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解放者たち 第二部  作者: habibinskii
第四章
27/71

5

 翌日もまた、ふたりの少し後ろをシドルは歩く。大きな声を上げれば耳に届くくらいの間隔だ。ヌワラバードまでの旅の行程は同じであるし、もはやほとんど一緒に歩いているようなものなのに、リュイもシドルも歩み寄る様子を見せない。ティセはふたりの間を行き来するような形で過ごしていた。


 やはりシドルには、訓練生時代やハジャプートについて口にしたくないという気持ちは微塵もないようだ。こちらから触れなくとも、たとえばティセが初等部や中等部時代のあれこれを自ら話すように、自然に口にした。

 リュイが触れたがらない、そして触れることがためらわれる訓練生時代のことを、ティセはシドルからたくさん聞いた。施設での集団生活の様子、過酷極まる鍛錬や訓練、習い修めたさまざまな教科について…………たまに訪れる休暇の過ごしかたや、遠地で行われた演習旅行の記憶など、シドルは横柄な口調で淡々と話してくれた。ティセにはひどく興味深く、いくら聞いても飽きなかった。とくに、世間とはかけ離れた集団生活の様子がとてつもなくおもしろかった。


「なんでもきっちり時間厳守なんだ! きついなー」

 感慨たっぷりに声を上げれば、

「無駄な動作をする時間はない、それが当たりまえに身に付くようになっている」

「あ、そっか!」

「そわそわしていれば品格がないと言って張り飛ばされた」

 リュイもシドルも無駄な身振りが極端に少ないのはそういうことか、ティセはおおいに納得する。かつて、衝撃の昼飯事件で見たリュイの食事の仕方が、鮮やかに目によみがえる。


 施設では六人部屋が与えられ、定期的に組替えが行われていた。偶然なのか故意なのか、リュイとは同室になることが多く、どの同期生よりも長く寝起きをともにしていたとシドルは言った。

 不思議なことに、シドルの話がリュイに及んだのは、そのことについてだけだった。不自然なまでにリュイには触れない。昨日の自分の様子を見て胸中を忖度してくれたのだろうかと、ティセは考えた。が、リュイの後ろ姿に向ける複雑な眼差しを思えば、すぐに違うと気づいた。訓練生時代を平気で口にできるシドルが触れがたいのは、それこそリュイなのだろう。本心では話をしたいのに、こうして距離を保ったままでいるのは、そんな気持ちによるのかもしれない。


 どちらにせよ、シドルがリュイの話をしないのは、ティセにとっても気が助かる。しかし、いつまでこうしているのだろうか…………ふたりが話をする時機が早く訪れることを、ティセは願った。











 昼は小川のほとりの木陰で休憩を取った。朝のうちに買っておいた、つぶしたそら豆を包んだ平パンで簡単に昼食を済ます。リュイが読書を始めたので、ティセはまたシドルのところへ遊びに行った。すぐ近くの祠のそばで同じように休憩を取っているのだった。

 シドルは小川の縁に胡座を組み、水際へじっと目を向けていた。


「シドル、なにやってんの?」


 気安く背中に声をかけると、身じろぎもせずに、


「静かにしろ」


 言葉どおり静かに、かつ鋭く返した。

 言われたとおりそっと近寄って、息を潜めて背後からシドルの様子を覗き込んだ。広くて厚い肩ごしに、画帖と鉛筆が見えた。絵を描いているのだ。あまりに意外で、ティセは目を見開いて画帖の絵を凝視する。

 両の手のひらを合わせたほどの大きさの紙面に、繊細な筆致でもって描かれているのは、小川の縁に生える草に止まった小さな蟷螂(カマキリ)だった。


「おまえ……絵を描くの……?」


 思わず、溜め息の交じった声を出した。

 シドルは鉛筆の先と蟷螂に集中したまま、


「暇つぶしだ」


 言葉少なに返す。けれど、手持ちぶさたに戯れで描いているのでないことは、その真剣な眼差しを見れば瞭然だ。

 ティセは驚きと感心のあまり呆然としてしまう。いつから、どうして、ほかにはどんなものを描いているの…………尋ねてみたいことが噴き上げて、にわかに胸をいっぱいにした。が、その張りつめた眼差しの邪魔をしないよう、できるかぎり気配を消して、息を凝らし肩越しに眺めていた。


 大きな手のなかの鉛筆はことのほかか細く見える。少し力を加えればぽきりと折れてしまいそうだ。けれど、シドルの手は加減を心得ている。やわらかくそれを包み、決して広くはない紙の上を舞うように自在に筆を走らせる。蜘蛛の糸さながらの細くも強い、かつ優美な線を筆の先から紡ぎ出していく。まさに、透明な糸を吐く蜘蛛のように。

 紙の上の蟷螂はじつに写実的に描かれている。後肢は見事な跳躍を約束させており、三角形の頭と前肢の鎌、そこに用意された棘は凶暴さと剽悍さを実物と同じだけ感じさせた。膨らんだ腹部の微妙な曲線は、思わず指でなぞりたくなるくらい婀娜(あだ)めいていた。いまにも紙の上から浮き出して、ゆらりと鎌を上げ、獲物へと襲いかかるかに思えた。

