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青白い朝の空に小鳥のさえずりが幾重にも響き渡る。ティセは焚き火を熾し直して、ふたり分の白湯を作るため、小鍋を火に掛けた。リュイは昨夜のできごとでことのほか疲弊してしまったのか、普段はティセより早く起きることがほとんどなのだが、起きる気配がない。木乃伊のように毛布にくるまったままだ。
小鍋をそのままに、ティセはシドルのいるほうへ向かった。木立の合間を少し行くと、朝食を取っているのが見えた。ティセを目の端に留めて、じろりとこちらを向いた。
ティセは軽く片手を上げて、
「おはよっ!」
昨夜のことなどなかったように、ニッと笑いかける。揚げパンを持つ手をぴたりと止めて、シドルは呆気に取られたような顔でその笑顔をじっと見つめた。
「いいもん食ってるね、私も腹減ったなぁ。リュイちっとも起きないよ、まったく……」
「…………」
ますます呆気に取られたように、目の前までやってきたティセを見上げる。ティセはふっと軽く吹き出して、
「昨日はよくも脅かしてくれたな。……でもおまえ、もう怒ってないんだろ? 私も全然怒ってないよ」
「…………」
「だけど、ひとつ大事なお願いがある」
ティセは大真面目な顔をしてシドルの前にしゃがみ込み、まっすぐにその顔を見据える。朝いちばん、焚き火を熾す前に付け直した胴着の釦を指し示し、
「釦を壊すのはもう止めて欲しい! これ二度目だよ? 私は世界でいちばん裁縫が嫌いなんだ! 大っ嫌いなんだ! 心からお願いする!」
やや間を置いて、シドルは呆れを通り越したのか、にやにやと笑い始めた。つられて、ティセもにやりと笑んだ。笑いを押し堪えた声で、
「おまえは…………本当におかしな女だな……」
揚げパンを持たない左手をおもむろに伸ばすと、犬か猫にでもするように、ティセの栗色の短髪をわしゃわしゃと掻き混ぜた。
「わ! ちょっとなにすんだ……!」
文句を付けつつ、もみくしゃに乱れた髪を両手で撫でつける。いまシドルがここに触れたことを、不思議なほど強く意識しながら……。胸の奥が苦しいように、そして、シドルがもう少し近くなったように感じていた。
昼食後、リュイがいつものように本を開いたので、ティセは満腹の腹を軽く叩きつつ、シドルのもとへ遊びに行った。ジャガランダの木陰に、こちらに背を向けて胡座を組んでいる。また絵を描いているのだろうかと思ったが、違う。昨夜ティセに振り上げた剣の手入れをしているのだった。
シドルは静けさを纏っていた。剣の手入れをしているときのリュイ同様に、雪の朝に似た張りつめた清浄さを全身に漂わせている。が、リュイほどには没入していないようで、近寄りがたさに足を止めたティセをゆっくりと振り向いた。
唇の片端を押し上げて不吉に笑い、
「またいつ、あいつを殺したくなるか、分からないからな……」
ティセは若干唇を尖らせて、独りごとのような小声で返す。
「……何度だって止めに入るよ」
シドルはふんと鼻を鳴らして嗤う。油を含ませた布で刀身をすっと拭うと、音もなく鞘へ収めた。ティセはそばまで寄って、隣に腰を下ろす。
「昨日、リュイが言ってた。おまえが本気なら助けてやれないって……。おまえには敵わないって……」
すると、シドルは眉を寄せ不快を露わにした。
「あいつそんなこと言ったのか……!? 本当に胸くその悪い野郎だ……」
苦々しくてたまらないとばかりに吐き捨てた。ティセはその横顔をちらりと窺い、
「……違うの……?」
「間違ってもいないが合ってもいない……。あいつと手合わせをして負けたことはない……が、勝ったこともない!」
つまり、つねに互角だったということだ。決して勝てない悔しさをわだかまりのように持ち続けていたのに、リュイはあっさり自分は負けたのだと受け止めていたことが逆に腹立たしい、シドルの忌々しげな口調はそんな胸中を如実に語っていた。
「そっか……。リュイは成績は良いほうだったって前に言ってたけど、それならおまえも良かったんだね」
次は呆れ返ったように返す。
「良いほうだと? 厭味な野郎だ……」
はぁっ、と吐き出すように息をついて、シドルは落ち着きを取り戻した。
やれやれと言いたげな溜め息を聞き、ティセはつぶやくように問う。
「…………そんなにリュイが憎たらしいの……?」
シドルは急に口を閉ざした。小さな砥石を指先でもてあそびながら、なにか考えているふうに黙っている。鳶色の瞳には、ひとことでは言い表し得ない複雑な色が浮かんでいる。ティセはそれを気にしつつ、控え目な口調でさらに尋ねる。
「……ねえ、本当は話をしたいんだろ? ……じゃあ、なんでなの……?」
と、シドルは不愉快そうにティセを軽く睨んだ。
「……昨日のあれは、そういうつもりか」
「だって……」
「偉そうなうえに、とんでもないお節介だ、おまえ!」
はっきりとなじられて胸の奥がズキンと痛む。自分でも意外なほど言葉は突き刺さった。ティセは思わず、シュンとうつむいてしまう。ほんのわずかだが目を潤ませる。
強気になって言い返すと思っていたのか、こんなしおらしい反応は予想外だったようで、シドルははっと顔を強張らせた。そしてにわかに目つきをやわらげ、今度は決まりが悪そうに黙り込んだ。
隣に腰を下ろしたまま、ぎこちない沈黙が続く。ジャガランダの葉が熱い風を受けて、少しでも涼しくなればとの気遣いを感じさせるような、涼やかな葉音を立てていた。
そのうち、シドルは声音から角を完全に消して、静かに問うた。
「聞きたいか……?」
「え……」
顔を上げたティセを見て、シドルはそこを指しながら、
「この右脚の理由をだ」
「…………」
ティセは胡座を組むシドルの右脚を迷いのある眼差しで見つめる。美しい尖塔が抱えたどうにもならない哀しい瑕疵のような障害と、リュイへの憎しみがどう関係するというのか……。それを聞いてしまったとして、リュイは厭ではないだろうか……。ティセは激しくためらった。この場から逃げ出してしまおうかと思うほど戸惑った。困り切った顔をして、ただうつむき加減に黙していた。
けれど、胸の奥に抱きしめた熱いものが欲している。
……シドルを知りたい……もっと、もっとシドルを知りたい……――――
その思いは、ティセの戸惑いをすでに凌駕している。
頭の奥にはリュイに対する後ろめたさがはっきりとあった。それでもティセは、胸の奥の熱いものをさらにきつく、いっそう大切に抱きしめる。
おもむろに顔を上げ、シドルの目を見て告げる。
「もしも、厭じゃないのなら…………」
木漏れ日の下、ふたりは同じだけ真面目な瞳をしてお互いの目を見ていた。はるか高みで、鳶が鳴いている。まるで、時を招き戻す呪文のように聞こえていた。
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