6
その日は夕刻が迫っても雨の気配は訪れず、空は晴れ渡っていた。このぶんなら今日はもう降られる心配はないだろう、ある村はずれの野にて一夜を過ごすことにした。バンヤン樹の下に荷物を下ろし、リュイはさっそく焚き火を熾し始める。ティセはその様子を眺めながら、あることを考えていた。
焚き火の炎が勢いづいたのを見計らって、小声で言った。
「ねえ、リュイ」
リュイは焚き火の前にしゃがんだままティセを見上げた。
真面目に問う。
「……シドルを呼んでいい?」
「…………」
表情を少しも変えずにティセをじっと見るだけで、なにも返さない。束の間沈黙が流れた。
気が進まないのだと重々分かっていたが、ティセはあえて自分の考えを貫く。
「ちょっと行ってくる」
返答を待たずに、少し離れたところに荷物を下ろしたシドルのもとへ向かった。いつまでもこんな状況でいるのはおかしい、それに、シドルは本当は話をしたいのだ、無理強いだとしても、もしもその契機になるのなら、そう考えていた。
同じく焚き火の準備に取りかかろうとしているシドルへ、遠くから声をかける。
「ねえ、シドル!」
シドルはしゃがんだまま、こちらを見ずに声だけ返す。
「なんだ」
「ちょっと来てくれない?」
途端、身動きを止めた。険しい目つきをさらに険しくさせて、ティセをじっと見据える。
「……なんの用だ」
「いいから早く。来てくれたら教える」
やや間を置いたのち、シドルは大儀そうに立ち上がった。
シドルを連れて戻ると、リュイは硬い顔つきをして立っていた。シドルもまた顔つきを硬くさせて、ほとんど睨むようにリュイを見る。
同じように立ち姿の美しいふたりが近くへ立つと、ふたつの神聖な尖塔がそびえているような雰囲気を途端に漂わせる。辺りの空気を粛然とさせた気がするほどだ。ティセはつい、ふたりに見惚れてしまった。けれど、一歩歩き出したなら、シドルはわずかに右足を引き摺るのだ。とても美しい尖塔なのに、どうにもならない哀しい瑕疵を抱えているようで、それを思うとティセは苦しいほどやるせなくなる。
穏便に事を進めるため、ティセはなんでもないことのようにふたりへ提案する。
「ねえ、せっかくなんだからさ、一緒に夕飯食べたらいいんじゃないの。私、三人分作るからさ、そうしようよ」
ふたりとも目元をぴくりとさせただけで、なにも返さない。シンと静まりかえる。
ティセはシドルを向き、
「そうしない? 言っとくけど、私の作る飯めちゃくちゃ美味いよ。これでもいちおう料理人だからね」
得意げに笑んでみせる。が、シドルはうるさそうに、
「放っておけ、莫迦」
次はリュイを向き、
「どう?」
硬い表情のまま黙っていたが、そのうちぽつりと先日と同じように返した。
「……好きにすればいい」
すると、シドルは嘲笑うように口角を上げ、
「この女の言いなりか」
リュイはほんのわずかにだが顔つきをむっとさせる。ティセも少々むっとした。
「見ていりゃ、いつでもそうだ。……犬か、おまえ」
さらに嘲笑を深めた。リュイは不愉快そうに唇を硬くする。
確かにリュイは従順であるがひどい言い草だ、ティセは咎めるように、
「そういうこと言うなよ、シドル! ……とにかく、せっかくだから一緒に夕飯食べようよ、いいだろ?」
ふたりは返事をせずに、無言のままティセの提案を受け入れた。
西日を受けながら、馬鈴薯とヒヨコ豆の煮込みを作る。素朴でありきたりな食材でも、香辛料の配分はお手の物だ。焚き火にかけた小鍋の前にしゃがみ込み、ティセは鼻唄を歌いつつ幾つかの小袋から香辛料を取り出して加えていく。
後ろでは、リュイとシドルが押し黙って座している。ふたりとも本を手にしているが、互いを意識してほとんど読めていないのか、読書をしているときとはどこか違う重苦しい雰囲気を漂わせている。厭な空気を背後にひしひしと感じるほど、ティセの鼻唄は負けまいと朗らかに抑揚をつけていく。
西の空が紅紫に染まったころ煮込みは完成した。
「でーきたっ! さあさあ、本は終わりだ」
各々のアルミの湯呑みに取り分ける。不自然に間を空けた車座になって、平パンとともにそれを食す。こんな野外での煮炊きとしては、煮込みの完成度は充分に高かった。が、夕食の席を支配しているのは、やはり重苦しい沈黙だ。
沈黙をかなぐり乱し、ティセはぶすっとした口調で感想を強要する。
「ねえ、美味いの?」
リュイは湯呑みに目を向けたまま、
「ん……」
