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解放者たち 第二部  作者: habibinskii
第四章
35/71

13

 西の彼方にほの見えていた山々がだいぶ大きく見えてきた。まるで空を押し上げるようにして日に日に目の前に迫ってくる。ティセは草の上に座り込み、その稜線を目で追った。ヌワラバードの町が近づいてくる…………寂しさを胸に滲ませて、隣に座るシドルの横顔をそっと見た。


 シドルはちょうど絵を描き終えて、ふうと息をつく。紙面には白粉花がみっつ、秘密をささやき合うみたいに寄り添って咲いている。

「ねえシドル、色の付いた絵は描かないの?」

 色がなくとも充分にきれいだが、なんとはなしに尋ねてみた。

「……ただの暇つぶしだからな」

 あくまでシドルはそう返すが、真意ではないだろう。彩色を始めるのは時間の問題だと、ティセはなんだか可笑しく思った。



 シドルは胡座を組んだ脚の上に画帖を置き、ティセの左腰の短剣に目を向けた。じつは気になっていたかのように言う。


「おまえ、女のくせにそんなものを持って、いったい使えるのか?」


 ティセも目を遣って、ああこれね、ニヤリと笑む。


「リュイがくれたの」

「こんなものを?」

「そ。……前にね、ちょっと危ない目にあって。これで身を守れって、ほとんど無理やり持たされたの」


 あのときの強引さを思い出し、ティセはクスクスと笑い声を漏らす。


「それでね、リュイから特訓を受けたんだ」

「特訓!?」


 目を見開いてくり返した。


「しばらく旅を中断して、毎日毎日朝早くから夕方に雨が降るまで稽古だよ。だから基礎的なことは少しは身につけてるよ。……ま、実際の場面になったらどのくらい使えるかは分かんないけどね」


 シドルは驚き呆れたように暫し呆然としていた。やがて、さも可笑しげに唇の片端を上げてつぶやいた。


「本気だな……」

「本気だよもちろん! 本気の特訓だった。リュイの稽古めちゃくちゃ厳しいもん」


 ふん、と鼻で息をつくようにシドルは笑い、


「そういう意味じゃない」

「え?」

「……いや、なんでもないさ」


 なにか意味深げに取り消した。


 シドルと出会ってから、そういえばいちども稽古をしていないとティセは気がついた。今後も稽古を続けると言っていたし実際に続けていたのだが、すっかり微笑まなくなってしまったのと同様に、いまはそんな心中にはないのだろうか。稽古を始めると途端に饒舌になり、にわかに生を増し活き活きとするリュイを目にしたら、シドルはさぞかし驚くだろうとティセは思う。


 脚の上に置かれた画帖を、ティセはなんとなくじっと見つめた。みっつの白粉花がそれぞれの思いを抱えて寄り添っている。言いたいことも言えないことも秘めて、言葉少なにささやき合っている。


「……ねえシドル……」


 ティセは声を潜めて呼びかけた。


「なんだ」

「……リュイにありがとうは言わないの……?」


 そよ吹く風の()に掻き消されそうな小声になった。余計なお世話だともう充分に分かっている、が、微笑みを仕舞い込んで寡黙になったリュイを救いたいような気持ちが、ティセにはあるのだった。

 厭な顔をするかと思っていたが、意外にもシドルは表情を変えずに黙ったままだ。斜に構えることなく、相反する思いに正対しているのだと分かる。ティセはその実直さをしみじみと思った。

 空の高みで鳶が二度鳴いた。それほど長くシドルは考えていた。やがて、前を向いたままぽつりと返す。


「……口が動かない」

「そっか……」


 完全にどちらかの肩を持つ気持ちにはなれない。ティセは逆光になりつつある西方の山々を、もやもやした思いでもって見つめた。










 シドルの買いものに付き合って目抜き通りへやってきた。ようやく日差しがやわらぎかけて、ひとびとが往来へ戻ってくる時分だ。眠ったようだった商店街に活気が戻り、売り声、掛け声が上がるなか、勉強や家の手伝いから解放された子供たちが大はしゃぎで駆け回る。


