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空が雲に覆われるころ、小さな町に到着した。町の中心部を行くと宿の看板がいくつか目に入った。適当に宿を定めて、帳場で宿泊台帳に署名をする。部屋は二階の個室だという。帳場の横の階段を上がりかけると、シドルが戸口に姿を見せた。ティセは階段の手摺りにかけた手をぴくりとさせる。
ほかにも宿はあったのに………
そんなことはない、と言ったのは本心なのだ、本当はリュイと話をしたいのだ。ティセはようやく納得した。ゆっくりと階段を上がりながら、リュイも戸口のほうを見ていた。
安宿にありがちな硬い布団にごろりと仰向けになり、ティセは一日を振り返っていた。シドルとたくさん話をした、その一部始終を思い返す。旅の道筋や立ち寄った景勝地、町の様子、そこであった珍騒動、名物料理…………ティセの好奇心を刺激してやまない旅の話だ。にも拘わらず、いまこうして思い出しているのは話の内容ではなく、シドルの不敵な面構え、険しい眼差し、角のある声音、堂々たる立ち姿や物腰、そういったものばかりだった。胸のなかの余計なものをすべて吹き払っていった風を起こした、あのひとことを思い出せば、震えるように咲いていた小さな花が鮮やかにまぶたに浮かぶ。中心は黄色く、白地を薄紫の絵筆でなぞったような繊細な花びらをしていた。
誰も目に留めないような、美しいけれど微々たる花をシドルは守る……。ティセは天井を見上げたまま、吐息を漏らした。熱に浮かされたときのように、頭の奥がぼんやりとしていた。
読書をしていたリュイが本を閉じ、荷物のなかから短剣を取り出した。そろそろ就寝だ、ティセは仰向いていた身体を反転させて今度は俯せになり、肘を立ててリュイに顔を向けた。
「ねえリュイ」
「なに?」
リュイは短剣を片手に、敷き布団の上に腰を下ろす。
「あいつ……初め会ったときはとんでもなく厭なやつだと思ったけど…………全然そんなことないな」
「…………」
「あんな偉そうで失礼なやつ初めて会ったよ……でも、なかなか悪くないみたいだ」
リュイはなにも返さず、ティセを見ている。
「正直ね、出会ったばかりのころのおまえよりは、ずうっと喋りやすいよ」
「…………」
黙り続けるリュイに、ティセは遠慮気味に問うてみる。
「おまえ…………シドルと話をしたくないの?」
リュイは困惑を瞳に浮かべ、うつむき加減になって目を逸らした。無言の肯定のつもりなのか、沈黙し続ける。無理もない……とは思いながらも、シドルのほうは話をしたがっているようだと伝えてみよう、ティセはそう思った。
が、口を開く前に、リュイは伏し目のまま小さく返した。
「……いまのシドルは……僕の知っているシドルじゃない……」
「え……」
ティセは目を見開いて、うつむくリュイを見据えた。
「まるで違う…………態度も、顔つきも……言葉遣いも……僕の知っているシドルとはまるで違う……」
「……そうなの……?」
いよいよ困惑し切ったように、わずかに眉を寄せて、
「……どう話をすればいいか、分からない……」
それきり、リュイは話を打ち切った。横になり、短剣を抱いて毛布をかぶると、
「おやすみ」
静かに告げた。
向こうに顔を向けて横たわったリュイを、ティセは暫し見つめていた。ほどなく静かな寝息を立て始めた。起こさないようそっと立ち上がり、ランプの灯りを消して自分も横になる。
闇に覆われた天井を漫然と見上げながら、ティセは考える。先ほどから頭のなかをいっぱいにしている、いまのシドルではないシドルは、どんなひとだったというのだろう。どんなことが、いまのシドルへと変えたのか…………。リュイの後ろ姿に向けていた、あの複雑な眼差しがまぶたに過ぎる。ふたりの間には、なにがあったのだろう――――……。
……知りたい……シドルを知りたい……
ティセは目をきつく閉じた。
明日もシドルは、言い尽くしようのない眼差しをリュイの後ろ姿に向けるのだろうか。今日いちども微笑みを見せなかった、リュイの後ろ姿に…………。
きららかな朝の日差しが差し込む一階の食堂へ降りると、戸口に一等近い席でシドルが食事を取っていた。ティセが片手を軽く上げるだけの挨拶をすれば、シドルはほんのわずかにうなずいてみせた。リュイはやはり目を合わさず、シドルから遠い階段に近い席へ座った。
ふたりが出発すると、やや遅れてシドルも往来へ出た。大きな声を出せば耳に届く程度の間隔を保ちながら、三人は同じ道を行く。なんと奇妙なことになったのかと、ティセは心から思う。
