17
あの嵐の日――――……
稲光が真っ黒な空を幾度も切り裂いていた。激しい雨と風で視界が煙っていた。猟師小屋の軒下に佇んで、リュイは雨を凌いだ。が、ほとんど雨宿りにはなっていない。風雨は強く吹き付けて身体中を叩いていった。頬も髪も衣服もずぶ濡れだ。風雨に熱を奪われて、白い袖に包まれた両腕には鳥肌が立っていた。けれど、リュイは微塵も気にならない。寒さも不快さも、気にできるような心の状態にはなかった。嵐の空に顔を向けてまぶたを閉じ、
ティセの唇に触れた――――……
ひたすらそれを思っていた。やわらかな唇の感触と、それがありありと残っている自身の唇を強く意識していた。きつく抱きしめた、濡れた衣服から滲み出るように伝わってきたティセの体温と身体のやわらかさを思い出す。両腕と胸に、それが残っていた。ティセの余韻を抱くように、その余韻をわずかでも逃してしまわぬように、リュイは自身を抱きかかえるようにして軒下に佇んでいた。身体の奥底が熱を孕んでどくどくと疼くのを、じっと感じていた。
食堂で、ふたりはいつものように一等安い定食を各々頼んだ。平パン、茄子とオクラの炒め煮、唐辛子とタマリンドの漬け物、乳酪、付け合わせの生玉葱が、一枚のアルミの盆に盛られている。向かい合い、ちぎった平パンで適当に惣菜を包み取りながら、ほとんど会話もなく口にしていた。シドルは隣の食堂に入ったようで、姿は見えない。
充分に腹が満ちる主食の量に合わせて、惣菜は濃いめに味付けされている。辛味の少ない生玉葱の清涼感は、濃い味に疲れた舌を休めるのにちょうどいい。独特の風味を持つ薄桃色の岩塩を少々振れば、玉葱だけでも相当美味だ。
食卓の隅にある岩塩の壺へ左手を伸ばす。と同時に、向かいのティセも手を伸ばした。リュイはどきりとする。差し伸ばした手を、その指先を、咄嗟に強張らせる。壺の手前、ティセの手と触れる寸前で止めたその手は、ふたりにしか分からない緊張感を纏っている。
食卓の空気もにわかに緊張した。一瞬、ティセは固まった手をじっと見て、それから、なにか不服を言いたげな眼差しでリュイを見た。
「……」
リュイは平静を装って、
「先に」
すっと手を引いた。
ティセはなお不服げに、けれどそれについてはなにも言わず、
「うん」
低くうなずき、塩の壺を手に取った。
玉葱に塩を軽く振る様子をなんとなく眺めながら、リュイは心のなかで長い溜め息をついた。
あの嵐の日以来、ふたりの間にはどうにもできない隔たりが生じてしまった。自業自得だ。ティセは始終どことなく顔つきが硬いうえ、もはやともに歩いていない。ひとり歩くリュイの後ろには、つねに不在という名の空虚が背に貼り付くようになって付きまとっていた。
関係を修復するための手立てなど、リュイには無論なく、また考えることすら及ばなかった。そんな手立てを考える能力が自分にあるとは、そもそも思っていないからだ。ただただ打ちひしがれながらも、平常を保つよう心がけることしかできなかった。
あのとき、ティセはめずらしく取り乱していた。あんなにも取り乱したティセを見るのは初めてかもしれない。声を嗄らす勢いで、探しに行かせてと訴えた。そして、絶望の言葉――――それならシドルと行けばいい――――を自分に吐かせるひとことを、ついに口にすると直感した。
シドルが好き――――……
瞬間、リュイは冷静さを失った。
言わせてはいけない――――……!
