14
夏は盛りを過ぎた気配を漂わせ始めた。日中の日差しはいまだ刺すようだが、夕刻の雨は降らない日も多くなってきた。まだしばらくは暑い日が続くとしても、秋に向かって少しずつ空が高くなっていくようだ。
いよいよ山に入った。幾つもの鄙びた集落を繋ぐ山路を、三人はゆっくりと歩いて行く。不自然な間隔を保ち続けるリュイとシドルの間を、ティセは相変わらず行き来する。ふたりの間にあるものは複雑過ぎる、ふたりはこのまま歩み寄りはしないかもしれない。せめて何事もなく穏便にいてくれればそれでいい、ティセはそんなふうに思っていた。シドルはティセの頼みどおり、あれから約束を守っている。
山の中腹にある無人の猟師小屋のそばで昼休憩を取った。その辺りだけ道が拓かれて空き地のようになっている。道の下は急勾配で、底の沢には清流がさらさらと流れていた。青々とした空には羊雲が浮かび、山の風は頗る清涼だ。
潰した空豆に乳酪と香辛料を混ぜた惣菜は、商店で買った既製品だ。それを匙ですくい取り薄焼きパンに塗りつけて、くるくると巻けば立派な昼食になる。ティセとリュイは並んで座り、夏山の心地よさを満喫しつつ、連想遊びをしながら食べている。
「色は白っぽい」
ティセが手がかりを挙げる。
「……それは生きもの?」
「そ。生きもの。かなり臆病だ」
「臆病……食べられるもの?」
些細な遊びだが、従順なリュイはそれなりに真剣だ。
「食べられる。美味いよ」
「……陸の生きもの?」
「そう。……あ、でも空にもいる」
「え……!?」
混乱したような小声を漏らす。そのまま黙り込んで考えているようだった。が、まもなく不満げに口を若干尖らせて、
「……分からない。僕はこの遊びは苦手だよ……」
「もう降参すんの? 張り合いないなあ」
と、横目でリュイを見遣る。
「…………答えはなに?」
「羊」
「え!? 何故? 空にもいるんだろう?」
ティセは揚揚と青空に浮かぶ雲を指し、
「ほら、いるじゃん」
「……ずるい!」
不服そうなリュイを、シシシと笑う。
食後すぐに眠くなり、ふたりは各々荷物にもたれかかって昼寝をした。小一時間ほどして目覚めてみれば、いつのまにやら空は雲に覆われていた。遠雷が聞こえる。
「あれ、曇っちゃったよ」
「すぐにも雨が降りそうだ」
リュイが言ったそばから、ぽつり、雨粒が落ちてきた。湿り気を帯びた冷たい風がざあっと吹き抜けて、嵐を予感させる不穏な空気に包まれる。
「ひどくなりそう、空真っ暗だよ!」
ティセは慌てて立ち上がった。
「小屋に避難しよう」
リュイは荷物を持って猟師小屋へ向かい、錠前を難なく破った。ティセは小屋へ向かう前に道の端まで行き、下の沢を覗き込む。昼寝をする前に、シドルが沢辺で絵を描いていたからだ。ほとりに座って、まだなにかを描いているシドルの姿が見えた。
「おーい、シドル! 雨降ってきたよー、上がってきなよ! そこの小屋で雨宿りしよう」
シドルはティセを見上げて、
「おう、もうすぐに上がる」
ティセも荷物を持って小屋へ避難した。なかは薄暗く湿った匂いが立ち込めていた。
雨はまもなく狂ったように降り始め、雷鳴が轟き、風は木立の枝を大きくしならせるほど強くなった。まさに青天の霹靂だ。篠突く雨が屋根を叩いている。小屋にある小さな竈や埃まみれの鍋、壁に掛けられた手斧や縄や編み笠などの備品は、その雨音と雷鳴に怯えて息を殺しているかに見える。話し声が聞き取りにくいため、ふたりは無言で雨雲が去るのを待った。
ティセは扉を薄く開けて外の様子をじっと見つめながら、不安を募らせていた。シドルが戻ってこないのだ。
……シドル……すぐ上がるって言ったのに、どうして戻ってこないの……
リュイを振り返り、大きめの声で言う。
「ねえ……シドルはどこに行っちゃったのかな……」
「……心配ない」
雨音に掻き消されそうに静かに、リュイは返した。
「…………」
ティセは伏し目になって、膨れあがる不安を抑えつけるように胸元に手を当てた。扉の隙間から外を見つめ、土砂降りのなかからシドルが現れるのを祈るような思いで待ち続ける。
前の空き地はすぐに川のようになった。そこへ叩きつける雨と飛沫、耳を轟かす雷と雨音が外を支配している。風に飛ばされた木切れが糸の切れた凧のように舞い、瞬く稲光に照らし出される。ティセはひたすらシドルを待ち続ける。
