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翌日は休日、ティセは朝から友人の家を巡り、もしも都合がよければ午後のお茶の時間に家へ来てくれるよう伝え回った。リュイに友人たちを紹介したいからだ。
「校長にぜひ会って欲しかったのに、しばらくいないんだよー!!」
校長に紹介できないことが、心の底から無念だった。
甘い菓子を盆に盛り、大量の茶を沸かしていると、カイヤとほか三人の声がした。戸口で出迎えれば、いまどきの若者らしく、白いシャツに洋装の脚衣でお洒落をしたカイヤが軽く片手を上げた。
「よう、ティセ」
「待ってたよ。みんな来てくれてよかった」
プナク、ラッカズ、スストは、カイヤの一歩後ろに控えにこやかに笑っている。今朝も顔を合わせたが、この三人と遊ぶのは久しぶりだった。
ここ一年くらいの間に、三人とは少しだけ距離ができていた。皆、仕事や生活に忙しくしているのもあるが、それに加えて、三人はだんだんとティセを女の子扱い――――というよりは、自分とは異なる存在として意識的に区別するようになってきていたからだ。友情の厚さに変わりはなくとも、以前のような気兼ねのない関係ではなくなりつつあるのだった。気にしていないふりをしていたが、ティセは内心とても寂しかった。
けれど、しかたのないことだ。カイヤだけは、いまのところなにも変わらずにいてくれる。ティセに出くわせば際どい冗談を飛ばし、平気で頭を小突き、肩や背を叩いた。いつまでも変わらずにいてくれたらと、ティセは願っていた。
「入って入って」
自室へ招く。カイヤはさわやかな挨拶の笑顔を満面に浮かべ、
「こんちはー」
元気よく部屋へ入ったものの、胡座を組んで座るリュイをひと目見て、笑顔を顔に貼り付かせて停止した。ほかの三人も呆気に取られたように固まっている。
「…………」
言葉を詰まらせたあと、信じられないと言わんばかりの目でティセを睨み、
「ほんとかよ、これ!」
ティセはシシシ……と笑いを堪え、
「ほんとほんと」
気を取り直すように短く息を吐き、カイヤはふたたびリュイを向いた。
「おまえがリュイか。カイヤ・ハフィーザだ。よろしくな」
リュイはすっと立ち上がり、差し出された右手を受けて握手をした。
「よろしく。きみのことはたくさん聞いている」
再度ティセを睨み、
「なに話したんだよ、おまえ!?」
「あはははっ! いいことしか話してないから心配すんな」
ふたりはちょうど同じくらいの背丈だった。カイヤはリュイの目をじっと覗き込み、感心したようにつぶやいた。
「……きれいな瞳だなあ……」
「そう?」
さすがカイヤは違うと、ティセは思った。ほかの三人はリュイの近寄りがたさに圧されて少々気後れしているようだった。声をかけづらいのだろう、ティセは順番に紹介した。
「リュイ。これプナク、ラッカズ、スストね。みんな初等部からの仲良しなんだ」
リュイはわずかに笑みを作り「よろしく」、すると、三人は戸惑い気味ながらも口々に同じ言葉を返した。
茶の用意がととのい談笑が始まったころ、戸口からナギの声が聞こえた。
「ティセ姉!」
「お、来た来た」
ナギはひと遊びしたあとだと分かる薄汚れた脚衣を履いて、出迎えたティセに親しみの籠もる目を向けた。
「ティセ姉、遅くなってごめん」
「いや、まだみんな来たばかりだよ。さ、入って」
ナギが姿を見せると、手前側に座る四人はそれぞれ、
「ようナギ、久しぶりだな」
ナギは先輩たち……とりわけ、兄貴分としてティセ同様に慕っているカイヤに笑顔を向けた。
「カイヤ兄、進級試験のこと聞いたよ! すごいよ、おめでとう!」
そして、いちばん奥に座っているリュイに目を移し、はっと顔つきを変えた。
「…………」
屈託のなかった表情が、みるみる硬くなっていった。あからさまに気圧されていた。
ティセは、その子供らしい華奢な肩をポンと叩きつつリュイへ、
「これナギ。初等部の六年生になったとこ。私のこぶ……いや、弟みたいなもん」
リュイはまた笑みを作り「よろしく」とひとこと言った。ナギはひと呼吸分ほど黙したのち、小さくうなずくような会釈だけを返した。