集落を過ぎて、道は林のなかの一本道となった。響き渡る小鳥のさえずりと、猿の鳴き声がときおり聞こえるくらいで、人の気配はまったくない。ふたりはなにも話さずにただ歩いている。今日もまた、リュイは気楽に会話ができるような心中ではないのだと、ティセは張りつめたようなその横顔を見て了解した。
歩きながら背中のほうへ腕を回し、頭陀袋のいちばん上に入れていた紙袋を取り出した。うっすらと油の滲むその袋には揚げ菓子が入っている。リュイへ差し出して、
「ほら、食べる?」
「……ありがとう」
長い指でそっとそれを摘んだ。
ゆっくりと口にすれば、翳を濃くした暗緑の瞳が少しだけ和らいで、ほのかなぬくもりに似た情緒が滲む。ティセはそれを見て、ほっと息をつくような思いがした。すっかり笑わなくなってしまったけれど、ティセの大好きなこの表情をするのなら、リュイは大丈夫だ、そう思えた。
自分もひとつ、と揚げ菓子を摘みかけて思いつく。
「そうだ、あいつも食べるかな?」
ちょっと行ってくる、と言い残し、ティセはシドルのもとへ向かった。
小走りに駆け寄ってくるティセを目に留めても、シドルはもう怪訝な顔を向けず、かといって愛想を見せるわけでもなく、淡々と来訪を受け入れた。
ティセは「よっ!」と友人のように言って、
「シドル、揚げ菓子食べる?」
紙袋を差し出した。すると「お?」というふうに目元をぴくりとさせて、
「いただく」
遠慮なく腕を伸ばして摘み取る。続いてティセも摘む。
揚げ菓子は子供の拳ほどもある大きさなのに、大きなシドルが摘むと、自分の摘んでいるものと同じ大きさとはとても思えない。もっとずっと小さく見える。けれどそれを口元へ運べば、顔の小ささによりやはり自分の揚げ菓子と同じものに見えた。シドルはゆっくりと、それを口にする。
ティセははっとした。刺々しさに満ちた鳶色の瞳がその険しさをふうっと緩め、にわかに潤びてやわらかみを帯びたのだ。思わずその瞳を見つめた、それから急激に嬉しくなって、つい口角を上げた。
「なんだ?」
にやにやと笑いながら、
「おまえ……揚げ菓子の食べかたがリュイとそっくりだ」
「…………」
シドルはひどく厭そうな顔をした。
ふたりは揚げ菓子を口にしつつ並んで歩く。
「あんな澄ました顔してるくせに、意外にもリュイは甘いものが大好きなんだ。おまえも好きなんだろ、甘いもの」
シドルはティセの手にする紙袋へふたたび手を伸ばし、分かっているならもうひとつくれてもいいだろうとばかりに、ふたつめの揚げ菓子を勝手に摘み上げた。その態度を、ティセは好ましく感じた。まるで、とても仲のいい友人との間にみられるような許されるべき無遠慮さに思えたのだ。
ふたつめを一口囓れば、シドルの瞳はふたたびぬくもりを灯す。
「甘いものが好きなのは、なにも俺やあいつに限ったことじゃない。ハジャプートは誰も皆そうだ」
「そうなの!?」
「軍隊というところの食事は、甘いものが滅多に支給されないんだ。甘いものは精神を堕落させると、莫迦莫迦しいことが本気で信じられている。だから、長くいればいるほど甘いものが恋しくなって甘党になる」
「そうだったのか!」
「一般徴集された兵士も同様だ。兵役中は甘いものに目がなくなって、甘い菓子が賭けごとの賞品になることすらあるという」
「へええ!」
ティセは目をぱちぱちさせてシドルを見上げる。
「知らなかった! 興味深いなあ。でも……」
甘いものを口にして思わず笑顔になるのではなく、同じように情緒だけを滲ませたふたりの瞳を思い、
「いくら甘党だからって、そんなしみじみした瞳をして食べるひと見たことないよ、そっくりだ!」
シシシと笑う。シドルはやはり厭そうな顔になりつつも、こう返す。
「…………同じように育てられたのだから、ハジャプートは誰も皆似ている部分があるだろう。あいつと似ていると言われるのは甚だ不本意だがな……」
あいつ……とリュイの後ろ姿をじっと見据えた。
昨日シドルと話をした際、意図的に過去のことには触れなかった。リュイがそうであるように、シドルもまた訓練生時代やハジャプートのことを話したがらないかもしれないと考えたからだ。けれど、それは思い過ごしだったようだ。加害者意識を持つリュイとは違い、シドルには触れたくないという気持ちはないのかもしれないと、ティセは気づいた。
確かにふたりは似ているところがあった。姿勢の正しさや美しい立ち姿、無駄のない最小限の身振り…………以前ほどではないにしても、リュイの纏う張りつめた雰囲気とよく似たそれをシドルも纏っている。ティセは知らないが、昔のリュイはもっと横柄な印象を周囲に与える子供だったとセレイは話していた。シドルと同じような尊大さを、昔のリュイも少なからず持っていたのだろう。
