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解放者たち 第二部  作者: habibinskii
第四章
40/71

18

 夕刻の雨は今日も降らない。心なしか涼しさを増した風が、野原をそよそよと流れている。たくさんの蜻蛉たちが、座り込むティセとシドルの周りを行ったり来たりしていた。

 シドルは絵を描いている。棘を消し去った真摯な眼差しで画題を見つめている。ティセはその斜め後ろに座り、邪魔にならぬよう息を潜めつつ、その真剣な横顔と鉛筆を握る指の微妙な表情、細やかな手の動きを眺めていた。ときおり、野原一面に散在するように咲いたあの花、可憐な庭石菖に目を移しながら。


 明後日、ヌワラバードへ到着する。シュウへは二度と戻るつもりはないというシドルは、タミルカンドへ向かう意向を変えない。別れは確実だ。ティセの初恋はこのまま思い出になる。旅という特別な日々のなかの、ひときわ特別な思い出に……。

 決して忘れてしまわぬように、ティセは絵を描くシドルの姿を目に焼きつけたい、心に焼きつけたい。濁りを含むのに心地よい声や、横柄な言葉のひとつひとつを、耳を澄まして鼓膜に刻みたい。シドルを見つめる眼差しは、いま一等ひたむきさに満ちている。

 絵に集中しているとはいえ、あまり見つめすぎては邪魔になる、そんな気がしてティセはそっと目を逸らす。微風に揺れる庭石菖を眺め見た。それもシドルだ。この先、この花を目に留めるたびにシドルを思い出してしまいそう、きっとそのたびに切なくなる……。なんだか怖いような、それでいてあえかに甘いような、不思議な気持ちに囚われる。別れをはっきりと意識しながら、ティセをじわじわと熱傷させていく想いをひしと抱きしめて、胸を焦がしていた。


 シドルは手を止めて、わずかに顔を上げた。絵を描いているときのまま、目元から険しさを消している。じっと、前を見据えた。

「できた?」

 少しく身を乗り出して、画帖を覗き込んだ。シドルはゆっくりとティセを振り向き、とても静かに告げる。


「おまえ……俺とタミルカンドへ向かわないか」

「え……」


 ティセの瞳を、シドルはまっすぐに見つめている。


「あいつと別れて、俺と行かないか」

「…………」

「おまえといるのは悪くない、そうしろ」


 ティセは驚きのあまり頭のなかが真っ白になった。唇をかすかに開けて、呆然とシドルを見つめ返す。その鳶色の瞳は奥底まで澄んでいて、偽りはない。本気で問うているのだ。途端、嬉しさが猛烈に込み上げて、ティセは小動物のように打ち震えた。シドルもまた、少しは自分と同じ気持ちでいる…………込み上げる嬉しさが涙腺を刺激して、思わず涙ぐんだ。

 涙ぐんだ顔が恥ずかしくて、ティセはじっとうつむいた。シドルは真剣な眼差しでティセを見据えたまま、黙って返事を待っている。それ以上の言葉で喧しく誘うことも急かすこともせず、その実直さのままにティセを待つ。


 リュイと離れてシドルと歩いて行く――――そんな選択肢もあるのだと、ティセは初めて知った。切ない想いを抱きながらも、毫も頭に上らなかった。差し出された選択肢に、胸がはっとする。


 シドルとともに歩いて行けば、その姿をずっとこの目に映していられる。その声と言葉を耳にしていられる。小さなものたちの健気さと強さを写し取る大好きな姿に、ずっと寄り添っていられる……。そして、自分がそばにいることを、シドルが望んでいる。



 リュイと離れて、シドルと行けば……――――



 胸の奥でそっとくり返す。――――そのとき、たとえば一陣の風が吹き抜けて、瞬く間に霧が流れ去るのに似たように、心のなかがにわかに透き通ってよく見えた。ティセはそこに、自分を貫いている揺るぎないひと筋の線が、まるで聳え立つように存在しているのを見た気がした。すると、嬉しさをひしひしと感じながらも、すうっと冷静に戻っていった。