 雑貨屋でものを選んでいるシドルから離れ、ティセはすぐ向かいの菓子店に入った。硝子張りの陳列棚に幾種類もの菓子が行儀良く並んでいる。練乳や牛酪(ギー)、砂糖、蜂蜜、水飴、そんなものをふんだんに用いた、歯に染みそうに甘い伝統菓子だ。

「あら、いらっしゃい。あなたお国はどちら?」

 店番の老婦がものめずらしげにティセを見て微笑んだ。

「イリアです」

「まあ、遠いとこからようこそ」

「あのー、いちばん甘いのはどれですか?」

 老婦の指し示した菓子は一等甘いだけあってか少々値が張った。が、ティセはひとつだけ購入して店を出た。


 ちょうどシドルも雑貨屋を出てきた。ティセが大切そうに手にしている古紙の包みを見るや、

「なんだそれ」

 険しい目元をぴくりとさせた。

「リュイにお土産。めちゃくちゃ甘そうなの」

 シシシと笑う。と、シドルは包みに手を伸ばし、


「俺によこせ」

「駄目ーっ!」


 シドルから遠ざけるように、包みを持つ手を高く上げた。


「いいじゃないか」

「駄目! これはリュイの!」


 頑として言えば、シドルはニヤニヤして、


「……つまり犬の餌だな」

「……シドル……」



 宿へ戻った。広めの中庭を囲むようにして客室が並んでいる。洗濯物がはためく中庭の、木陰にある古びた長椅子に腰かけて、リュイは本を読んでいた。戻ってきたふたりに気づき、目を上げる。

「ただいまー」

 目の前に包みをすっと差し出して、


「リュイにお土産」

「……なに?」

「めちゃくちゃ甘そうなの! シドルに()られそうになったけど守ったよ」


 甘いものを口にしているときの、大好きなあの表情をもう目にしているかのように、ティセは嬉しげな顔を向ける。すると、リュイはゆっくりと微笑んだ。暗緑の瞳のなかに木漏れ日が揺らめいて辺りに緑風が薫ったような、ことのほか穏やかな微笑みだった。


 ……リュイ、ようやく微笑った……


「ありがとう」

 と受け取り、大切なものを取り扱うように長い指でそっと包みを開ける。ティセは久しぶりの微笑みに安堵と嬉しさを覚えながら、その手つきを眺め見る。ふたりの後ろ、やや離れたところから、シドルが呆然とした面持ちでリュイを見据えて立ちつくしていた。




 夕刻、宿の共同厠へ向かった折り、ティセは通路でシドルと顔を合わせた。シドルはいやに真剣な硬い顔つきをして、ティセに低くつぶやいた。


「あいつが笑うのを……さっき初めて見た」

「え……!?」

「……信じられない……俺は目を疑った……」


 つぶやき声は、そこはかとなく憤っていた。












 その晩は月が明るく、そしてめずらしく蒸し暑い夜になった。ティセとリュイは夜涼みに中庭へ出て過ごしていた。ランプを灯し、草の上で差し向かいになって盤遊戯に興じている。ほんの数人の宿泊客は外出中なのか、中庭に面した部屋の窓から明かりが漏れているのは、シドルのいる部屋だけだった。


 ティセは上目遣いになって不満げに言う。

「どうせ私が負けると思ってんだろ?」

 リュイは迷いのない手つきで駒を移動させ、

「ん……。僕が勝つとは思っている」

「あああ、かわいくない言いかた! 私はまだあきらめてないからな、いつかまた必ず勝つっ!」

「早く。おまえの番だ」

 ときおり蛍が飛んできて、向かい合うふたりのすぐそばで流れ星のようにきらめいた。



 シドルの部屋の戸が開いた。蒸し暑さに耐えられなくなったのだろう、外へ出てきた。差し向かいになってうつむいているふたりを目に留めて、小首を傾げながら近寄ってきた。盤を見て、ああ、と納得したような顔をする。