仕事部屋から聞こえてくる足踏みミシンの音を伴奏に、茶会は和やかに続けられた。さほど広くはないティセの自室に自分のほか、五人の若者とひとりの子供がいるのだから大変窮屈に感じる。プナクがスストに「おまえいますぐ痩せろ」と文句をつけて、言われた本人も含めた爆笑が上がった。
談笑の中心はティセとカイヤだ。リュイは尋ねられたことだけを過不足なく答えるだけで、あとはもの静かに聞き役に徹していた。社交性に欠けるところも相変わらずなのだった。そして、生い立ちに触れる問いかけには、やはり嘘をついた。
ナギは表情を硬くしたままだ。快活なナギには似つかわしくない重たげな顔をして、ちらちらとリュイを窺っていた。まるで不審なものを見るような目つきでだ。談笑にもほぼ加わらず、押し黙っていた。それほどに甚だしい隔たりを、リュイに感じているのかもしれない。
莫迦話にひとしきり笑ったあと、ティセは窓の外へそっと目を遣った。胸に気懸かりが過ぎる。
…………ラフィヤカが来ない…………
今朝、真っ先に向かったのは、ラフィヤカのところだ。店先から奥の住居へ声をかけたら、開店しているのに誰もいないのかと思ったくらい長く返事がなかった。やがて、奥の土間のほうから、ラフィヤカはのっそりと現れた。とても怖い顔をして、ティセを睨むように見ていた。店の奥に佇んだまま、それ以上近寄ってはこなかった。
本当にリュイが来たのだということは、すでに噂になっているので知っているはずだ。ティセは戸惑いと違和感を覚えつつ、今日のことを話した。なにか言いたげな口元をしていたにも拘わらず、ラフィヤカはひとことも返事をせずに、ひたすらティセを睨み、ふいと室内へ戻ってしまった。
ティセは店の奥を呆然と見つめながら、胸の奥でつぶやいた。
……ラフィヤカは、リュイを歓迎しない…………自分の旅立ちを許せないんだ……
気懸かりを胸に、暫し窓の外を見つめていた。すると、カイヤが耳打ちをした。
「ティセ、ラフィヤカ呼んでないのか?」
誰にも聞こえないように小声で返す。
「呼んだよ、もちろん……でも来ないんだ……」
「…………そっか……」
カイヤは一瞬だけひどく切なそうに目を伏せた。が、すぐに明るい顔に戻って、リュイに問いかけを続けた。
気懸かりを読んだわけではない、カイヤはたんにラフィヤカに会えないのが残念なのだろう。尋ねてみたことはいちどもないが、幼少時、カイヤは間違いなくラフィヤカを好きだった。だからこそあんなにいじめて、とうとうラフィヤカを男嫌いにしてしまったのだ。おそらく、いまでもひそかに想いを寄せているのだろうと、ティセはずっと思っている。
結局、お開きになってもラフィヤカは現れなかった。ナギはついにリュイとは口をきかず、しまいまで硬い顔を緩めなかった。「どうした?」と尋ねても、「ううん、なんでもない……」と小さく返すだけだった。
翌日、昼の勤務を終えたあと、ティセは弁当箱を片手に浮き浮きと小走りで家へ戻った。母親は今日、めずらしく出かけている。ジャールに住んでいる資産家の顧客の館に招かれて、新しい衣装の打ち合わせがてら昼食会をするのだと話していた。久しぶりにリュイとふたりで食事ができるのを楽しみにしていた。
「ただいまー」
リュイは静かに本を読んで待っていた。すぐに昼食の用意をし、普段食事をしている仕事部屋兼居間ではなく、ティセの自室で向かい合う。
「おまえ、ちょっとは外に出たの?」
「いや、ほとんど出ない。すぐそこの売店へ行っただけ。…………視線が痛い」
だろうな、とティセは苦笑した。うらうらと陽の差すこんな気持ちのいい春の日に、不健康に引きこもっているのはよくないが、例の噂がもしもその耳に入ったら居たたまれないので、やたらと出歩かなくていいと勝手なことを思っていた。
芥子菜の炒め煮と漬け物を飯に混ぜつつ、ふたりきりになったら尋ねようと思っていたことを口にする。
「ねえリュイ、笛については次の段階に辿り着けたの? 一昨日聞いたのは前と同じ単音だったけど」
不思議な笛に関して、ティセは母親も含め周りの誰にも話していない。話を聞いただけではとても信じられないだろうし、それによりリュイが信用するに足らない胡散臭い人物だと誤解されたら困るからだ。
リュイは口のなかのものをゆっくり呑み込んでから、目を上げた。
「二年前となにも変わらない。僕が出せるのはいまも単音だけだ」
「そうなのっ!? …………厳しい笛だなあ…………」
