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ティセはいつものように惣菜の残りをふたり分、鍋から円柱形弁当箱へ取り分けた。女将に感謝の笑みを向け、
「じゃあ小母さん、また明後日ね。お先に失礼します」
「はいよ、おつかれさん。また来週も頼むよ」
女将は軽く片手を上げて、ティセを見送った。
明日は休日だ、本日の勤務は日中のみで夕方からの勤務はない。今晩は少し手の込んだ夕飯を作ろうと、献立を考えつつ自宅と反対方向へ歩いて行った。市場へ買い出しに行くためだ。今日は一段とやわらかな気持ちのよい風が、目抜き通りの未舗装の道を、ナルジャの村を流れている。
ほんの少し行くと、前方にラフィヤカの後ろ姿が見えた。檸檬色の上下を纏い、しずしずと歩く姿は、黄色い百合の花を連想させた。
「おう、ラフィヤカ!」
「あら、ティセ、どこ行くのよ」
「市場。おまえは?」
「いま、あんたの家に行ってきて帰るとこよ」
答えながら、ラフィヤカはティセの左腕に右腕を絡め、まるで恋人同士のようにぴたりと寄り添った。
「さっき、おばさまにすごく誉められたの。今度の服、いままででいちばん可愛くて縫製もしっかりしてるって! もう、いまとってもいい気分なの!」
ティセの母親と違ってミシンをまだ持たないラフィヤカの衣装作りは、すべてが手縫い作業だ。縫製を誉められて嬉しさもひとしおなのだろう。もうたまらないというふうに、ティセの肩に頬をすり寄せる。そんなラフィヤカに、ティセは笑顔を返す。
「そう、よかったね! 出来上がったら着て見せてよ」
衣装自体には興味をそそられないのだが、完成したばかりの服を着たラフィヤカの、その得意げな顔を見るのが楽しみでそう言った。
「もちろん見せるわよ! いちばん最初に見せてあげる」
嬉々として返すので、ティセもまた嬉しくなる。ふたりは腕を組んだまま、通りを歩いて行った。
「そういえばティセ、校長先生が近いうちイリスに行くって、もう知ってる?」
「もちろん。一昨日、校長室に顔出してきた。もう昨日の朝に出発したはずだよ」
「あら、そうだったの?」
「イリア中から教師が集まる大きな会議みたいなのがあるらしいよ。あと、校長が個人的にやってる研究の発表もあるんだって。ひと月近くイリスにいるってさ。行きも帰りも汽車に乗るって言ってた」
ラフィヤカは目を丸め、
「詳しいわね! さすがティセ、校長先生とは親しいわあ」
「まあね」
高い声をさらに高くして、ラフィヤカは言う。
「いいなあ、ひと月もイリス…………ああ、私もイリスに行ってみたいなあ」
村の女の少なくない数がそうであるように、生まれてこのかた、ラフィヤカはジャールより遠いところへ行ったことがない。旅の間に出会った異国のひとびとが大都会イリスに憧れていたのと同様に、ナルジャの村びとの多くもイリスに強い憧れを持っているのだ。
「いいよねえ、私もいつか、もういちどイリスに行ってみたいよ……」
うらやみ声で言ってから、青空に浮かぶひとひらの雲を見上げた。
思い出のイリス――――かつて父としたイリスへの小旅行、その懐かしい場面がまぶたを過ぎる。高い建物に囲まれて道に迷う田舎者の父、迷っても笑顔で突き進む頼もしい父、めずらしい料理を分け合って美味しいねと言い合った…………。ガス灯や路面電車、豪壮な構えの大劇場、優美を極めるイリア王宮の眺めと、幼いティセを驚嘆させた広場の大噴水…………初めて見るものごとを、父は丁寧に分かるまで説明してくれた。その声、その言葉、その眼差し――――……ティセはいまでもありありと思い出せる。
思い出せばいつでもともに連なって、その胸によみがえる。心の高みに上りつめて神格化した、父の言葉が――――――
――――いつか一緒に、旅に出よう……――――
そのとき、風が吹いた。いままで目抜き通りを流れていた、花の香と湿り気を含む春風とはまるで違う、やわらかくも濾過された水のごとく澄み切った風だ。風が頬を撫でた瞬間、ティセはどきりと胸が鳴った。
「……!」
わずかに遅れ、どこか遠くから、一瞬だけ弓を引いた擦弦楽器の音に似た潔さで、忘れられない音が聴こえた。――――――笛の音だ。