 ……リュイと離れるなんて……ありえない――――……



 涙を目尻に滲ませたまま、ティセは顔を上げてシドルを見据える。感激のために掠れてしまった声で、静かに、けれどはっきりと告げる。



「シドル……ありがとう、すごく嬉しい…………でも、それはできない」



 迷う必要も余地もない、自分はリュイと歩いて行く。たとえいま哀しい隔たりが生じていても、このうえない相棒のふたりはきっと克服できる。リュイと歩いて行く、この旅が終わるまでともにいる、十四のころに立ててくれた誓いのとおり……――――――

 黒い瞳は涙を滲ませながらも曇らずに、揺るぎないひと筋の線と同じだけ澄んでいる。



 シドルは顔つきを変えず、しばらく黙っていた。やがて、ふっと表情を和らげて、

「そう言うと思っていた」

 あっさりとした口調で言った。

「え……」

「けれど……」

 わざとらしく目と声を怒らせて、


「少しは迷え!!」


 ティセの頭に手を伸ばし、いままでで一等めちゃくちゃに髪を掻き乱す。


「ご、ごめん……ってちょっと、やめ……!」


 シドルの膝の上の画帖には、描き上げたばかりの庭石菖。流れるように飛来した蜻蛉が紙面の隅に留まって、息をついていた。















 別れの前日は、ほかに宿泊客のいない寂れた宿に部屋を取った。だだっ広い裏庭には壊れた家具が片隅に幾つも打ち棄てられていて、客室同様に侘びしさを漂わせていた。庭の縁には小川が流れ、その向こうには玉葱畑が広がっている。西に傾いた日差しが裏庭を薄黄色に照らしていた。

 ティセは水浴びと洗濯を済ませて、痩せた二本の木に張った紐に洗濯物を干している。リュイは置き石に腰かけて本を読む。


 シドルが裏庭へやってきた。迷いのない足取りでリュイへ近づき、差し向かうように立つ。なにかありそうな意味深長な顔つきだ。ちょうど洗濯物を干し終えたティセは、シドルの様子に厭な予感を覚え、背筋をひやりとさせる。

 リュイは本から目を上げない。気づかないのではなく意図的にそうしているのだ。静かに放った忌ま忌ましさがまるで目に見えるようなので、ティセにも分かった。

 シドルは改まったように呼びかける。


「リュイ・スレシュ」


 だいぶ間を置いて、リュイはおもむろに顔を上げた。無言でいるが、厭わしさたっぷりに「なに?」と顔で問うている。シドルは涼しい顔でそれをやり過ごし、


「久しぶりに手合わせを願いたい」


 ティセはぎょっとした。


「…………」


 リュイは冷ややかな目をして黙っている。シドルは「またか……」と言いたげに返答を促した。


「聞こえただろう!?」

「断る」


 目と同じだけ冷ややかに素っ気なく返した。


「何故だ?」

「……意味のないことはしない」


 莫迦莫迦しい、と言外に滲ませる。すると、シドルはにやりと口角を上げて嘲るように言う。


「自信がないか?」

「…………」

「負けたら面目が立たないからな」


 言いながら、それとなくティセを目で指した。途端、リュイは静かに、けれどはっきりと顔つきをむっとさせた。声を低めて小さく呻くように、


「……挑発するな」


 その反応がさも可笑しそうに、シドルはますます口角を上げる。


「挑発? とんでもない、俺はお願いをしているんだ」


 リュイは膝の上で両の拳を硬くして、暫し押し黙っていた。やがて、不自然なほど冷静な表情になり、ゆっくりと立ち上がった。シドルの目を睨むように見る。


「分かった。…………けれど、条件がある」

「なんだ?」

「きみは長剣、僕は短剣、それでいいなら」


 そこはかとなく居丈高に告げた。今度はシドルがあからさまにむっとする。


「ふざけるな!!」


 怒声を返す。リュイはシドルの右脚にちらりと目を遣って、


「いまのきみから一本取ったとしても、僕は少しも嬉しくない」

「…………」


 眉根に皺を深く寄せてシドルは黙り込む。


「それが厭ならしない」


 ふたりは静かに睨み合った。触れたら痺れそうな緊迫感に包まれている。ティセは干した洗濯物の横に立ちつくして、ますます背筋をひやひやさせる。

 シドルは辺りの空気を歪ませてみせるほどのいらだちを放って、ひどく立腹しているようだ。が、厭ならしないというならばしかたがない、押し堪えた声で渋々と了承した。


「……分かった、それでいい。…………後悔するなよ」

「きみのほうこそ」


 リュイは腰の革帯から長剣を外して無造作に投げ出した。ガシャリ、と重たい金属音が上がる。全力の跳躍のために身軽になったのだ。つかつかとティセに歩み寄り、有無を言わせない口調で、