思わず手を振り上げた。頬を叩いて黙らせようと無意識が働いた。が、咄嗟に顔を背けたティセの怯えた仕草を……さっと青ざめたその頬の色を目にしたら、とても叩けなかった。振り上げた手を止めたまま、リュイは一瞬途方に暮れた。
言わせてはいけない、口を封じなければならない――――矢のような焦燥感が、リュイを閃かせた。唇に触れてみれば、ティセは間違いなくおとなしくなるだろう……。
思った以上の効果があった。絶望の言葉を吐かせるひとことを、ティセの頭から束の間でも追い払った。あんなにも取り乱していたティセが、急激に潮が引くようにおとなしくなって、無言で自分に従った。
けれど――――……リュイは淡々と食事を続けるティセの口元を盗み見るように見つめた。
けれど、ほんの少し唇に触れてみたら、もう自分を止められなくなってしまった。だからもういちど唇を塞いだのだ。思いのたけきつく抱きしめた、唇を味わった。後先のことなど考えられなかった。ティセの気持ちさえ考えていなかった。ただひたすら、ティセを感じることに一心になっていた。激しい風雨も、天の怒りのような雷鳴も忘れて、迸る欲求に身を任せていた。
もっと欲しい、痛切にそう思った。もっと、もっと…………それなのに、ティセの心は自分にない、シドルを向いている。――――ならば、その心を折ってしまいたい。リュイは尚いっそう、折れるほど強くティセを抱きしめた。意地も骨も折ってやる…………何故だろう、一心になればなるほど、頭の隅が冷酷になっていくのをありありと感じていた。
思った以上の効果はあったものの、それはあまり良い思いつきではなかった。結果として、想いを告げたに等しい。ティセは嫌悪や不快を覚えただろう、そして甚だ困惑し、だからこそこうして自分と距離を取るのだと、リュイは思っている。
浅はかな思いつきだった。思いのたけ抱きしめた代わりに、もう二度とティセに触れられなくなってしまった。手を取ることも肩を軽く叩くことさえも、もうできない。もしも指先がわずかでも触れてしまったら…………それを思うと、ぞっとするほど怖ろしくなる。
手を引かれた瞬間を、リュイは思い出す。
触らないで――――……!
声なき声が聞こえた。初夏の日差しの清々しい強さを想起させるティセの声で、はっきりと。いつでも耳に心地よい、リュイの大好きなその声で……。まるで、鋭い刃でひと突きにされたように思った。息が止まった。刃は心臓に深々と突き刺さった。傷口から大量の血が溢れ出た。が、溢れ広がっていく血は熱を持っておらず、凍みるように冷たいものとしてリュイの内側をしんしんと冷やしていった。
あの瞬間が頭を過ぎるだけで、何度でも刃を突き立てられた気になる。鋭い痛みが胸に走り、冷たいものが広がっていくように感じるのだった。
あんなふうにまた拒絶されたら…………リュイは怖くてたまらない。ティセに拒絶されたら、確かなものがほかになにひとつない自分は、本当になにもなくなってしまう。さすれば十五のころに感じていたように、出入り口のない閉塞感に満ちた空洞が、ふたたび胸の内に広がるだろう。
ティセの喪失を怖れてした浅はかな行為が、その拒絶という新たな恐怖をリュイに招いたのだった。
夕暮れ近い宿の庭先で、リュイはひとり長椅子に腰かける。物干しにはためく洗濯物をぼんやりと眺めていた。買いものがてら散歩に出たティセが、出かけ間際に言った「乾いたら取り込んでね」との言葉を思い出すものの、なんとなく気分が晴れないせいか億劫で、なかなか腰が上がらずにいた。
数羽の鴉が不吉な鳴き声を上げながら、色褪せた空を飛んでいく。見えなくなるまで目で追った。すると、まるで入れ替わるかのように、いまのリュイにとっては鴉よりも不吉なものが庭へやってきた。その姿が目の端に留まれば、おのずと心が強張った。
目の前に立ったシドルを、リュイはさめやかに見上げた。緊張感を孕んだ沈黙が立ち込める。
やおら、シドルはにやりと口角を上げ、
「よお、吸うか?」
煙草を一本差し出した。厭味の籠もった妙に余裕のある口ぶりに思えた。リュイはひと呼吸間を置いてから、
「ん……」
それを受け取った。シドルは勝手に隣へ腰かけ、自分でも煙草を口にする。マッチを擦って自分の煙草に火を付け、残った火をリュイの顔の前に差し出した。
ひと口吸えば、久しぶりの紫煙に軽い眩暈を覚える。煙はふたりの間をふわふわと流れていく。無言で燻らせながら、いったいなんのつもりなのかと、リュイは訝しんでいた。
やがて、シドルは改まったようないやに真面目な声で言った。
「話がある」
