11
そんなシドルも、やがて少しずつ心中が落ち着いてきた。すると、だんだんと辺りが明るくなっていくかのように、目がよく見えるようになってきた。愚物ばかりに見えていたが、周りにいる者のなかにも、それほど悪くないと思える人間がいたのだと気がついた。たとえば、不当を許さない者、正当な判断を下せる者、陰日向のない者……――――それはシドルの深いところを突き通すまっすぐなものに通じるものであるが――――そういった見下せない者が幾人かいると知った。
なかでも、あの花の名を教えてくれた男のことを、シドルはいまでも稀に思い出す。
兵舎の裏のひっそりとした庭に、小さな花がまばらに咲いているのに初めて気づいたのは、そこへ来た翌年の初夏。落ち着きを取り戻しつつあるシドルの目に、そんなささやかなものがようやく映り込むようになったころだ。明るい黄色の中心部と、白地に薄紫の絵筆でなぞったような繊細な花弁、ほんの指先ほどの小さな花が、小さいながらも凛と誇らしく微風に揺れていた。養成所の庭でも見たように思ったが、記憶はおぼろげだ。
シドルは時間が空くと裏庭へ出て、ぼんやりとその小さくも凛々しいものを眺めるようになった。眺めていると、胸のなかに厚く沈積している不本意さが心なしか薄らいでいくような気がしたからだ。
ある日裏庭へ出てみれば、そこには先客がいた。草の上に胡座を組んで、目の前のなにかに注目しているようだった。シドルが悪くないと思っている男のひとりだ。
十ほど歳上のおとなしい若者だ、シドルの気配に気づき振り返った。
「シドルか……」
と穏やかな笑みを向ける。シドルの経歴もここでの扱いも無論知っているが、偉ぶることも卑屈になることもなく、誰に対してもまっすぐ正面を向けるように接するひとだった。シドルは近づいて男の手のなかのものを見た。右手に鉛筆、左手に画帖を持っている。
「なにをしている?」
訝しげに見下ろすシドルに、男はやや照れたように笑いながら、
「絵を描くのが趣味なんだ」
「絵?」
それは、いままでシドルが考えたことのない行為だ。非常に新鮮な響きをもって、その言葉が耳に飛び込んできた。
「そう、いま庭石菖を描こうと思っていたところだ」
「それはなんだ?」
男は鉛筆を持った右手をひるがえすようにして辺りを示し、
「この花さ。知らないのかい? おまえもよくここでぼんやり見てるじゃないか」
知っているぞ、というふうにニヤリとしてから、男はさらさらと紙面に絵筆を走らせた。シドルは絵を描くという行為を初めて目の前にし、やはり新鮮なものを感じながら、紙面に花が咲いていくのを眺めていた。頭のなかで、庭石菖……とつぶやいた。
この小さな花がそんな立派な名前を持っていたことに、シドルは驚いていた。名に恥じぬよう、小さくともことのほか凛々しく咲いてみせるのだろうか。誰に気づかれなくとも手など抜かないのです、とばかりに、鮮やかに、繊細に、いじらしく……。シドルの覚えた驚きは、すうと吹き抜ける清涼な風のように、胸のなかを心地よく突き抜けていった。
以来、裏庭などで男と出会えば話をするようになった。といっても、言葉は二言三言交わす程度で、男の絵が完成していく様子をただ眺め下ろしていたのだが。
男はさまざまなものを描いていた。兵舎の屋根とそこへ留まる数羽の鳩、玄関脇の植木、ここに住み着いている野良猫ども、近くにある商店の店先の情景、どこかで出会った美しい女の横顔…………。男の描く絵が巧いのかどうか、シドルにはよく分からなかった。けれど巧拙とは無関係に、男は絵筆を走らせているとき、なにかに安堵しているような穏やかな眼差しをして、ひとり静かに満足しているふうに見えた。勤務中に見せている無表情とはまるで違っていた。
「何故、絵を描く?」
