い出した。リュイとともに歩いて行くという選択に一切の悔いはない。が、もう会うことはないだろう事実が胸を苦しくさせていた。分かってはいるのについ後ろを振り返り、後方にシドルの姿がないのを確かめて、そのたびに込み上げるものを感じていた。
けれど、思い出す回数はまもなく減っていった。リュイがにわかに明るさと微笑みを取り戻したからだった。シドルがそばにいることは、やはり精神的に大きな負担だったのだろう。
ともかく、硬い顔つきをようやくやわらげた。リュイが微笑っている、楽しげに過ごしている。それが、ティセにはこの上もなく嬉しいのだ。おまえが楽しそうなら私も楽しい…………かつての発言のとおりなのだった。
思い出す回数が減る代わりに、ティセは無意識に心の奥のほうへシドルを刻んでいった。姿と、声と、あの廉直な心を、自分だけの宝物のように大切に仕舞い込んだ。ほんの数週間に過ぎない恋だったけれど、それはティセのなかに特別なものとして結晶していった。まるで、恥ずかしいような、けれど隠したくもないような、拙いのにそれはそれで完成したのだと思える、ティセが初めて描いた一枚の絵のようだった。
この先、あんな気持ちになることがあるのだろうか、いまはまだ想像もできない。もしもいつかあったとしても、心の額縁に飾ったこの絵が色褪せることはきっとない、いまのティセにはそう思えるのだった。
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