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解放者たち 第二部  作者: habibinskii
第四章
41/71

19

 夕食後、激闘のあった裏庭の縁を流れる小川沿いを、シドルとふたりで散歩した。月影さやかな晩だ。月の光を水面(みなも)に砕いてきらめかせ、小川はしゃらしゃらと心地よい音を立てている。辺りは蛍が飛び交って、光の線をゆるやかに描いては、ふっと消えていく。小川の向こうの広々とした玉葱畑は月明かりに満ちて、ことのほか明るく見える。田舎町の平凡な夜に過ぎないのに、明日の別離がもたらす感傷のせいか、ティセの目にはひどく幻想的に映っていた。胸にうっすらと浪漫を覚えていた。


 川辺を一列になってのんびりと歩く。話をしながら、ときおり振り返り、立ち止まり、蝸牛の歩みでどこまでも行く。時が過ぎていくのをしみじみと意識しつつ、シドルと過ごすいまこのときを大切に抱きしめる。

 畑の端に行き着いて、川辺の小道は木の柵に遮られた。小川は柵の下をくぐり抜け向こう側の別の畑のなかを流れていく。


「おっと、ここまでだ」


 ちょっと休もうか、とティセは草の上に座り込んだ。シドルも隣に胡座を組む。きらきらと輝く水面を眺めて息をつく。

 ティセはにやりと笑みを向け、


「さっきのおまえたち、めちゃくちゃ恰好よかったよ」


 少々荒っぽい口ぶりで照れを隠しながらも、感想を素直に告げた。シドルは前を向いたまま、

「……フン」

 鼻を鳴らすように嗤う。ティセは高尚な野生動物のようだったふたりを思い浮かべて、もういちどうっとりとする。目に鮮やかに焼きついた、生涯忘れることはないだろう。

 畑の果てをなんとはなしに見据えたのち、


「……短い間だったけど、とっても楽しかった。おまえと会えてよかった……」


 囁くように告げた。

 シドルは暫し黙っていたが、前を向いたまま沈着に返す。


「もう一生会うことはない」


 畑の果てを真顔で見つめている。


「……そ、そういうことをはっきりと言うなよ」


 思わず咎めると、シドルはティセの目をまっすぐに見て、「事実だ」と述べる。


「俺はあいつと違って、おまえに会いに行ったりはしない」


 嘘つきが嫌いなシドルは、嘘をつかない。

 それは事実だろうし、我が儘を言うつもりもない。が、悲しいことを真綿に包みもせずに告げられて、ティセはつい不服と悲しみを顔に表してしまう。鼻の奥がつんとして、意に反して涙が滲んだ。ふっとうつむいてその顔を隠す。

 思いがけない反応だったのか、シドルは顔をはっとさせ、当惑したように黙り込んだ。沈黙が続く。小川の音がよりさやかに聞こえる。


 ふいに、シドルは両腕を差し伸ばし、ティセの両脇を取った。子猫をひょいと抱き上げるように軽々とティセを抱き上げて、組んだ脚の上に引き寄せる。そのまま横向きに包み込むように抱きしめた。ティセは心のなかで「あっ!」小さく叫ぶ。

 涼やかな夜風に冷えた肌が、シドルの体温に触れて感覚を増す。にわかに溢れ出した想いが熱となって、ティセを内側から熱くする。大きな肩に頬を寄せて、驚きと緊張のあまり全身を硬くしていた。胸が早鐘を打っている、身体中が心臓になったみたいで、ティセは息が苦しくなった。

 どうしようもなく可愛い、と言いたげな口ぶりでシドルは囁く。


「おまえ……心臓が速い……」


 温かな右手をティセの左頬へ宛がうと、ゆっくり顔を上向かせ、そっと唇を塞いだ。ティセはもういちど心のなかで小さく叫ぶ。清らかな小川の音がさらに明瞭になって、唇を重ねるティセの耳の奥に響いていた。