 ティセはシドルを見上げ、


「おまえもやる?」

「いや。……したことがない」

「おまえも!? ……そっか」


 このふたりは本当に似ていると、ティセはつくづく思った。


「教えようか? リュイにやり方を教えたのも私なんだ。と言ってもイリア式のやり方になっちゃうけど」

「……いや、いい」


 シドルはそのまま腰を下ろした。ふたりの対局を無言で見物していた。が、勝負の行方が気になるのではもちろんない、その目はまもなくリュイのみを捉え始めた。

 その目つきは、リュイの後ろ姿を見据えているときの、複雑な胸中を写し出すあの眼差しとも、先日抜刀した際に見せた怒りや憎しみを湛えた目とも違っている。なにか釈然としないことを抱え、冷ややかに見えるほど静かにじっと考え込んでいるような眼差しだった。ティセがその視線に気づいたときには、すでにリュイは気づいていたようで、表情をわずかに硬くしていた。厭な予感をさせるような緊張感がにわかに漂い始める。



 リュイの勝利で対局は終わった。けれど、三人とも無言だ。辺りの空気は勝敗など問題にできないぎこちなさに染まっていた。シドルはリュイを見据え続け、リュイは勝負のついた盤上を見つめて目を逸らしている。ティセにはこの場を取り成したい気持ちもあったが、先日余計な世話を焼いて反省したばかりなので、なにも言わずにいた。沈黙に包まれた三人の間を、蛍の光が音もなく流れていく。


 視線に耐えられなくなったのか、やがてリュイはおもむろにシドルを見遣った。目を合わせ、滅多にしない忌ま忌ましさを含んだ声音で問う。


「……なに?」


 挑発にも感じる角のある口調に、ティセはひやりとする。シドルは黙ったまま、さめやかなリュイの顔をじっと見ていたが、そのうち思いも寄らないことを逆に問うた。


「おまえはあのころ……周りから同志とみなされていなかったことに、いったい気づいていたのか……?」


 いまさらなんなのかと言いたげに、リュイは眉をしかめた。不愉快そうに押し黙る。


「…………」


 それを無言の肯定と受け止めたシドルはさらに問う。


「何故なのか理解しているか?」

「……知らない。興味がない」

「どうでもよかったということか……」

「…………」


 やや間を置いて、シドルは先を続ける。本当に尋ねたいことを口にするときの、慎重な言葉つきで。


「それなら……おまえは何故脱走したんだ?」


 リュイはふたたび目を逸らし、唇を硬くした。きっと答えられない、ティセはそう思った。案の定、じっと黙り込む。長い沈黙が続いた。

 シドルは無理に聞き出そうという気はないようで、


「答えたくないのならいい……」


 つぶやくように撤回した。のち、改めてリュイを見据え、


「しかし、俺にはまったく分からない…………おまえは休暇のたびに村へ帰っていた。両親が亡くなったあともだ。それだけ村に愛着があったんだろう? それなのに何故村を犠牲にしたんだ……」


 途端、リュイは全身を強張らせる。ティセは危機感に貫かれる。



 ……まずい……!