裏庭の隅に誰かが停めた自転車を描いている男へ尋ねた。男は自転車と手元を交互に見つめつつ、ゆっくりとした口調で答える。
「何故って? 愉しいからさ」
当たりまえだというように眉を上下に動かした。愉しい……口のなかでくり返す。それはシドルの知らない感情だった。
「そら、完成!」
描かれた自転車は実物と同じように所々に錆びがつき、もの寂しさを漂わせていた。操縦把に実際にはいない想像のカナリアが留まり、賢そうな黒い瞳をじっと空へ向けていた。
男は満足げに微笑んで、佇むシドルを見上げた。
「なあ、眺めてばかりいないで、おまえも描いてみたらどうだ?」
「……いや、いい」
「そうか…………まあそれはいいが、おまえはなにか好きなことがあるのかい?」
「…………」
考えてみるまでもないので無言を返す。男はシドルの顔を穏やかな目で見据え、
「ハジャプートがどんな生活を送ってるものなのか俺は知らないけど、どうせ勉強や訓練ばかりしてたんだろう? なにか好きなことを持ったらいい」
「…………」
「なんでもいいんだ。好きなことはいいぞ、趣味は時として……ここを救う」
ここ、と男は自分の胸を親指で指し示し、ニッと口角を上げた。
心を――――……シドルは頭のなかでつぶやいた。そして、素っ気なく返す。
「……余計なお世話だ」
男は気を悪くすることもなく、
「そう、余計な世話を焼いてるんだ」
柔和な笑みを浮かべていた。
しばらくして、男は病が見つかり退役していった。男と出会わなくなった裏庭にひとり佇んで、シドルはどこかが欠けたようななんとも言えない気分になった。それは友人と遠く離れてしまったときに感じる寂しさに近いものであったのだが、その気持ちがなんなのか、どんな言葉で表すべきなのか、シドルにはよく分からなかった。ただ、なんとなくつまらなくなったように感じていた。
相も変わらず厭がらせは続いていた。そのたびに殺意に駆られたが、一方であの男のように好感を持てるひとびとと関わりを持つことで、シドルは同志としてではなく、隣人としての人間関係を少しずつ学んでいったのだった。
まもなく十七歳を迎えようとするころ、シュウ国は長らく休戦していた敵国と、いよいよ講和条約を締結した。それにともない、かねてから予定していた軍備縮小を開始し、徴兵期間の短縮や大幅な人員削減を行うこととなった。
ある日、上官に告げられた。前々からシドルを敵視している、目にしただけで吐き気を催すような厭味な上官だ。屈辱を堪えながら敬礼するシドルへ向かい、狡猾さに満ちた笑みを浮かべて、彼は言った。
「シドル・イスハーク、おまえも今後の生きかたを考えたほうがいい」
意味が分からなかった。自分よりずっと背の低い上官を束の間見据えたのち、
「……それは、何故でしょうか」
「人員削減のことは知っているだろう? 除隊候補者の名簿におまえの名があると小耳に挟んだからだ」
「――――……!?」
瞬間、氷水をぶちかけられた気がした。足の先から頭の先まで強張った。上官は顔色を失ったシドルの様子をひとしきり眺め、さも満足そうに目をしならせる。障害の残る右脚を憐れみの目でちらりと見遣り、
「おまえの処遇に手を焼いているのかもしれんな。実際、おまえは扱いづらい」
「…………」
事実かどうか怪しいうえ、まだ命も下っていないのに、上官はもはや決定したかのような口ぶりで告げる。
「長い間、ご苦労だったな」
笑いを堪えたような顔をして立ち去っていった。
シドルはただただ愕然としていた。衝撃に手足を冷たくさせて、長いこと立ちつくした。頭のなかでは「まさか」と「ありえない」が渦を巻いていた。
――――そんなことがあるはずはない。多額の経費をかけ、長きに渡って育成してきた自分を、たやすく除隊させるはずがない! ……出鱈目に決まっている、いつもの厭がらせに過ぎない…………度を超した厭がらせだ…………!!