「――――!!」
途端、足の先から頭の天辺まで痺れが走り、ティセは打たれたように立ちすくんだ。
急に立ち止まったティセの顔を、ラフィヤカは腕を絡めたまま訝しげに見遣る。
「なに、どうかした?」
瞠目するティセの、そのふたつの瞳は大きく瞳孔が開かれ、黒曜石そのままに輝いている。
「……ティセ?」
息だけの声で、ティセはつぶやいた。
「……リュイだ……」
「え……?」
次は、めいっぱい叫ぶ。
「リュイだ! リュイが来たっっ――――!!」
目を白黒させるラフィヤカの両肩をがしりと掴み、
「笛の音だ、間違いないっ! リュイだっ!」
わさわさと揺さぶった。ラフィヤカはますます混乱したように、
「な、なに言ってんの、あんた、ちっとも分かんない……」
「リュイが来た――――……っ!」
大きな独りごとを言い残し、ラフィヤカを置いて全速力で駆け出した。
「ちょ、ちょっと、ティセ――……!?」
甲高い呼び声はあっという間に耳に届かなくなった。
何故だか自分でも分からない、ティセは理由のない確信を持ってその場所を目指していた。まずは、はずれの丘の方向へ…………途中で農道へ出て、ほどなくして林のなかへ入り込み、道なき道を掻き分けるようにして突っ走る。道中通りすがった村びとたちは、初等部の子供のように全速力で駆けるティセを見て、顔をぽかんとさせていた。
左手に弁当箱、右手に棒っ切れを持ち、行く手を阻む蜘蛛の巣を蹴散らしながら、林のなかを突き進む。栗鼠や野兎が慌てて逃げていく。ティセは無心になり駆けていく。これが近道――――……家出の朝にも通った近道――――……初めてリュイと出会った、沙羅樹の立つあの休耕地への近道だ。
林を抜けると、にわかに視界が開ける。あのときは休耕地だった農地だが、いまは耕地に戻されて、種まきや植え付けを控えすっかりと整地されている。
濃い土色が一面に広がるなかに、大きな沙羅樹がただ一樹立っている。光沢のある濃緑の葉が織りなすささめきの下に、まっすぐに立つひとがいる。白い衣服を纏い、笛を包んだ左手を胸にして、すでにこちらを捉え正面を向けていた。
ティセは畑の縁で足を止めた。暫し、ふたりは互いを眺め見ていた。表情がようやく分かるほどの間隔を空けて。そのさめやかな顔つきを、ティセは嬉しさと懐かしさと慕わしさに突き上げられながら、一心に見つめていた。
やがて、手のひらに堕ちた雪が一瞬にしてほどけるのと似たように、リュイはふうっと微笑んだ。
「リュイッ…………!!」
ティセは矢のように駆け寄った。
弁当箱を半ば投げ捨てるように置き、白い袖に包まれた両手首をがしりと掴む。
「リュイッ! 久しぶり! よく来たっ! 会いたかったっ! …………ほんとにリュイか? 夢じゃない……?」
変わらず吸い込まれそうな、暗緑の瞳を覗き込む。リュイは微笑んだまま、
「ん……」
やわらかな鼻音の返答が、ひどく懐かしい。
リュイは何故か、ほんの一瞬だけとても悲しげに目を伏せた。が、すぐにまた口角を上げ、どこか囁いているふうに聞こえるあの喋りかたで言った。
「……すごいな、本当に来た」
「え?」
「今回はジャールからでなく奥の村からここへ来たんだ。ここで初めておまえと会ったのを思い出して、あのときのように笛を吹いてみたら、もしかしたら来るんじゃないかと思って…………本当に来た、とても驚いた……」
「そりゃすごい! 笛の音なんか聴こえないくらい遠くにいたのに、はっきり聴こえたよ……! すっげ――――――っ!!」
叫びつつ、掴んだ両腕を上下に振った。変わらぬ元気さが可笑しそうに、リュイはさらに微笑みを深くして、
「ティセ……久しぶり」
ティセはしみじみと顔を見上げた。
「……最後に見たときより、また少し背が伸びたね……」
「ん……けれど、もう止まったようだ」
「……相変わらず、なんか暗いなあ……」
「……相変わらず、口が悪い……」
どこか楽しげに言い返した。