ほどなくして少しだけ雨が弱まった。水煙のなかのようだった視界が開け、木立がはっきりと見えてきた。
ティセはすくと立ち上がり、壁に掛かる薄汚れた編み笠を被り、
「ちょっと沢を見てくる」
「ティセ!」
「覗くだけ! すぐ戻る」
雨のなか靴をずぶ濡れにして、先ほどシドルに声をかけたところまで走った。
沢を覗き込んだ瞬間、ティセは戦慄し、はっと息を呑む。
「……!!」
緩やかな清流だった沢はいまや濁流と化し、圧倒的な水量と速さで流れている。シドルが絵を描いていた沢辺は濁流の底に沈み、鉄砲水になぎ倒された木がまるで小枝のように翻弄されながら押し流されていく。
「……シドル……!」
轟々と流れる濁流を瞠目して見下ろしたまま、声を震わせた。
ふたたび雨が強くなり始めた。ティセは一目散に小屋へ駆け戻った。
戸口に駆け込んで、リュイに訴える。
「大変! 下の沢が溢れてる!!」
不安と焦りに歪むティセの顔を、リュイは胡座を組んだまま冷静に見遣り、
「この雨だからね……」
「どうしよう……! ついさっきまでシドルは沢にいたんだよっ……!?」
声を荒らげる。が、リュイはこともなげに返す。
「どこか近くで雨宿りをしているよ。心配ない」
「でも……」
「大丈夫」
本当だ、と言うように、リュイはゆっくりと瞬きをした。
「…………」
不安を拭い去れたわけではなかったが、落ち着き払ったリュイの様子を目にしていたら、言うことはもっともかもしれないという思いも湧いてきた。ティセは編み笠を元に戻し、また大降りになった外の様子を戸口から覗いながら、ふたたびシドルを待つ。
シドル……早く戻ってきて……!
ぎゅっと目を閉じて、心のなかで手を合わせる。
雷雨は一向に止まず、シドルは戻らない。いちどは気を落ち着けたティセだが、待てば待つほど不安と焦りは膨らみ、胸をいっぱいにしていった。悪い想像が頭を過ぎり続ける。喉元まで飽和した憂懼がティセを息苦しくさせていた。
耐えきれず、ティセはもういちど、焦燥を滲ませた声で弱々しく訴える。
「ねえ、リュイ…………シドル戻らないよ……!」
らしからぬ口調で眉根を寄せるティセを、リュイはさめやかに見た。やはり冷静に返す。
「なにも心配ない」
「……」
「大丈夫」
「……」
リュイに言ってみたところでどうなるというわけではない。けれどその素っ気のなさが哀しくて、ティセは唇を硬くしてふたたび外へ目を向けた。
雨は終わりがないかのように降り続ける。風は山にあるすべての木々をなぎ倒すまで手を抜かないという意志さえ感じさせている。稲光はまるで神の震怒だ。憂懼はもはや全身の隅々まで満ちていた。悪い想像が畳みかけるようにティセを襲う。
沢辺でなにを描いていたのだろう。間違いなく小さくて健気なものだ。清流に棲まう小指ほどの魚や蟹、あるいは近頃見かけるようになった蜻蛉だろうか。大きな手でか細い絵筆を握り、繊細な筆致で小さなものたちのいじらしさと秘められた強さを写し取っていく。蜘蛛の糸に似た美しい線をもって紡いだ小さなものが、画帖に完成する。シドルは鳶色の瞳から険しさを消し去って、画帖に描いたいじらしさと強さを祝福するだろう。
その瞬間に濁流が押し寄せる。木々が小枝さながらに翻弄されて押し流されていくのだから、大きなシドルとてひとたまりもない。容赦なく呑み込まれ流されて、画帖は泥水に濡れてバラバラになる。シドルのいた沢辺にあるすべてのものが押し流されて、あとには無惨だけが残される。濡れそぼった木切れが残骸のように散らばる河原がありありと目に浮かぶ。
「…………」
ティセは胸元で拳を固く握り締める。
もしも――――……シドルになにかあったら………!
心でつぶやけば、過去を打ち明けてくれた際に見せた眼差しがまぶたによみがえる。瞳に溜め込んだ苦汁を残らず消し去って、大切なものをじっと見つめているときのように澄んでいた。雨が降り始める前の清流よりも、その瞳は澄み切っていた。ティセの胸に深く印象を残したあの瞳が、たまらなく愛しいものとして浮かび上がり……――――
もしも――――……シドルが急に死んでしまったら……!
たまらなく愛しい瞳が、理性の糸をぷつりと断ち切っていった。
――――シドル……――――!!