九割がた嘘だと信じるものの、いましがた態とがましい憐憫の眼差しで一瞥された右脚を強く意識していた。特別な教育を受けてきた事実と、処遇に手を焼いているという言葉がひとつになって、残りの一割が真実味を帯びていく。
まさか……! 奉仕したい、恩に報いたい、その一心で励み堪え忍んできたというのに、よもや自分は不必要だというのか…………!? いや……嘘に決まっている、ただの厭がらせだ…………
幾度もそうくり返した。眩暈を覚えるほど頭のなかでグルグルと唱え続けた。唱えながら、シドルは巨躯を震わせていた。
――――けれど…………もしも本当に除隊命令があったなら………――――
それは、シドル・イスハークへの全否定だ。
耐えられない、今度こそ気が狂れる――――疑いなくそう思った。そのとき、シドルの心は小鳥の羽が折れるような果敢ない音を立てて、折れてしまった。大きな身体の内側で弱々しく折れた音を、耳の奥に聞いたように感じていた。過酷な鍛錬にも悶えるほどの屈辱にも耐えられたのに、それらを耐えさせたもの、そのものを砕かれてしまったのだ。自分の心はこんなにも弱かっただろうか、内側に血を滲ませながら自問していた。
なにもかもが途端に厭になった。手ひどく裏切られたような思いを抱いて、シドルはまもなく脱走した。実際その名簿に名が載っていたのかどうかは、いまも分からない。
故郷は連帯責任を負っている。が、すでにハジャプートではないため賠償が発生するかどうか、シドルには分からなかった。しかし、もし発生したとしても、三歳で親元を離れて以来いちども帰郷せず、家族や村と完全に縁の切れているシドルにはなんの抑止力にもならなかった。
当てもなく南へと歩き始めた。リュイの姿が頭を過ぎった。腰抜けと罵りつつ、自分も同じ腰抜けになって軍隊から逃げるのだ。ひどく情けないと思いながらも足は止まらなかった。ひたすら悄然として歩き続けた。
シドルはリュイとは異なり、養成所からいきなり外の世界へ飛び出したわけではないため、リュイが直面したほどの大きな戸惑いはなかった。しかし、どこへ行けばいいのか、なにをすればいいのか、同じように分からない。個は害であるかのような教育を受けてきたため、自分のなかにはっきりとした欲求を見つけることが、やはり苦手であった。リュイ同様に、途方もなく大きな自由を持てあました。
そんなシドルだったが、不思議と目に留まるものがあった。小さなものたちだ。あてどなく歩いていくうちに、ふと目に留まる。ぽつりと咲く菫や地を這う蛇苺、鋏虫や蝸牛、蝶、枝にぶら下がる蓑虫、松毬、桑の実…………どれも手のひらにすっぽりと収まって余りあるものばかり、そんなものたちにシドルの目は惹きつけられてやまなかった。
菜の花の茎を伝い蠢くアブラムシの様子をじっと眺めながら、シドルは思う。こんな名もないような小さなものにでもすべて名があり、その名に恥じぬよう、まるで背筋をぴんと伸ばすかのようにして見事に存在している。健気さ、いじらしさ、ひたむきさを多分に秘めて、堂々とここに在る。――――シドルは画帖と鉛筆を持った。
目に留まる小さなものたちを、その健気さを、繊細さを、あるいは秘められた強さを掬い取り、描いていく。大きくて弱い自分を感じながら、自らを励ますように、叱りつけるように、小さなものたちの強さを写し取っていく。
シドルは描いた、いくらでも、心の赴くままに。あの男の言葉を思い出す。それが自身のしたいことなのか好きなことなのか、本当はよく分からない。けれど、小さなものを見つめていると、失意・屈辱・幻滅・被害者意識…………喉元を塞ぐほど胸に溜め込んだわだかまりが、少しずつ薄らいでいくのが分かった。小さなものから力をもらっているかのように、安らいでいく。
絵を描くようになって、シドルはいままでまるで知らずにいた世界――――小さく美しいもののひしめく新しい世界を知った。この世界は案外悪くないのかもしれない、そんなふうに思い始めた。
穏やかに晴れた春先の昼下がり、沙羅樹の下で乱れ飛ぶ紋白蝶を描いていた。ふいに一陣の風が吹き、頭上で心地よく葉がささめいた。なんとはなしに見上げた拍子、リュイの姿が頭に浮かんだ。稽古場で、冷ややかに澄んだ暗緑の瞳を外の沙羅樹へ向けていた、あの静まりかえった姿を。
……リュイ・スレシュはどうしているだろう……
沙羅樹は葉の付け根に淡黄色の小花を無数に咲かせ、唄うようにそよいでいる。常緑の沙羅樹に新しい花が咲いている。時はゆるやかに、確実に過ぎている。