 シドルは構わずに続ける。


「脱走しなければ帰るところはあったのに、何故わざわざ手放した……?」


 リュイはますます凍りつく。ティセは「やめて」と懇願するようにシドルを見つめる。

 ふたりが様子を変えても、シドルは一向意に介さない。ばかりか、突如胸の内になにかが燃え出したかのように、にわかに目を据わらせていく。


「当てもなく意味もなく歩くしかないくせに、おまえはあんなふうに微笑えるのか…………何故だ!?」


 声は見るまに厳しさを増して尖っていく。燃え出したなにかに突き動かされているように、声と拳を震わせ始める。先日抜刀したときとまるで同じ急変の仕方だ。


「おまえのせいで村はどれだけ賠償したのか、知っているのか!?」

「……やめろ」


 目を逸らしたまま、リュイは呻いた。声ではっきりと分かる、すでに冷静さを失っている。ティセは焦燥を募らせる。

 全身のそこここに憤りを滲ませて、シドルはリュイを責め立てる。


「そんな静かな瞳をして、あんなふうに穏やかに微笑いやがる…………なんの罪もないかのように、何故微笑える!?」

「やめろ……」

「おまえのその態度が目障りで腹立たしくてしかたがない!」

「やめろ!」


 リュイは顔を上げ、引きつった目をシドルへ向ける。


「おまえのせいで貧しい村はどうなった、思い出せ!」

「シドル!!」

「子供や年寄りが何人死んだんだ?」


 哮る獅子さながらの声を上げながら、腕をまっすぐに伸ばしてティセを指し、


「この女に教えてやれよ!!」

「シドルッ……!!」


 リュイは我を失ったように叫び、ほぼ同時に腰を上げた。シドルへ飛びかかるようにして、左頬を殴り付ける。


「リュイッ!!」


 ティセは驚きの目を瞠る。


 場は急速に鎮まった。頑強なシドルもさすがに蹌踉け、座したまま両手を着いてなんとか体勢を立てている。リュイはその向かいで両膝をつき、握り締めた拳と肩を震わせる。ティセは目を瞠ったまま、あまりのことに言葉を失っていた。シンと静まりかえる。


 シドルを見据え、肩で息をするように震えている。リュイがいまどんな瞳をしているか、背後にいるティセからは見えない。が、見えずともはっきりと分かる。自ら触れるのさえ憚られる罪を眼前に突きつけられたリュイの瞳は、間違いなく怯えている。


 対してシドルは冷静だ。衝撃にしかめていた顔を元に戻すと、まもなく口内に溜まった血をプッと吐き出し、ゆっくりと座り直した。そして、まっすぐに目を向けて、


「……ふん、ひどい顔だな」


 リュイを嗤った。

 すっと立ち上がり、シドルはそのまま部屋へ戻っていった。



 ふたりきりに戻った中庭は、蒸し暑さなど吹き飛んだように冷え冷えとした雰囲気に沈み込んだ。リュイは草の上に両膝をついたまま、じっとうつむいている。その背中にかけられる言葉は、ティセにはひとつも見つからない。息を潜めて、心の痛みを色濃く滲ませた背中を意識していた。見ていたのではない、ただ意識していた。まともに目を向けられないほどに居たたまれなかったからだ。どうしようもなく、ティセは困惑していた。


 長いことそうしていたが、やがてリュイは振り向きもせずに、

「……少し出てくる……」

 消え入りそうな声で言い残してそっと立ち上がると、宿の敷地から出ていった。ティセは返事もできなかった。闇に紛れていく悄然とした後ろ姿を、ひたすらに感じていた。






 ひとり部屋へ戻り、粗末な寝台に身を投げるようにして仰向けになる。はあっ、と大きな溜め息をついた。先ほどの一件が目と頭のなかにこびりついている。


 なんてことするんだよ……シドル……


 負った罪は知っていても、それが闇と化してリュイを苛み続けていることを、シドルは知るはずもないだろう。無意識に内側に手を伸ばし、その闇を引き摺り出した。おそらくそれは、リュイがもっとも怖れていることだ。かつて兄の眠る庭園でリュイが語った言葉を思い出す。


 僕はずっと、おまえが怖かった……――――


 ティセがいつかその闇を引き摺り出して、眼前に突きつけるに違いない、そう信じて怯えていたというのだ。シドルがしたのはまさにその行為だ。あの様子なら、闇はその濃さをいまもそれほど変えていない、リュイはいまだに罪を受け止めきれず、向き合えていないのだと、ティセは思い知った。


 あんなふうに微笑えるのか…………シドルは這うような声で苦々しげに言った。初めて見たというリュイの微笑が、胸に刻み込まれた屈辱や不本意に火を点けたかのようだった。

 ティセはシドルの微笑を思い出す。皮肉と哀しみの入り混じった、相手に微笑いかけるようでいて、じつのところ自身を揶揄しているように感じる微笑…………ティセの胸のなかにあるなにかをふっと掴み取っていった、哀しみと寂しさに傾いでいるような笑みを。

 制止を無視して自分を助け出したリュイが、屈辱の日々に追い込んだ張本人だと思っていたリュイが、真逆の微笑を浮かべる。嘲笑と皮肉の笑みしか浮かべられないシドルには、昼間のリュイの微笑はひどく衝撃的だったのだろう。許しがたいまでに。シドルの胸中を推し量れば量るほど、ティセは胸が苦しくなるようだった。


 そして、リュイが稀に我を忘れたようになるのと同様に、シドルもまた、急変してしまう性質を持っているのだと知った。ふたりは本当によく似ている、ティセは重ね重ねそう思う。