「貸せ」


 右腕をすっと伸ばして、風のような速さで腰に提げた短剣を鞘から抜き取った。同時に、シドルが腰の長剣を抜く。ティセは仰天して目を剥いた。


「ちょ、ちょっと!? なにやってんだよ! やめろよっ!! やるなら木刀でやればいいだろう!? 正気かよ、ふたりとも!!」


 ふたりはともにティセを向き、


「おまえは黙っていろ!」


 同じことを鋭く告げた。聞く耳など微塵も持っていない、その勢いにティセは引き下がるしかない。



 ふたりは裏庭の中央で対峙する。しばらくの間、精神を統一しているかのように目を閉じて静止していた。そうして向かい合いながら、殺気にも似た緊張感を全身から放ち続ける。見るまに張りつめていく。殺気に似ているにも拘わらず、それはひどく清浄で、絶対的な静を感じさせた。ふたりは厳粛さに包まれていく。その光景は清冽という言葉がよく似合う、ティセは呆然と立ちすくむ。



 どちらからともなく、開眼――――――圧倒的な動をもって動き出す。



 次瞬、刀身の触れあう甲高い音がひとつ、空へと鳴り響く。同時に、リュイは豹さながらの敏捷さで飛び退いた。なにが起きたのか、ティセの目では追えなかった、はっとしたと同時にリュイは飛び退いていた。ティセは目を瞠る。


 裏庭はシンと静まった。はっとしていたのはティセだけではない。相対するふたりは、ふたりともが瞠目していた。声を失ったような様子で、互いを愕然と凝視している。

 長剣を斜に構えながら、シドルは目元を震わせる。


「……鈍っていないとは、どういうことだ!!」


 苦々しげに問えば、リュイは凄まじい衝撃を受けた右腕を強張らせつつ、


「きみこそ! 事務仕事をしていたんじゃないのか!?」


 ふたりとも顔が「まずい……」と言っている。



 改めて正対し睨み合う。ふたたび緊張感に包まれる。内側にあるすべての余計なものを、殺気とともに放っている。


 シドルが一歩踏み出した。呼応してリュイは突き進む。一足一刀の間合いに滑り込む隙を跳躍しながら探し出す。近間に飛び込んだ。同時にシドルの右腕が唸りを上げる。リュイは視界から消え失せたように腰を低く落とし、瞬くよりも速く飛び退いた。そして、いまが隙、と間髪を容れずにもう一度飛び込んだ。シドルは見切っている、突き出された剣先を確実に受け止める。甲高い音が響き渡る。


 咄嗟に退いたリュイも、防御したシドルも、想像以上の激闘を予感して青ざめているように見える。いま目の前で繰り広げられた一連の動作は、ティセの目ですべてを追うことはやはりできなかった。恐ろしく速い、さながら野生動物だ。


 忌々しげに目元を震わせたのち、リュイは再度攻撃に出た。絶対に負けるものか――――らしからぬ意思を漲らせているのが全身にはっきりと見える。応戦するシドルもまた、同じ意思を全身に纏っている。闘志をむき出しにして立ち向かう。


 かつて、ひと売りの組織に追われてリュイは剣を抜いた。その腕前にティセは驚愕した。が、あのときのリュイは肩に怪我を負っていた。怪我のない状態で剣を振るう姿を初めて見る。リュイの実力はあんなものではなかったと、ティセはいま思い知る。自分としていた稽古など、リュイにとってはお(さら)いにもならない、準備運動のようなものなのだ。剣術の道場なら巷に幾らもあるが、おそらくはその師範さえも及ばない実力を、リュイは、そしてシドルは持っている。それが、同期のハジャプートのなかでも上位に位置していたふたりの実力なのだ。自分はこんなひととともにいるのだ、ティセは不思議な気持ちに包まれる。