シドルは頭上に咲き誇る沙羅の小花を見上げながら、ふと気づく。あのときリュイに助け出されたことを、いまようやく受け入れようという気持ちが芽生えていることに……。
……なんてことだ……
見上げたままつぶやいた。星の瞬きに似た沙羅の小花と紋白蝶だけが、切ないつぶやきを聞いていた。
けれど、味わいつくした屈辱は心に刻み込まれている。受け入れようという気持ちとともに憎しみも込み上げる。受け入れてなるものか、そんな思いも湧き上がる。いまもしもリュイとふたたび出会ったら、憎しみと感謝のどちらが先に込み上げるだろう……。自身にもまるで分からなかった。
**
穏やかな波のように続く荒野を行く。はるか西方に山の連なりがかすかに見え始めた。あの山脈を越えてまもなくすれば、地方都市ヌワラバードへ到着する。そこからふたりはさらに西へ向かいシュウへの国境を目指し、シドルはひとり北へと向かう。微妙な間隔を保ったこの奇妙な旅路も、あの山脈の向こうで終わりを告げる。しみじみとそれを思いつつ、ティセは一歩前を行くリュイの横顔を見つめた。
いまのシドルは、僕の知っているシドルじゃない――――……あの発言にティセは納得した。リュイにとっては戦場で助け出したシドルが最後に見たシドルなのだ。それはリュイを認めて対等に接していたシドルだ。罵りも嘲笑もせず、ほかの同志と分け隔てなく「きみ」と呼んでいた。シドルの変貌にリュイは戸惑っていたのだろう。
命令違反を犯して懲罰房へ入れられたという話は、以前リュイ本人からおおよそ聞いていた。そのとき感じたことが脱走の契機になったと話していた。助け出した同志についてはほとんど話していなかったので、それがシドルだとは分からなかった。シドルの話はティセに深い感慨をもたらせた。
屈辱にまみれたつらい数年間は、正直なところティセにはうまく想像ができなかった。けれど、尊大なシドルがじつは長らく堪え忍んできたことに、心を引き裂かれそうなほど切なくなった。同情など欲しくはないだろう、それは余計にシドルをいらだたせるだけだろう。そんな心中を察しながらも、心のなかでだけ同情した。
ティセはちらりと後ろを見た。大きな声を上げれば耳に届くくらいの間隔を空けてシドルが歩いてくる。心持ち右脚を引き摺りながら……。
シドルはリュイに感謝したい気持ちも少なからず持っている。が、それを凌ぐほどの恨みと憎しみをも抱いている。複雑な胸中が、こんな不自然な間や態度となって表れているのだろう。先日焼いたお節介は本当に余計だったのだと、ティセはつくづく反省した。
昔話をしている最中のシドルの瞳がひどく印象的だった。鳶色の瞳は普段の棘や険しさを消していて、つらい話をしているにも拘わらず、大切なものを見つめているときのように澄んでいた。
そして、その告白はあまりに素直だった。横柄なシドルからは想像ができないほど赤裸々でまっすぐな告白だった。恥や決まりの悪さを隠すこともできるのに、誇張や虚勢を張ることもできるのに、それをせずありのままの心を話し聞かせてくれた。シドルの素直さと真面目さに、ティセは胸を突かれてしまった。こんなふうに自分に打ち明けてくれたことに非常な嬉しさを覚えた。同時に、そこはかとなく申し訳なさも感じていた。
集落に近い野原で夜の準備を始める。リュイは火を焚き、ティセは夕飯を仕度する。先ほどシドルへ尋ねた。
「ねえ、一緒に食べなくてもいいからさ、おまえの分も作っていい?」
シドルは暫し黙っていたが、満更でもなさそうにニヤリとした。
「いいぞ。いくらでも作っていい」
地面に置いた小鍋の前にしゃがみ込み、心を込めて馬鈴薯の皮を剥く。玉葱を薄く切っていく。細心さをもって香辛料を混ぜ合わせる。ティセは楽しくて堪らなかった。
やや離れたところで、シドルが茜色を帯びてきた空を眺めている。美しい立ち姿が逆光に映えている。ティセはナイフを持つ手を止めて、それを見つめた。
……シドル……
大きな身体で小さなものを見つめている。とても強いのに、弱さを持つと率直に語る。憎しみと感謝を同時に抱えている、そして、迷っている――――……。
――――シドルを知りたい。もっと親しくなりたい…………この目にずっと、その姿を映していたい……――――
一途な眼差しをシドルに向ける。その横で、リュイが憂いを滲ませた瞳でティセをじっと見つめていた。
ご感想、コメント、ブクマ、レビューなど是非ともお待ちしております。