ティセは弾かれたように立ち上がり、
「シドルを探してくる!」
言うと同時に、土砂降りのなかへ駆け出した。肌や衣服に滝のような雨が叩きつける。
「ティセッ!!」
リュイは読んでいた本を取り落とし、慌てて腰を上げる。
「戻れ!」
ティセを追って走り出た。
ほんの十数秒でふたりともずぶ濡れだ。ティセはあっという間に左腕を取られた。振りほどく余地のない力強さだ。
「離せっ!」
「ティセ、戻れ!」
前に進もうとするティセの左腕に、リュイはますます力を込める。ティセは顔にも身体にもいらだたしさをはっきりと滲ませて、睨むようにリュイを見上げ、
「離せってば!!」
声を荒らげる。リュイは冷ややかに告げる。
「駄目だ、戻れ」
「心配なんだよっ!」
「シドルは大丈夫だ、心配はいらない」
「でも……! あいつ、脚が……!」
「多少脚が悪くても問題にならない。おまえのほうが心配だ」
押し問答を続けるふたりは桶の水を被ったように、顔中に雨の筋を流し、髪の先から雫を滴らす。けれど少しも構うことなく、主張し合い睨み合う。
「いいから離せよっ!!」
なりふり構わず振りほどこうともがく、リュイはさらに力を込める。痛いほどの力だ。そのまま有無を言わせぬ態度で、ティセを猟師小屋へと引き摺っていく。
「いやだ……リュイ、お願いだから離してよ……!」
ほとんど涙声で訴えるも無視される。いくら足を踏ん張ったところでリュイの力に敵うはずがない。猟師小屋の戸口がどんどんと近づいてくる。
このまま敢えなく小屋へ戻ってしまったら――――……薄暗い戸口の奥は、シドルの死を現実にする不吉さをたっぷりと湛えているように、ティセの目には見えた。小屋へ戻ったらシドルは本当に死んでしまう…………直感し、錯乱する。
「リュイ!! 離して、お願い!!」
ティセは絶叫した。
「探しに行かせてっ!!」
嗄れるほどの大声で、思いのたけ不安をぶちまける。
「シドルが心配なんだ!! 私…………シドルが……――――」
瞬間、リュイは息を呑んだ。
やにわ振り返り、
「ティセッ!!」
ティセよりも大きな声を上げ、左手を振り上げる。そのとき閃光が走った。閃きが、振り上げた手のひらをひときわ威力的にさせる。
「――――!!」
叩かれる、間違いなくそう思った。咄嗟に顔を背け、固く目を瞑る。
束の間、平手を待った。けれど、リュイの左手は振り下ろされない。激しい雨だけがティセの頬を叩いていた。振り下ろされない左手は、代わりにティセの顎から右頬を静かに包み込んだ。そのままそっと顔を上向かせ――――
不審に思ったティセが怖々と目を開けたのと、リュイの唇がその唇に触れたのは、同時だった。
「…………」
なにをしているのか、なにをされているのか、一瞬分からなかった。ただちに理解した。途端、ティセは頭のなかを真っ白にさせた。
……リュイ……!?
もの静かな口づけだった。ティセの唇にやわらかく宛がった。いったん、唇はわずかに離れた。が、間を置かず、リュイはティセをきつく抱きしめて、もういちど唇を塞いだ。
「――――!!」
心臓が飛び上がる。ティセは激しく混乱した。
抱擁というよりは緊縛だ。身動きを少しも許さないほど、リュイの両腕はティセを強く縛り付ける。先刻の触れかたとは違い、塞いだ唇は呼吸をも取り上げるかのようで、優しさの欠片もない。逃れる隙を微塵も与えない強引さで、リュイはティセの自由を奪っていた。
あまりの力と衝撃で、ティセは息が苦しくなった。リュイが突如知らないひとになったようで、底冷えするような怖ろしさを感じ始めた。両脚がにわかに強張っていく。自由であるはずの手指さえ、沸々と湧き出す怖ろしさに硬直し、少しも動かせない。叩きつける雨も吹きつのる風も、もはや感じられない。自分をきつく縛り付ける怖ろしいひとを、その存在を、ただただ全身に感じていた。
緊縛は長く、とても長く続いた。ひとつになった影を雷光が幾度も照らしていた。
やがて、リュイは腕の力をふっと解き、唇を離した。放心するティセの顔をじっと見下ろす。ティセはその暗緑の瞳を見てはっとする。あんなにも熱く唇を塞いでいたにも拘わらず、リュイの眼差しは晩秋の夕風のように冷たく憂いに湿っていた。その相違の程は、ひどく不自然だった。
眼差しと同じほど冷ややかに、リュイは言う。
「戻ろう」
ふたたびティセの左手首を固く握り、猟師小屋へと引いていった。
シドルを探しに行きたいという気持ちは、完全に殺がれてしまっていた。いまだ強張ってうまく動かない足をもつれさせ、リュイの為すがままに小屋へと戻った。
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