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休暇が始まる朝、いつもの起床時刻を少しだけ回った時間にシドルは目が覚めた。布団から半身を起こせば、冬に向かいすっかり冷えてきた空気を感じて、にわかに肌が引き締まる。ほかに目覚めている者はおらず、室内はまだ薄暗かった。が、敷かれた布団の数がひとつ少ないことにすぐ気がついた。
リュイの寝具はすでにきちりと畳まれて隅の定位置に置かれていた。同様に、その文机もひっそりと隅に片付けられている。たとえば、死んでしまってもう二度とここへは戻らないひとの持ち物さながらに、それはどこか寂寞とした冷たさを放っていた。
シドルはそれを見据えながら、
……また帰省したようだ……
リュイは休暇になれば、誰も目覚めない早朝に起床して、ひとり宿舎を出て行く。明けの明星がまだ輝きを失う前に、小さく貧しい村を目指して歩いて行くのだった。
まもなく陽が昇り、窓の外が明るくなってきた。シドルが窓掛けを開けると朝日が部屋へ差し込み、それを合図にしたように相部屋の同志たちが次々と起き始めた。
「ああ、よく眠れた……」
ひとりの少年がリュイの寝具を見て小莫迦にするふうに、
「腰抜け、今回も家に帰ったのか……」
その隣で寝ていた少年が布団を畳みながら返す。
「いくつになっても母親が恋しいんだろう」
シドルは窓辺に佇んだまま、
「いや、リュイ・スレシュの両親は何年か前に亡くなっているはずだ」
「そうなのか?」
少年たちは意外そうに目を見開いた。
「ヒェンドラがそう話していた。何年か前に、数日間いなかった日があっただろう。両親の墓参りのために特別に帰省を許されたのだと聞いた」
「へえ。それなら、どうして家に帰るのだろう?」
「分からない……」
シドルにはまったく分からなかった。シドルは施設から遠い南部の出身であり、ほかの南部出身者のほぼ全員がそうであるように、三歳での入所以来いちども家族に会っていない。村や親兄弟とはとうに縁が切れている。
「それなら、ここにいるのが厭でたまらないのだろう、腰抜けだもの」
少年はふたたび腰抜けと口にした。
「そうだ、腰抜けの風に当てられないよう、僕たちは気を引き締めていかないと」
「僕は当てられないさ! 休暇だって返上して勉強と稽古に励む!」
手早く寝具を片付けて、皆、大食堂へ降りていった。シドルはなんとなくそれを見送ってから、腰抜けと口にした同志に対する溜め息を漏らした。それから、自身も食堂へ向かった。
十三歳を迎えるころ、第六期ハジャプートは初めて戦地へ送られることが正式に決まった。それまでは訓練生と呼ばれるものであり軍属ではあったが軍人ではなかった。それにともないついに軍籍を授かる次第となった。その正式な日付と慶賀式の日程が朝礼で告知されると、厳しく躾けられた少年たちもさすがに興奮を露わにし、色めき立った。
過酷な鍛錬などで疲れ果てた少年たちは、消灯時刻を迎えれば気絶するように眠りに落ちるのが常であるが、告知のあった日の晩だけはなかなか眠りにつけないでいた。シドルの部屋でも全員が就寝の体勢に入ったものの、しばらくはランプを小さく灯し、声を潜めて喜びを語り合っていた。
「ついにこの日が……。この十年の厳しい毎日が報われる、感無量だ」
布団のなか、俯せになって頬杖をついた少年が感慨深げに言った。
「今朝の朝礼は、まだ夢の続きにいるのかと思ったくらいだ」
「慶賀式には元首さまもお見えになる……こんなに嬉しいことはほかにない……」
式では総統が祝賀の演説をするという、シュウ全国民の父のように教え込まれている少年たちにとって、これほど栄誉に思うことはない。そして、シドルは第六期ハジャプート代表として、総統への敬礼の号令をかける大役を命じられていた。
「シドル! きみはすごい、心から尊敬するよ!」
にやりと口の端を押し上げて、シドルは笑んだ。
「あまり圧迫をかけるな。緊張するだろう」
「さすがのきみも緊張するか」
小さな笑い声が上がる。
大役については、シドル自身とてつもなく名誉に思っている。自らの才といままでの努力が認められたことが非常に誇らしかった。沈着さを保ちつつも、内心では歓喜に打ち震える思いでいた。
ひそひそと喜びを語るなかで、リュイの声だけは聞こえない。ちらりと見遣れば、隅の布団に横たわるリュイは壁のほうを向き、すでに静かな寝息を立てていた。今日の日に、なんの感慨も覚えないかのように安らかに。
シドルは心底呆れた。本当に不可解な同志だとつくづく思った。ほかの同志たちは語り合うのに夢中で、リュイがもう眠りのなかにいることに関心を払う者はいなかった。喜びを表さない者は同志とはみなさない――――と、無意識のうちに排除するように、眠るリュイを無視していた。
冬の終わりのひと際冷え込んだ朝に、慶賀式は厳かに執り行われた。毎日朝礼の行われる大広間はどこもかしこも磨き立てられ、塵や曇りひとつなく清められていた。そこに新しいハジャプート、数多の教官や関係者らが一同に会した。