 ……シドル……


 目を閉じてつぶやいた。けれど、


 この女に教えてやれよ――――


 あまりにひどい。ティセは目を開けて、意を決した。

 寝台から降りて部屋を出る。月明かりに照らされた中庭を突っ切って、まだ灯りのついているシドルの部屋へ向かった。




 扉を軽く叩いて、

「シドル! ちょっと入っていい? 話がある」

 少しばかり間を置いて、シドルはいかにも面倒くさそうに返事をした。

「なんだ?」

 なかに入る。ティセの泊まる客室とまったく同じ造りの、ふたつの寝台と一対の小机と椅子のみが用意された簡素な部屋だ。シドルは寝台に腰かけて、入り口に立つティセを不機嫌露わに睨んでいる。シドルが腰かけると、寝台はとても小さく窮屈そうに見える。その左頬ははっきりと腫れていた。

 ティセは真摯になって、


「シドル、お願いがある」

「…………」

「リュイをわざと傷つけるのは止めて」

「…………」

「見ていられないんだよ!」


 両手を振り下ろすようにして力強く訴える。シドルは顔つきを変えない。


「お願いだから……もう絶対に止めて。約束して!」


 頭を下げて懇願するように、じっとうつむいた。そのまま暫し沈黙が続いた。

 シドルは決まりが悪そうに目を逸らしていたが、そのうち「やれやれ」と言いたげに溜め息をついた。


「……分かった」


 不承不承といったおざなりな口調だ。


「女に庇われて、情けのない……」

「シドル!」


 非難の声を上げれば、ふたたびおざなりに、


「分かった分かった」


 厭々ながらもとにかく承知してくれたので、ティセもふうと溜め息をつき、気を落ち着けた。勝手に椅子に腰かけて、もうひとつ気になっていたことを問う。


「ねえシドル。おまえ……リュイの村がどうなったのか……詳しく知ってるの?」


 口内の傷を庇い、少々喋りにくそうに返す。


「いや。詳しくは知らない」

「え!? じゃあ、さっきのは出任せであんなこと言ったの?」


 ふたたび非難めいた口調で責めたが、シドルは沈着に答える。


「出任せというわけじゃない。シュウには少し不作が続いただけで餓えてしまうような貧しい地方が幾つもある。おまえもシュウには行ったと言っていたが、街道から遠く離れた奥地の村は見ていないだろう? 俺自身、旅に出てから初めて目にしたんだが、そういう地方の村では不作が続くと赤ん坊や子供や年寄りが簡単に死ぬ」


 言うとおり、街道沿いにある町や村しかティセはほぼ見ていない。


「ハジャプートはそんな村から選ばれることが少なくない。あいつの村もそんなところだ。記憶は一切ないが俺の村もそのようだ。賠償を要求されたらどんなことになるか簡単に想像がつく。火を見るよりあきらかだ」


 まさに想像どおりなので、ティセは「そっか……」と非難めいた態度を改めた。

 シドルは腫れた左頬をそうっと擦った。そして、なんとも解せないといったふうに、


「……村がどうなるか知っていながら脱走しておいて…………あんな()をするのか、あいつは…………。ますます理解できない」


 ひどい顔だと嗤った、その怯えた瞳を思い浮かべているのだろう。ティセは沁みるような痛みを胸に覚えた。





 部屋へ戻った。リュイはまだ帰らない。どこか暗がりで気配を消すように静止し、内側の闇をひたすら意識しているのだろうか。そんなリュイを思うと、ティセはどうにも落ち着かなくて、なにも手につかない。寝台に身を投げ出して漫然と天井を眺めていた。中庭から人声が何度か上がりほかの宿泊客が皆戻っても、リュイは帰って来なかった。


 先に寝て、なにもなかったように朝になっていたほうがいい。ティセはそう思い直して、リュイを待たずに就寝した。帰ってきたときに足元が見えるよう、ランプの灯りは消さずに一等小さく灯をともして。

 明日の朝リュイを見たら、なにもなかったように「おはよう」と声をかけ、なにもなかったように普段のとおり、熱い湯気の上がる白湯を淹れるんだ…………ティセは心でそうつぶやきながら目を閉じた。リュイもきっといつものように「ありがとう」、囁くように返すだろう。










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