「どうすればいいのかも分からない。ずっとこのままかもしれない。兄のような使い手には、一生ならないような気がする」
ひどく消極的なことを言う。笛を語る眼差しはやはりあのころのままに醒めている。
「…………そんな否定的に言うなって。いつか私に聴かせてよ。コイララやアズハーさんが話してたような笛の音をさ」
「…………」
さも自信なさげに目を伏せた。やれやれ……と内心呆れながら、
「いつかそのときがきっと来るよ。いまはまだ時機じゃないだけだ」
ふたたび目を上げて、なにか言いたげにティセを見た。
食後の茶を飲んでいると、部屋の隅に立て置かれたリュイの荷物の口から、鎖のようなものが垂れ下がっているのがたまたま目に入った。底にあった本を取り出す際に引っかかって出てきてしまったような様子だ。鎖の先端には親指よりも小さな楕円状のものが付いている。
「あ、なんか出てるよ。なにこれ」
ティセは身を乗り出して、それを荷物から引き抜いた。メッキの剥げた古めかしい首飾りだった。オリーブの種に似た形の容器には草木の装飾が施されているが、傷と摩耗によりひどく劣化していてみすぼらしく見えた。
リュイは「ああ……」と思い出したようにつぶやき、
「南のほうへ行ったとき、ある町の古物屋で本を買ったんだ。たまたま細かい金を持ち合わせていなかったので高額紙幣を出したら、釣りが足らないと言われて…………。足らない分の代わりにそれを渡されたんだ。もう捨てたように思っていたけれど、底のほうに埋もれていたのか……」
ティセは骨董品としての値打ちなどとてもなさそうな首飾りをしげしげと眺め、
「…………騙されたんじゃない? どれだけ足らなかったんだよ……?」
疑わしげなその顔つきを見て、リュイはふふ、と笑った。
「そうかもしれない。けれど、面倒だったから……」
「素直に受け取ったわけか……おまえらしいなあ!」
その情景が目に浮かぶようで、思わずクククと笑いが漏れる。
「で、このなかにはなにか入ってたの?」
すると、リュイは笑みを収めてきょとんとした。
「……それは、なかになにかが入るものなのか」
「え! おまえ首飾り知らないの?」
「知らない。ただの首飾りだと思っていた」
「このなかに、たとえば小さな肖像とかお守りとか、大切なものを入れて身につけるんだよ。小説のなかに出てこない?」
「……記憶にない……」
リュイは装身具など少しも興味がないのだろう、唯々諾々とそれを受け取って、よく眺めもしないで頭陀袋へ仕舞ったに違いない。ティセはリュイのそばへ寄り、よく見えるよう首飾りを手前に差し向けた。容器の側面にあるわずかな隙間に爪を差し込み、
「ほら、見てみ」
「ん……」
「こうすると開くんだよ」
小さな手応えがして、オリーブの種がまっぷたつに割れるように容器の蓋が開いた。なかから、時代がかった身なりをした女の細密画が現れる。
「あ、女のひとが描いてある。古そうな絵だなあ」
「へえ……」
意外そうに絵を覗き込む。
「こんな細工がしてあったのか……」
「持ち主の恋人か母親か……まだ若そうだから恋人かもね」
リュイはまじまじと眺める。そのうちふと、目元をぴくりとさせた。
「……これは……」
ティセの手のひらからそっと首飾りを持ち上げた。細密画が描かれている面と、容器の枠組みとの間にできているほんのかすかな隙間をじっと見つめる。作りが雑であるのか、あるいはあまりに古いため歪みが生じてしまったかのような、不自然な隙間だ。リュイはそこに親指の爪を差し込んだ。
その指先に少しだけ力が籠もると、細密画はあっさりと枠から外れ、ティセの手のひらへぽろりと落ちた。とともに、細密画の裏側にあったものも手のひらに落ちてきた。まるで、隠してあったとしか思えないような状態だ。
「ああっ! なんだなんだっ!?」
ティセはつい興奮して声を張り上げた。リュイは少しだけ目を見開く。
それは豆粒ほど小さく折りたたまれた、黄ばんだ紙片だった。破かないよう丁寧に広げてみれば、紙片には次第に文字が現れた。ティセは見るまに胸が高鳴り、
「ほらほら、来たっ!」
広げきっても、手のひら半分ほどの小さな紙切れだ。そこに、これまた小さな文字が長々と書かれている。ふたりはぴたりと肩を寄せ合い、各々それを黙読する。フェネの母親が遺した手紙をふたりで黙読した、あのときのように。