いつもの鼻音で返す。ちらりとシドルを見遣れば、機嫌の悪そうな目をしながらもコクリとうなずいた。会話は続かず、ふたたび静まりかえる。ふたりの男は目も合わさない。
「…………」
無言劇にもなりゃしない……心のなかで盛大に溜め息をついた。
自分がいるから話しづらいのかもしれない、そう考えてティセは食後すぐに立ち上がった。
「洗いものしてくるから、それ貸して」
全員の湯呑みと小鍋などを持って、近くを流れる小川へひとり向かった。少しでも多く話せるようにと、故意にのんびりと洗った。
辺りはすっかりと闇に包まれた。洗い終えて戻ってみれば、赤々と燃える焚き火を挟んで、リュイとシドルはうつむき加減で静かに座していた。どう見てもなにかを話した様子はない。ティセが席を外したときから時間が止まっているかのように、姿勢も、膝に置いた手の位置も、重苦しい雰囲気も、なにひとつ変わっていなかった。なんだよもう……ティセは本当に溜め息をついた。
憮然と立ったまま、ふたりへぼそりと告げる。
「……ねえ……おまえたち、友達なんじゃないの……?」
途端、ふたりともあからさまに顔をしかめた。
シドルはこれ以上ないほど莫迦にしきった笑みを過ぎらせて、言い放つ。
「なんの冗談だ? この腰抜けと友達だったら、俺は自殺する」
リュイは表情を少しも変えない。が、先ほどよりもずっとひどい言い草に、ティセはカッとした。思わず、シドルの頭を拳で軽くゴツリと打った。
さして痛くはないはずだ、ただ鬱陶しげにティセを見上げ、
「なんだ、おまえ!」
「リュイに謝れ!」
「事実だ」
「謝れ!」
頑として言えば、
「ティセ、やめろ」
リュイが沈着ながらも強い口調で制したので、ティセは渋々と引き下がった。
三人を包む空気がなおいっそう重苦しさを増した。けれど、こうなって初めて、リュイとシドルは目を合わせた。シドルはやや顎を上げ、見下すようにリュイを見て、
「異存があるか?」
あるはずがないと、言外に断言した。
おもむろに瞬きをひとつして、リュイは答える。
「そのとおりだと思う。…………なにを言われても僕はかまわない」
あっさり認めれば、シドルはかえって苦々しげに口元を歪めた。
ティセは、かつてセレイの友人たちから聞いた言葉を思い出す。軍隊から逃げるのは腰抜けのすることだ――――……やはり、リュイ自身もそんな気持ちを持っているのかもしれない。
焚き火が大きく爆ぜて、火の粉が派手に舞い散った。シドルはもういちどティセを見上げて、今度は落ち着いた様子で諭すように言う。
「ひとつ言っておく。ハジャプートの間には同志という意識はあっても、友達という意識はない。だから、俺とこいつが友達だったことはない」
リュイも静かにうなずいていた。
以前リュイが過去を打ち明けてくれたとき、確かに同じようなことをティセは聞いていた。友達という意識ではなく同志という意識でいるが、リュイは周りに馴染めず、同志とみなされていないようだったと話していた。
しかし、普通に育ったティセにとっては、「友達」がどういうものかはよく分かっても「同志」とはどんなものなのか、なにがどう違うのか、その感覚がよく分からなかった。正直なところいまだに分からない、だからこそ、つい友達という言葉を使ってしまったのだ。
「…………」
ティセは黙ってうつむいた。
またも静けさに包まれる。タヌキかなにかの小動物が、辺りの繁みをガサガサと駆け抜けていった。その音がやけに大きく耳に響く。三人は赤々と燃える炎に顔や衣服を染めて、しばらくじっとしていた。
そのうち、シドルがゆっくりと腕を伸ばして、新たな薪を火にくべた。炎が大きく揺らめき、各々の顔や衣服の陰影が描き直される。シドルはリュイへ目を向けた。ひどく忌々しげな眼差しだ。
「なにを言われてもかまわない……か」
リュイは静かに目を上げる。冷たく落ち着いた瞳を見据えて、シドルは地を這うような低声で、
「相変わらずだな、おまえは……。嗤われても見下されても、屁とも思いやしねえ…………本当に胸くその悪い野郎だ……」
まさに吐き気を堪えているような渋面で言った。
リュイは冷ややかに黙していたが、やがて、やや呆れているような口調で、
「……きみはいつから、そんな言葉遣いをしているんだ」
窘め半分、問いかけ半分に返した。
突如、シドルは様子を変えた。苦汁を溜め込んだ目を見開き、にわかに噴き上げた激情に突き動かされてでもいるように、かすかに震え始める。ぎしりと音が聞こえるほど強く、両手を握り締めた。リュイの発言のなにかが、シドルのなかで静かに燃えていた熾火に注ぐ油となったのか…………たちまち全身に怒りを滲ませる。ティセは、そしてリュイも、はっと息を呑む。