 緊縛のようだったリュイの抱擁とはまるで違い、シドルは大切なものを守るようにティセを包み込む。たとえば頑丈な城壁に守られて心から安堵するように、シドルの両腕のなかでティセは自由だった。重ねられた唇は優しくて、シドルの内側を貫いている実直さに満ちていた。怖さなど欠片もない。ティセを少しく不自由にさせているのは、自分自身の胸の高鳴りだけだった。


 唇が離れたあとも、そのままでいた。シドルの広い胸に頬を寄せて、恋心にのぼせてしまったようにぼんやりとしていた。シドルは無言で、微睡む幼子を包み込むようにティセをやわらかく抱きしめ続ける。夜更けの川辺はことのほか静かだ。川音さえ静けさの味方だった。

 シドルの腕のなかで、ティセは自分がとても小さなものになったように感じていた。それはシドルがとても大きいからであるが、そうではない、そんなふうに思える。ティセは無意識に願ったのだ、シドルの描く小さなものたちのひとつに、自分はなりたいのだと。シドルの描く小さなもの――――……その孤独な心を救うもののひとつに……。


 すると、はしなくもリュイが浮かんだ。明日の別離を前にして、心残りになっていることが心の奥からふうっと浮かび上がる。

 ティセはわずかに顔を上げ、ためらい気味の弱々しい声で問う。


「ねえシドル…………リュイにありがとうは……やっぱり言わないの……?」


 シドルの胸の内は恨みや憎しみだけではないのを知らせて、リュイを救いたいという気持ちを、ティセは忘れていないのだった。


「…………」


 長いことシドルは黙していた。

 返答をあきらめかけたころ、シドルはにわかに腕に力を込めた。ティセをきつく抱きしめて、


「……おまえが知っていてくれるなら、それでいい……」


 まっすぐな声音で囁いた。



 ――――知っていてくれるなら…………決して口にできない本心を、おまえが知っていてくれるなら……――――



 瞬間、熱いものが胸の奥から迸る。


「シド……!」


 収まりきれずに溢れ出し、呼び声は掠れる。もうどうしていいのか分からず途方に暮れた。必死な思いになって、シドルの背中に両腕を回してしがみつく。



 ……シドル……!



 心で幾度も呼びかける。

 シドルの体温、衣服越しの肌の感触、匂い、鼓動、息遣い…………知ることのできるすべてを感じたい。ティセは五感が見るまにはっきりとしていくような、それでいて意識は急速にぼんやりとしていくような、かつて感じたことのない不思議な感覚を覚えていた。

 いま、この瞳はシドルしか映さない。いま、この耳はその声と息遣いしか聞こえない。川音も風音ももはや聞こえない。フクロウの鳴き声も、誰かの足音も、きっと耳には届かない。

















 なだらかな丘を越えると、昼前の明るい空の下にヌワラバードの全景が現れた。シータ教寺院の立派な尖塔が聳え立ち、それを中心に町が広がっている。町外れには大きな工場が建っていて、二本の黒い煙突が灰色の煙を棚引かせる。


「着いたね……」


 ティセは独りごとのようにぽつりと口にした。シドルは横たわるヌワラバードを見据えたまま、曖昧に「ああ」と返す。ふたりは今朝から口数を少なくさせていた。寡黙になればなるほど別れが胸に迫るのを知りつつ、なにか話題を探そうという気にはならなかった。ひとと別れるときはたいていの場合、できるだけ明るくさよならを言おうとティセは思うのに、そういう気持ちは起こらない。むしろ、この切なさに浸りたかった。シドルがなにを思っているのか、ティセには分からない、けれど、鳶色の瞳は陰を帯びたように冷静で、どこか感傷的に見えるのだった。