そのひとことだけで、厭な予感とそれに伴う絶望が突き抜けた。気を落ち着けるため、煙草の火をじっと見据えて返す。
「……なに?」
シドルは前を見ながらはっきりと答える。
「ティセ・ビハールをタミルカンドへ連れて行きたい」
矢に貫かれたと同然の衝撃を覚えながらも、想定はしていたことだ。リュイはどうにか沈着さを保った。
「…………」
おもむろに煙を吐く。顔色を変えず返事もしないリュイに若干いらだったのか、シドルは声を尖らせる。
「おい、お伺いを立てているんだ、なんとか言え!」
リュイは横目でシドルを睨んだ。
「…………僕になにを言えと?」
「大事なんだろう、あの女が。最初から分かった。なにか誤解をして、血相変えて柄に手をかけただろう、おまえじゃないみたいにな。厭なら厭と言え」
「……彼女が決めることだ」
ますますいらだったように、シドルは語気を強め、
「おまえの意思を聞いているんだ!」
怒鳴りつけるように問う。
「…………」
分かりきったことを何故問うのか、リュイもいらだちを覚える。が、その分かりきった意思は口には決して上らない。シドルの目には怒りが籠もり始める。
「……澄ましやがって……厭なら厭と言え! 連れて行かないでくれと、俺に頭を下げて懇願すればいいだろう!?」
胸の内に怒りが立ち込める。リュイは唇を硬くして押し黙った。のち、冷ややかに返す。
「……ほかのひとならそうするかもしれない。けれど、きみにはしない」
「何故だ」
……理由は分からない、けれど確かに言えることはある。
「きみならティセを守れるだろう」
……そう、あるいは自分にはできない確実さをもって……。
意想外の返答だったのか、シドルは眉を寄せてリュイを見据えた。リュイはゆっくりと煙を吐いてから、
「いずれにしても、ティセが決めることだ。僕の意思は関係がない」
「…………もしもあいつが俺と行くと決めたとしても、引き留めないのか? おまえは唯々諾々と従うつもりなのか?」
リュイは答えない。無表情に煙草を吸い続ける。
いらだちを極めたシドルは、目にも声にも棘を漲らせ、地を這うような低声で唸る。
「……おまえを見ていると、へなちょこどもといたころを思い出して、吐き気が込み上げてくる……」
それはおそらく、不満、不本意さを持てあますほど抱えながらも、軍隊の掟を忠犬のごとく守り周囲に従ったかつての自分ということだ。
シドルは煙草の煙を勢いよくリュイの顔に吹きかけ、
「犬!!」
吐き捨てるように言い放って立ち上がり、そのまま庭から出て行った。
まともに煙を浴びた、リュイは呆れと憤りを綯い交ぜにして、吸い殻をひと踏みにする。あまりの忌ま忌ましさに、しばらくはなにもできなかった。物干しにはためく洗濯物を漫然と眺めつつ、気が落ち着くのを待つ。
そのうち、大きな溜め息とともに、残った忌ま忌ましさを吐き出した。すると、もういちど絶望の矢に貫かれた。少しずつ力を込めて肉を突き通していくような、妙にじっくりとした絶望の矢に。すっかり気力を失い、無意識にも背中をわずかに丸めた。
いったい僕になにを言えというんだ……
厭だと言ったところで、ティセがそう望めばそれまでだ。すでにともに歩いていないティセがどう望むかなど明白だ。もうおしまいだ、リュイは別離を切実に予感する。
あの旅立ちの朝、ティセの気配を背後に強く感じて、いつでも暗くてよく見えない道の先に灯りがともったと思った。その灯りはもう消えてしまうのか。消えてしまえばまた、自分は道に迷うのだ。僕はどこへ行くのかと胸のなかで自問を重ねながら、ひとり歩いていく…………。
ある集落を過ぎると、街道はふたつに分かれた。分岐点に道標が立っている。日差しと風雨で傷んだ板に、当面の目的地ヌワラバードと田舎町タガロの名が書かれている。なんとはなしに足を止めて、リュイは道標を見つめた。
ヌワラバード…………ティセとの二度目の旅は、ここで終わるかもしれない。不在という名の空虚が貼り付く背中がひやりとし、歩を進めるのが怖いような気持ちになる。ちらりと振り返れば、だいぶ後方にティセとシドルが歩いているのが見える。ティセもこの道標を、深い感慨を覚えているような眼差しで見つめるはずだ。
シドルはもうティセを誘っただろうか。ティセはシドルと行く決心をしただろうか。ヌワラバードで自分との旅が終わる瞬間を、想像しているだろうか……。そして、そこから始まるシドルとの新しい旅を、もう心に描いているのだろうか……――――
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