「……いつからだと? 決まっているだろう!」
耐えがたいものに突き上げられているように、シドルは見るまに興奮を増していく。鼻のつけ根を深く皺め、額の静脈を浮かび上がらせる。声を荒らげて、
「おい! 奴らと過ごした二年半…………どんな思いで生きてきたか……おまえは想像してみたことがあるか……?」
怒りにまみれた瞳をまっすぐに捉えながら、リュイは狼狽えたように黙した。のち、シドルの怒声とは正反対の小声で答える。
「……少しは……」
「ならば分かるだろう!? おまえをどれほど憎んでいるか…………」
刃のごとく鋭い目で射殺すようにリュイを睨む。リュイは息を詰めたようになって全身を硬くする。ひとしきり睨むと、内側で燃えている怒りの炎がいよいよ火柱となったのか、シドルは大きく一度、巨躯を震わせた。そして、いきなり立ち上がった。瞬間、ティセは厭な予感に貫かれる。
「やはり、おまえは殺す!」
叫ぶと同時に、長剣を抜く。弾かれたようにリュイも立ち上がり、剣の柄に手をかける。
我を忘れるほど慌てたティセは、咄嗟にふたりの間に飛び込んだ。シドルを見上げ、
「なにやってんだよ! シドル!」
リュイは血相を変えて、
「ティセ!! どけ!」
シドルはさも鬱陶しげに、
「どけ! 邪魔だ!!」
「どいて! ティセ、早く!!」
声を逸らせた。
ティセはどかない。抜刀したシドルの放つ恐ろしい気魄を真正面にして、足が凍りついていたのも事実だが、そうでなくとも決してどかない、そんな意志をもって立ち向かう。
束の間、緊迫が支配した。シドルは氷の温度でティセを見下ろして、言い放つ。
「ならば、おまえも殺す!」
左下から斜め上へと、剣を走らせる。わずかな予感をも与えさせない、一切の無駄のない動きで。ティセは、はっとすることさえもできなかった。その背後で、リュイは声を失っていた。
切っ先はティセの左上辺りでぴたりと静止した。焚き火の灯りを受けて、刃は茜色にきらめいた。時が止まったように静まりきった。
静寂のなか、ティセの胴着のいちばん上の釦がポンと弾けたように飛び、音もなく草間に落ちた。シドルが斬ったのは、それだけだ。
リュイは目を見開いてティセに駆け寄った。放心して立ちつくすティセの顔と、衣服に出血の跡がないことをただちに確認する。安堵に目元を震わせて、のち、度を超した衝撃のためか、がっくりと項垂れた。
シドルはそんなふたりを冷ややかに見下ろしていた。やがて、にやりと口角を上げ、
「冗談だ。ばーか」
言い捨てて背を向け、荷物のあるほうへ歩き始める。
と、リュイが顔を上げた。
「シドル……」
ティセは耳を疑った。いままでに聞いたことのない、怒りに打ち震えた声だった。シドルはそれを聞き、ぴたりと足を止めて振り返る。
リュイは上目遣いになり、声音と同じだけ怒りに満ちた眼差しでシドルを突き刺すように見る。弓なりの眉も唇も、かすかに震えている。かつて孤児だという嘘が露見した際に見た、冷たい水が音を立てて凍りついていくような冴え渡る怒りではない。暗緑の瞳のなかに、青白い焔が燃えていた。こんな怒りの表情を、ティセは初めて見た。暴漢に襲われたあのときも、リュイはこんな表情をしていたのかもしれない。
シドルは甚だ意外そうに、目を見開いてリュイを見つめていた。それからふたたび、ゆっくりと皮肉めいた笑みを過ぎらせた。
「おまえにも、そんな顔ができるんだな……」
どこか満足そうな顔をして、闇に紛れていった。
ティセはようやく人心地をつけた。はあぁぁ……と長い溜め息をつき、
「びっくりしたぁ……」
その横で、リュイは力が抜けたように頽れてしゃがみ込む。
「リュイ?」
疲れ切った声で、リュイは訴える。
「……ティセ……無茶をしないで……。心臓が止まったかと思った……」
「ご、ごめん……」
「もしも、シドルが本気なら…………僕はおまえを助けてやれない」
下を向いたまま、つぶやくように言う。
「……僕は、シドルには敵わない……」
「…………」
シドルの去っていった闇の向こうを、ティセはじっと見つめた。
……シドルはそんなに腕が立つの……
心のなかでつぶやくと、右足を心持ち引き摺りながら闇に紛れて行ったその切ない後ろ姿が、鮮明にまぶたに浮かんだ。
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