改めて眺めてみれば、リュイはもう少年という感じではなかった。手の甲には血管がはっきりと浮いていて、それはそのまま袖の内側へと続いている。形の整った長い指は変わらずに美しいけれど、その関節は男のものだった。顔立ちはそのままでも、わずかに残していた少年らしい雰囲気は消え失せ、代わりに精悍さを増していた。気のせいか、喉仏も以前よりくっきりとして見える。よく見れば、鼻の下にはほんのかすかにだが髭の剃りあとがあった。
しかし、そのたぐいまれな美しさは微塵も損なわれることなく、相変わらずの近寄りがたさを醸し出している。細身の体格も、すっきりと角のある涼しげな肩の線も、シュウ北部の伝統衣装と、その白の上衣の上に揺れる長い黒髪も、そのままだ。少しも変わらず、ひとの目を奪うようなひとだった。
そんな十八のリュイをつくづく眺め見て、ティセはいたく感心しつつも「やれやれ……」と半ば呆れる思いがした。
「おまえ、あれからどこへ行ったの?」
「おまえが決めてくれたとおり、南のほうへ行った」
「どうだった? イブリアの故郷」
リュイはにやりと思い出し笑いをし、
「それが…………ひどく蒸し暑くて辟易した。祖先はあの暑さに耐えきれなくて北上したんじゃないかと思ったくらい……」
「あはははっ……! そっか、そりゃ悪かった、ひどい提案だったね」
思い切り吹き出したのち、ティセは顔つきを真面目にして問うた。
「――――で、おまえを導くもうひとつのものの心当たりは見つかったの?」
リュイは笑みを収め、首を横へ振った。
「……いまだに、少しも分からない……」
途方に暮れているみたいに目元に戸惑いを滲ませた。リュイは変わっていないのかもしれない、ティセはなんとなく予感した。
「…………そっか。じゃあいまはまだ、見つかる時機じゃないんだね」
思いも及ばない応答だったのか、リュイはつぶやくようにくり返した。
「……時機……?」
うなずく代わりに、ニッと笑む。声に張りを戻し、
「とにかくさ、私の家に来いよ。あれからのことを山ほど聞かせてよ!」
リュイは眉をぴくりとさせた。
「……わたし……?」
あははっ、とティセは照れを笑い飛ばして、
「そうそう、俺は止めろってね、母さんの言いつけなんだ」
「…………けれど、おまえが言うとひどく中性的で、少しも女らしく聞こえないな……」
「そ?」
リュイはためらいがあるように、
「……おまえの母親は……家にいる?」
そう尋ねたくなる気持ちはよく分かる。ティセはさっぱりと笑み、
「いるよ。でも、なにも心配ないよ。おまえのことはこれでもかってくらい褒めちぎってあるからな。母さんはおまえを歓迎するよ」
「…………」
自宅へ戻る途中、何人もの村びととすれ違った。誰もが目玉が零れ落ちるほど目を見開き、並んで歩くふたりを見えなくなるまで追っていた。自分に関する噂がまたひとつ、見るまに村中へ広まるだろうと、ティセは覚悟した。
自宅の前まで来て、声を潜める。
「ちょっとここで待ってて。母さんに話してくる。急に連れてったら、驚き過ぎて倒れちゃうかもしれないからさ……」
リュイはうなずいて、その場に荷物を下ろした。
「ただいまー」
足踏みミシンの軽快な音がする仕事部屋へ入る。母は手を休めずにちらりと目を上げて、
「おかえりなさい、今日は遅かったわね、買いものに手間取った?」
ティセはミシンの前に立ち、できるだけ驚かせないよう沈着に告げる。
「母さん……驚かないでね」
やはり手を休めず、事とも思わぬふうに、
「なによ」
「……リュイが来た」
瞬間、顔も手も凍りついたように母は強張った。足踏みミシンの音がぴたりと止む。怖ろしいものを目の当たりにしたときのように、瞳を怯えさせた。その反応は、ティセの予想していたとおりだ。母さん……心のなかでつぶやいた。
が、母はすぐに気を取り直し、今度はおたおたと慌て始める。
「ま、まあ、どうしましょ! たいへん! 部屋を片付けなくちゃ! なんの用意もないわ! 私ったらこんな汚い恰好で……」
おろおろきょろきょろするだけで、実行はひとつも伴わない。
「母さん、そんなこと誰も気にしないよ。とにかく、いま連れてくるからね」
リュイを連れて戸口へ入る。母は仕事部屋の入り口に、心許なげに立って出迎えた。その姿を目にした途端、全身がびくりと固まったようになった。異国のひとをあまり見たことがないうえ、この辺りでは目にしないその肌の色、瞳の色が強烈な印象を与えたに違いない。ティセ自身がそうであったようにだ。加えて、話に聞いて想像していた以上に、美しく立派な青年だったからだろう。