 力強さしか感じられない大きな手と、嘘のように軽やかに舞う筆の先、描き出される線の美しさに、ティセは我を忘れて見惚れていた。小川のせせらぎよりも小さな、紙の上を筆が走るシュ、シュ……というかすかな音だけが耳に届いていた。


 仕上げの一線を紡ぎ出した、次の瞬間、草の上の蟷螂は小首を傾げるみたいにぴくりと動いた。まるで、さあ描き終えましたね、とでも告げるかのようにだ。そして、ふっと跳躍し、生い茂る草間に紛れていった。


 緊張が途切れ、シドルを包む空気が急にやわらいだ。ふうと溜め息をつき、両肩を軽く上下させる。ティセは胸のなかをいっぱいにしたまま、

「ねえシドル、もし厭じゃなかったら、それ見せてくれない?」

 背後に立つティセをちらりと見上げ、シドルはさもつまらなそうに言う。

「ただの落描きだ、勝手にしろ」

 居ても立ってもいられない気持ちで、シドルの隣に腰を下ろした。画帖を受け取り、最初の一枚からじっくりと眺め見る。


 一枚一枚にひとつの題材が描かれていた。天道虫、スミレ、蜻蛉、蛇苺の実、イナゴ、福寿草の花、蓮華、松毬(まつぼっくり)…………そんなものが、蟷螂と同じ繊細な筆致で写実されていた。誰が見てもよく描けていると言うはずだ、ティセは心からそう思った。


「シドルすごいな! めちゃくちゃ巧いじゃん!」


 フンと、どうでもよさそうにシドルは返す。ティセは一心になって一枚一枚を丹念に眺めていく。すぐにあることに気がついた。シドルの選ぶ題材は、必ずや小さなものなのだ。どれもが手のひらにすっぽり収まって余りある、小さくて健気なものたちだった。趣きのある風景や、馬や猫といった美しい生きもの、まして人間など一枚も描かれてはいない。

 途端、ティセは胸のなかに、花を踏むなと言われたときのように、もういちど風が吹いた気がした。余計なものをすべて吹き払っていったあの突風とはまた別の風だ。朝、空が白み出すころに漂う、すべてを新しくさせるような力を持った風が、身体の奥からぐんと圧し上がるように吹いたのだ。


 …………シドル…………


 次の一枚をめくる、ティセは目を見開いた。先日ティセが踏み付けそうになったあの小花が、そこに可憐に咲いていた。


「あ! ねえ、この花……」


 顔を見て問えば、シドルは画帖を横目にして、


「ああ……庭石菖(にわぜきしょう)というそうだ」

「庭石菖……」


 よく見かける花ではあるが、名もなき花……雑草の類という認識しかなかった。ティセは初めてその名を知った。紙面の花に色はなくとも、まぶたの裏に焼きついた花の色がよみがえり、ティセの目には明るい黄色の中心部と、白地に薄紫の絵筆でなぞったような繊細な花弁の色が見えていた。


「シドル、花に詳しいの?」

「いや、ほとんど知らない」


 リュイが秋桜(コスモス)の名さえ知らなかったように、シドルも詳しくはないのだろう。


「……これ、好きなの?」


 シドルは答えを返さず、ただ曖昧に微笑んだ。やっぱり好きなんだ…………言葉を返されるよりもかえってはっきりと分かり、はにかむようなその反応の仕方にティセはなんだか切なくなった。


「前にな、あるへなちょこ下士官が教えてくれて、これだけは覚えている」

「そう……庭石菖か……きれいな花だよね」


 シドルはふと、小川の向こうを見て目を遠くする。にわかに真顔に戻った。

 小川はしゃらしゃらと清らかな音を立てて流れている。川面には日差しが反射してきらきらと瞬き、その輝きのなかを小さな魚がすり抜けるように泳いでいく。真夏の川辺にそよぐ涼風に包まれて、ふたりは長いこと黙していた。


 シドルは小さなものたちに惹かれ、その健気さをそっと掬い上げるようにして描いている。ややもすれば壊してしまいそうに力強く大きな手で、信じられないくらいに優しく掬い上げ、紙の上に健気さを写し出す。かつて、銃や剣を握っていたその手で、絵筆を握る。ティセは胸が締めつけられるほど切ない思いに囚われた。


 庭石菖の頁を開いたまま、胸のなかから溢れくる熱いものを感じていた。圧し上がるように吹いた風に促されて、それは溢れ出した。火傷するほどには熱くない。けれど、それをずっと抱きしめていれば、身体の内側からじわじわとティセを熱傷させていく確かな温度を持っている。

 まだなにも知らないティセは、そうしたいと意識して望むこともない代わりに怖れることもなく、胸のなかの熱いものをひたすらに見つめる。そして、両腕で包み込むように、無意識に抱きしめる。


 熱に浮かされたような瞳で、隣に座るシドルの横顔をそっと窺った。遠い日を思っているみたいな眼差しで川向こうの木立を眺めている。この切ない思いをどう言い表せばいいのか、ティセにはまるで分からない。ただ途方に暮れるほど、シドルを恰好いいと感じていた。













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