 ほぼないに等しい隙を狙い定めて、間合いに飛び込んでいくリュイの姿は、まるで美しい曲線を描いて跳ね上がる強靱な鞭と同じ。シドルはしなやかな鞭を確実に撥ね除けながら敏捷な獲物へと突き進む、その腕は頑強さと繊細さを併せ持つ棍棒だ。ふたりの纏う北部の衣装、襟もとに巻いた薄布の裾が動きに合わせて優美に舞った。ふたりはまさしく美しい獣だ。そのあまりの美しさに、ティセは我を忘れて見惚れていた。真剣を使用している危うさをないものにさせるほどの、鮮烈に美しい光景だ。




 静けさと激しさの攻防はひどく長く続いた。どちらとも相手を下せないまま、時だけが過ぎていく。ふたりは顔つきを厳しくさせていた。額に汗を滲ませて、つらそうに荒い息を吐き始める。普段あまり汗を掻かないリュイの首筋にひと筋の汗を見たとき、ティセは我に返った。このまま続けていては集中力を欠いて、大怪我をしてしまいかねない。

 足元の小石を取り上げて、対峙するふたりの間に投げ込んだ。



「そこまで!」



 ふたりは顔をはっとさせ、びくりと肩を震わせた。若干目を見開いてティセを向く。ふたりは無我夢中で、そこにティセがいることをすっかり忘れていたようだ。

 ティセは偉そうに腕を組み、故意にぞんざいな口ぶりで告げる。


「もういいだろ? 制限時間、日が暮れちゃうよ。私も飽きてきちゃった!」


 一気に気が抜けてしまったように、ふたりは剣を持つ腕を力なく下げた。そのままうつむき加減になり、束の間無言でいた。


「…………」


 茜色を帯び始めた空に、数羽の鴉が鳴きながら飛んでいった。夕刻の光と鴉の声と、ふたりのしんみりした沈黙、哀愁漂う夕風が裏庭を流れていく。



 剣を鞘に収めたシドルは、不満げに目を怒らせてティセのいるほうへやって来た。すぐ横に、感情露わにどかりと胡座を組む。リュイは疲れ切ったようにその場に頽れ、両膝をついて静止した。


 シドルはさも悔しげに、

「ううう……」

 地を這うような低声で呻く。


「……結局最後まで、こいつからは一本も取れないままなのか……なんてことだ!!」


 わななき声で嘆いた。ティセはそっとしゃがみ込む。やれやれ顔で笑み、そんなシドルを慰める。


「ま、いいじゃないかシドル。だって、それはリュイも同じだろ」


 と、リュイを見向けば、あられもない様子が目に飛び込んだ。ティセは、そして同じく見向いたシドルも、途端に目を丸くする。声を詰まらせる。


 リュイはうつむき加減に両膝をついたまま、顔中に零れるほどの悔しさを表していた。固く目を瞑り唇を噛みしめて、眉根をきつく寄せている。顔つきだけではない、硬くした両の拳も、肩も、呼吸さえも震わせている。突き上げる悔しさを隠すことすら悔しくて忘れている、そんな心の状態を身体中で率直に語っていたのだ。

 ティセは驚愕のあまり、つい声が上擦った。



「……お、おまえ……そんな顔すんの……? 初めて見た……!」



 悔しすぎて聞こえないのか、リュイはただ痙攣したように震えている。呆然とするティセの隣で、シドルはそれ以上に呆然としている。目も口も開いてリュイを凝視する。

 やがて、シドルは歓喜に貫かれたように、にわかに破顔した。



「それだ……!! おまえのその顔を、どうしても見てみたかったんだ!!」



 腹の底から突き上げられているように、シドルは高笑いを上げた。痛快だとばかりに、不躾に。シドルが声を立てて笑うのを、ティセは初めて見た。なんだか嬉しくて、一緒になって笑ってしまう。リュイに申し訳ないと、できるかぎり声を殺して。

 リュイはますます拳を握り締め、閉じた目元を震わせていた。













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