『きみがシュウへ旅立ってから、寄る辺ない寂しい日々を送っていた。死の匂いが立ち込める絶望の淵を彷徨い続けていたけれど、僕はついにきみの愛を思い出した。あの美しい夜を、きみは忘れはしないだろう。クルネーガルの光の丘にシェラフィータたちが集う神秘の夜を……。とこしえの愛を誓ったあの丘に、僕は宝物を隠してきたよ。愛に満ち溢れた僕らの未来を、誰にも邪魔させないために……。安心して欲しい、幸せの準備はすべて整っている。きみはもうすぐ僕のもとへ戻るだろう。いつでも、いつまでもきみを待っている。きみがこの手紙に気づいてくれることを祈りつつ――――……
愛するアヌラ・ヴィヤティッサへ ハルジイ・プラサードより』
「…………読んだかっ!」
「読んだ」
興奮に声を熱くしたティセとは対照的に、興を殺ぐほどさめやかにリュイは返す。まるで、時間があのときに巻き戻ったように感じた。
「めちゃめちゃ意味深な手紙だなあ! 宝物だって、すっげ――――っ!!」
昂ぶりを露わにする、その楽しげな顔を見て、リュイはさも可笑しそうに小さく声を立てて笑った。
「少しも変わらないな……ティセ」
「なんだよ、眉唾物か?」
横目で睨みつつ、ニヤリと笑う。リュイも似たような笑みを返した。同じ瞬間を思い出しているのだとすぐ分かる。二年の時などなんら感じさせないほど、ふたりの間には同じ空気が流れている。親しみで胸がいっぱいになる。
さて、とティセは声と顔つきを改めた。もっとも重要な話をするためだ。これも、ふたりきりになったら持ちかけようと思っていた、まさに本題だ。
「で、リュイ。おまえはこれから、どこへ向かう予定でいるの?」
途端、リュイは真顔になる。にわかに口をつぐんで、ややうつむいた。目元に困惑と憂鬱を滲ませ、暫し黙していた。
「…………分からない。まだなにも決めていない……」
本当になにも変わっていないのだ。そんなリュイを、ティセは少しだけ憐れに感じた。
「…………おまえ、なんにも変わらないな……」
つい口に出してしまう。と、リュイは不服げに、
「そんなことない……」
ぼそりと小さく反論した。
……あ! 変わった……!
ティセはそう思った。いまは知らないリュイが、確かにいた。
うつむき加減で黙するリュイをまっすぐに見つめ、
「それなら、私が決めていい? あのころみたいにさ……」
リュイはゆっくりと目を上げて、ティセの目をじっと見た。なにも返さず、ただ見つめた。
「なにも案がないなら、ちょうど打って付けじゃんか、この手紙にある宝物とやらを探しに行ってみようよ!」
ニヤリと笑んだ。
少年のように凛々しく笑うティセに、リュイは一瞬、複雑な瞳の色を見せた。ひどく切なげでもあり、どこかまぶしげでもあり、言いようのない思いを堪えているようでもあった。
黙ったままなにも返さない。ティセが不審に思い始めたころになって、リュイはとても静かに返答した。
「……ティセ……僕は、おまえを旅に誘うつもりはない」
答えてすぐに、リュイは目を逸らした。
「え……」
思いがけない返答にティセはどきりとした。声を失い真顔になった。目を逸らしたリュイをじっと見据える。
「…………」
たちまち不安が湧き上がる。唇を強張らせて、呆然とリュイを見据え続けた。リュイもまた敷物の一点を見つめたまま、唇を強張らせている。部屋はシンと静まりかえった。
誓いを果たすと一片の疑いもなく信じていた。同じ気持ちでいると思い込んでいた。変わらないように思えたが、二年の時は実際のところ、リュイの気持ちを変えてしまったのだろうか。そんな思いが頭のなかでぐるぐる渦を巻いていた。返す言葉が出てこない。どうして…………そう問いかけることもできなかった。
激しい衝撃を受けてぼんやりとしたまま家事をこなすうちに、勤務先へ戻る時刻になった。台所を出て部屋にいるリュイにひと声かける。
「そろそろ仕事に戻るね」
気にしてないふりを装ったつもりだが、顔に気持ちが表れていたかもしれないと、ティセは自分でも思った。リュイは本から目を上げて、
「ん……」
答えたものの、ほとんど目を合わせない。
「…………」
にわかに、ふたりはぎくしゃくしてしまった。
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