リュイは静かに一礼し、まっすぐに母を見て、
「初めまして。リュイ・スレシュ・ハーンといいます」
母の動揺とは対照的な、落ち着き払った態度で言った。母は暫し言葉を詰まらせていたが、やっとのように、
「こちらこそ初めまして……。娘が大変お世話になりました……」
リュイより深く頭を下げた。
ティセは寝具など当座必要なものだけを母の寝室へ持ち込んで、自室をリュイに明け渡した。し損ねた買いものへ出かけ、来訪と再会を祝うため、母とともに少し手の込んだ夕飯を拵えた。
ふたりで台所へ立つのは久しぶりだ。来客があるのは、そしてそのために料理するのは、もっと久しぶりだ。母娘は新鮮な気持ちで竈に向かった。
母は石の擂り鉢で香辛料を砕きながら、隣で馬鈴薯の皮を剥くティセに言う。部屋で休んでいるリュイに届かぬように、そっと潜めた声だった。
「ねえ、ティセ……」
「なに?」
「あなた……ほんとに彼と一緒に旅してたの……?」
「は? なに言ってんのさ」
見向けば、母はどうにも納得できないというふうに眉を寄せている。
「だって…………彼と同じ空気……吸えるの?」
言わんとしてることは分かった。ティセはついニヤニヤして、
「……あのねえ、リュイは私の親友なんだよ。あっちもそう思ってるよ、思ってなかったらわざわざ会いに来るわけないだろ。親友なんだから同じ空気吸ってるよ」
「そ……そう……」
不思議そうに首を傾げている。
「母さん……あんまりきれいなんで、びっくりしたんだろ?」
ティセが心得顔を向けると、母は唇を尖らせながらもうなずいた。
酸乳と数種の香辛料に漬け込んで焼いた鶏と、山羊乳の乾酪の揚げもの、乳酪と胡椒で味付けした飯……普段よりは少しばかり手の込んだ料理を載せた三枚の銘銘盆が、仕事部屋兼居間に並ぶ。こんなに部屋を片付けたのは数年ぶりだろうか、それでも背の高いリュイが加わると、少々狭く感じた。
あれからのお互いの旅の話や、ティセの近状、ふたりの旅の思い出話など、夕飯はいつになく楽しく進んだ。リュイは始終落ち着いていたが、母は少し緊張しているようだった。にも拘わらず、母はちくりと厭味を言うのを忘れなかった。
「あなた、私の娘を一年も男だと思ってたんですってね」
そのときだけ、リュイは顔をはっとさせて口籠もり、一瞬沈着さを欠いていた。ちらりとティセを睨み、余計なことを言うなと目で言った。
寝る前に、ティセは自室にいるリュイを訪ねた。
「リュイ、起きてる?」
「ん……」
敷き布団の上に胡座を組み、本を読んでいた。背筋をぴんと伸ばした読書姿も相変わらずだった。向かいに腰を下ろす。
「ねえ、おまえさ、あれからセレイに手紙書いた?」
「いや……」
「なんで書かないんだよ! 住所教えてもらったろ? ……私にもくれなかったけどさ」
別れ間際、たまには手紙をくれと言ったのに、便りはいちどもなかったのだ。
「私は村に戻ってから二回セレイに手紙もらってるよ。最後は半年以上前だけど」
すると、リュイはわずかに瞳に感傷を滲ませた。
「そう……セレイは元気でいるの?」
「元気だよ、もちろん。そう思うなら手紙書けよ!」
「…………なにを書けばいいの……?」
困じたように伏し目になる。親しいひとに送る手紙の書きかたを知らないのだ。やれやれ、とティセは頭をボリボリ掻いた。
「元気でいるってひとこと書けばいいの。無事でいるのが分かればそれでいいんだから。…………セレイはおまえのことめちゃくちゃ心配してるぞ」
「セレイが!?」
驚いたように返すので、ティセは呆れた。
「当たりまえだろ。兄さんから連絡はありませんかって、必ず書いてあるもん」
なにやら居たたまらないように、リュイは目を細めた。
「とにかく、ここにいる間に手紙を出せよ」
「ん……分かった」
素直にうなずいた。従順なところも変わらないようだ。枕元には短剣の用意があった。いまでも、それを抱いて寝ているのだろう。
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