 見通しのいい野原をしばらく行くと道が二手に別れて、そこへ標識が立っているのが見えた。西へ続く道と、北へ向かう道の分かれ目だ。少し前を歩くリュイがおもむろに足を止める。ティセとリュイは西へ続く道を行き、このままヌワラバードの中心街を目指す。シドルは北へ向かう道を行く。標識が目に入った途端、ティセはたまらない名残惜しさに襲われて、ぐっと涙を呑み込んだ。


 ふたりが追いつくと、リュイはなにか思うことを抱えているときのように、いやにゆっくりと振り向いた。ことのほか冷ややかな瞳をして、ふたりを見る。シドルもまた、ひどく冷静にリュイを見据えている。

 ティセは右手を差し出して、


「シドル、元気でね」


 シドルは言葉は返さずにただうなずいて、事務的に握手をした。そして、改めてリュイを見向く。

 つぶやくようにリュイは言う。


「元気で……」

「……おまえもな」


 ふたりは表情もなく互いを見据えていた。やがて、シドルは歪めるようにわずかに口角を上げ、


「行けよ」


 リュイは無言で道の先へと歩き出す。ティセはリュイの後ろ姿を見つめるシドルの顔、その眼差しを目に焼きつけて、



 さよなら、シドル…………



 背を向けて歩き始める。

 シドルの気配が遠くなっていく。振り返ってもういちどその姿を目に映したい。そんな気持ちを押し留め断ち切るように、リュイの後ろ姿だけを見つめると決めた。



 が、まもなく、シドルは大声を上げた。いやでも背筋が伸びてしまうような、軍隊仕込みの大声だ。




「リュイ・スレシュ脱走兵に、敬礼――――!!」




 ティセはどきりとし、リュイはびくりと全身を強張らせる。ふたりは同時にシドルを振り返る。


 シドルはリュイをまっすぐに見つめて敬礼をしている。全身のどこにも歪みのない正しさで直立し、岩のように微動だにせずに。折り曲げられた右肘の絶妙な角度、頭上にかざした不動の右手の冴え冴えとした緊張感、真摯な眼差し――――なにもかもが完璧な、脱走兵と呼ぶこと以外は心からの敬意を表していると分かる、美しい敬礼だ。


 リュイは憮然として、忌々しげな目つきでシドルを睨んでいた。のち、顔つきを改めて、静かに答礼した。シドルと同じく、周りの空気を清浄にさせるような一切の歪みのない敬礼だ。すると、すべてのものが一気に引き締まったかのように、辺りは粛然とした。

 ティセはふたりを交互に見遣る。その美しい立ち姿に目も心も奪われて、またもや見惚れていた。ふたりはやはり神聖な尖塔のようだ、ティセは心底そう思う。気高く、どこにも瑕疵のない尖塔だ。


 シドルはリュイを見据えたまま、ゆっくりと口の片端を上げた。皮肉めいていながらも、いままでリュイに向けた表情のなかで、それは一等親しみが込められていた。







 ヌワラバードの郊外に差しかかり、辺りに田畑が広がり始めた。通りすがった牛車の荷台から、日に焼けた農夫がふたりに微笑む。シータ教寺院の尖塔が少しずつ近づいてくる。シュウへの国境はもう目と鼻の先だ。

 奇妙な三人の旅の果て、ふたりきりに戻る。元に戻ったようでいて、けれど元のままでは決してない。久しぶりにすぐ前を行くリュイの後ろ姿を見つめながら、ティセはそんなことを思っていた。


 ふいに、リュイは歩きながら静かにティセを振り返った。なにか言いたげな、どことなく戸惑っているふうな眼差しで、ティセをじっと見ている。


「……なあに?」


 リュイはなにも答えず、口にしたかったことを呑み込むかのように、ゆっくりと瞬きをした。そして、前を向き直す。怪訝に思い、ティセはその横顔をそっと覗き込む。

 何故だろう、感に堪えないときにするように、リュイは暗緑の瞳を揺らしていた。








【第四章 了】










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