骨身に染みる寒さは、けれど少年たちの突き抜けるような歓喜と激しい緊張から発する熱で相殺されて、むしろ暑いくらいに感じられた。壇上では幾人かの要人の祝賀の演説が続いていた。最後、少年たちが待ち焦がれていた人物がそこへ立った。
総統が姿を見せると場内はさらに静粛になり、尚かつ熱さを増した。少年たちは誰もが目を見開き頬を紅潮させ、一心に壇上を見つめた。歓喜と緊張のあまりじつのところ体調を崩していても、死んでも倒れはしない、そんな意志を漲らせて身に余るお言葉を拝聴していた。
やがて、そのときが訪れた。最前列の左端に立ったシドルの声が大広間に凛と響き渡った。
「第六期ハジャプート一同、敬礼!」
一分の乱れもなく完璧に美しく、少年たちはシドルの号令に従った。壇上の総統は表情を変えることなく、ただ胸を張っていた。それから、場内は割れるような万歳唱和に包まれた。シドルは足の先から頭の上へと、光彩に似たものが駆け抜けていったように感じていた。恍惚感を覚えるほどの光栄――――……それが、尊敬と憧憬の対象だったシドルの、最後の輝きとなった。
身を屈めて駆けるシドルの後方で、榴弾が炸裂した――――――
鼓膜を破るような爆音と、すべてをなぎ倒すほどの爆風、身を粉々にさせる凄まじい衝撃…………瞬間、そのすべてを同時に覚え、その先はもうなにも分からない。目を開ければ、白煙が立ち込め火薬の匂いに満たされた地に、無防備に横たわっていた。
「…………」
頭のなかも白煙が立ち込めているように、真っ白だった。すぐに全身に痛みや痺れを覚えた。が、右脚にはそれがない。否、右脚などないために感覚がないのではないかと、シドルは疑った。
まさか…………
痛みと痺れを堪えつつ、そこを確かめようと怖々と重い頭を上げる。と、確かめるより先に、少しだけ間隔を空けた場所に、同じように同志が横たわっているのが目に入った。
「……!!」
シドルは瞠目した。同志の身体はもはや生きものではありえないほどに、ぐちゃぐちゃだ。力なくこちらを向いた顔は半分しかなかった。が、聡明さの名残を留めた右の目元を見ればひと目で分かる、ヒェンドラだ――――……。
「ヒェン……!」
続いて自身の下肢を見た。シドルはさらに瞠目した。爆風に飛ばされた弾片や瓦礫の直撃を受け、脚衣や軍靴は破損してとくに右の膝下から足首辺りをひどく損傷していた。いまにも千切れてしまいそうに思えるほど無残なありさまだ。完治するような負傷ではない、すぐに理解した。
大地が転覆したも同然の衝撃と絶望感が、稲妻となってシドルを貫いた。
…………もう、ハジャプートとして生きていくのは不可能だ…………
「ああ……!!」
悲嘆の声を漏らした。
鼻腔を麻痺させる臭い煙が棚引く朝の空を、仰向けになって仰ぎながら、自身の運命を呪う。
ハジャプートでいられないのなら、恥を忍んで生きねばならないのなら……申し訳なさを耐えていかねばならないのなら…………ここで死んでしまいたい……。シドルは心からそう思った。そうすることこそが潔い生きかただと信じた。早く次の砲撃を受けてバラバラになってしまいたいと、少しずつぼんやりとしてきた頭で乞い願う。
流れる白煙の向こうから、誰かがやってくる気配がした。人影に目を凝らす。信じられない人物が煙のなかから現れた。
リュイ・スレシュ…………!!
シドルは驚愕した。
リュイは倒れているふたりを見てびくりと足を止め、目を見開いた。が、すぐに冷静さを取り戻し血まみれのシドルへ近づいた。
「シドル!」
「構うな! 早く行け!」
無駄に慌てることもなく、リュイは腰に装備した小型の革鞄から止血帯を取り出して膝をついた。すぐさま応急処置に取りかかる。
「やめろ! 余計なことをするな! 放っておいてくれ!」
全身の痛みや痺れと大量出血のため、身体は自由を失いつつあった。皮膚は冷たく青白く、呼吸は速く浅くなっている。それでも目一杯の抵抗を試みた。が、抗おうとするシドルに構うことなく、リュイは無言で手際よく処置をし続ける。普段なら腕力はシドルが勝るのだが、全力で抵抗しても少しも阻止できない、やめろという思いだけが空回りしていた。
実習で教わったとおりに、リュイは右膝の上に止血帯を施した。そしてシドルの両腕を取り、かなぐるように背中へ負った。
「やめろ! 放せ! むしろ殺してくれ!」
耳元で喚きまくった。リュイはなにも応えず、自身よりもずっと体格のいいシドルを背負い、歯を食いしばって足早に歩を進める。一目散に退避場所を目指していく。
シドルはますます身体の自由がきかなくなり、意識も遠くなっていく。辺りのどこかで砲撃の音が上がった。シドルの耳にはとても遠く聞こえていた。リュイの背中の上ではっきりと覚えていたのは、失意と、屈辱と、これから待ち受ける計り知れないほどの不本意さへの、甚だしい恐怖だった。
退避場所にようやく辿り着き、リュイの背から下ろされたとき、自分はもう気が狂れてしまったと、シドルはぼんやりと感じていた。
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