ティセは昨夜のリュイの言葉を思い出した。
やや伏し目になって、つぶやくように言う。
「……リュイが言ってた。いまのおまえは自分の知ってるシドルじゃないって……」
シドルはにわかに眼差しを厳しくさせる。重たげに黙したのち、
「……そうだろうな、適切な判断だ」
一段と低く濁った声で返した。そして、ますます厳しい目つきになって、
「……あいつは、あのころとほとんど変わらない……」
憎々しげに言った。
ティセは顔を上げ、沈着に反論する。
「そんなことない。リュイは初めて会ったときから別人みたいに変わったよ。普段はあんなじゃない、もっと明るいし穏やかな顔してるんだ」
シドルは冷ややかにティセを見下ろしている。
「ほんとだよ。でも……」
「でも、なんだ」
言いづらさに、一瞬だけ唇を噛んでから、
「……おまえと会ってからすっかり笑わなくなって、おとなしくなっちゃった……。昔のリュイに戻ったみたいになっちゃったよ……」
「…………」
なにか考えているふうに間を置いた。それから莫迦にするように、フッと失笑した。
「分かった。おまえに聞かれたくないことを、俺がペラペラ喋るんじゃないかと警戒して御機嫌斜め、というわけだ」
嘲笑を鋭く過ぎらせる。
ティセは胸の内側がさっと冷たくなった気がした。シドルの言を言い換えれば、もしも聞かれたくないことをシドルが話し出せば、なにもためらわずにティセは聞くだろう…………そういう意味になる。まるで、リュイが自分を疑っているように聞こえたのだ。
まさかそんな疑いを持つはずがない。そんな心の浅い人間だと思われているわけがない。自分たちはこのうえない相棒なのだから……。ティセは胸のなかで強く繰り返す。が、その疑いを完全に打ち消すことはできなかった。打ち消してしまえない自分がひどく情けなくて、猛烈に嫌気が込み上げた。もしそれが考え過ぎであるならば、それはそれでリュイに対する裏切りのようだ…………ジクジクとした思いが胸の奥いっぱいに広がり、自分に対する情けなさと悔しさで目に涙が滲んでくる。それを堪えながら、ぶつぶつと文句を言うようにシドルへ返す。
「リュイが聞かれたくないと思うようなことを、おまえから聞いてしまおうなんて…………そんなこと、私は少しも思ってないよ!」
シドルははっと口をつぐんだようになり、憤りの眼差しを前方に向けるティセをじっと見据えた。その強い眼差しに滲む、まっすぐな気性と愚直なまでの誠実さに心を打たれているかのように長く。
ふいに、シドルは意味深げに笑んだ。そして声音から角をなくし、やわらかくも嬲るように囁いた。
「けれど、俺がもしもあいつの過去を話し始めたら、どうだ? おまえはやめろと言えるのか? 聞かないと耳を塞げるか? そうは言いつつ、耳をそばだてて聞くんじゃないのか?」
瞬間、ティセはしなやかな枝で心を叩かれた気がした。なかば呆然として、シドルを見上げる。見開いた目がかすかにわななき、唇は固まっていた。
「…………」
返す言葉が出なかった。シドルはそんなティセを、ふたたびじっと見据えた。のち、満足そうに微笑んだ。
「それでいい。俺は嘘つきと偽善者は、大嫌いだ」
微笑んだまま、リュイの後ろ姿に目を向けた。
ティセは叱られた子供のように神妙になってうつむいた。リュイの後ろ姿を、とても目に入れられない。叩かれた心は深深としていた。
……シドルの言うとおりかもしれない……
リュイの厭がることをしたくない――――もう長いこと抱いている信念は、しかし裏を返せば、自分を押し留めるための単なる重しや鎖なのかもしれない。信念などと呼べるような高尚なものではなく、湧き出してくる欲求から浮薄な心を守るための言い訳に過ぎないのかもしれない。やはり自分はリュイの過去を知りたいのだ、十四のころとなにも変わらずに…………。
内側を曝かれたようで、ティセは非常な恥ずかしさを覚えた。とともに、自分で気づいていたよりもまたひとつ多くの、醜い痣にも似た汚れた部分がこの胸のなかにあるのだと知った。
けれど、シドルはそれでいいと、難なく肯定し微笑する。見下げもせず嘲笑いもせず、かといって見過ごすこともせずに、ただ肯定をする。尊大さに隠された、シドルの深いところを突き通すまっすぐなものを、ティセはいま垣間見たように感じていた。
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