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リュイは顔に疑問符を浮かべたまま、若者を見つめ返している。と、今度は嘲るように言う。
「……まさか、俺が分からないのか!? 腰抜け脱走兵が!」
途端、リュイは顔中を凍てつかせ全身を硬くした。目に見えて息を呑んだ。ふたりの男の間に、緊張の糸が見るまに張られていく。
ティセは小声でリュイへ、
「……知り合いなの?」
リュイは答えない。うっすらと嘲笑を浮かべる若者を、強張った目で見ているだけだ。
緊迫した沈黙が続く。
押し黙ったリュイと、戸惑いを表すティセの様子がよほどおもしろ可笑しいのか、若者は挑発するかのように嘲笑を深め、
「知り合いかどうか、この女に教えてやれよ」
リュイは目元に忌ま忌ましさを過ぎらせる。が、伏し目になって、つぶやくようにティセの問いに答える。
「……同期生だ」
「え……!?」
訓練生時代の同期生だ。ティセは驚愕し、瞠目して若者を見た。ニヤニヤと厭味を満載したように微笑している。ふいにその笑みを収めると、冷ややかな真顔になり、
「おまえ、いまどうしているんだ?」
束の間置いて、リュイは同じことを返す。
「……きみこそ……」
しかし、その答えを待たず、リュイは急に歩き始めた。まるで、逃げるかのように。
「あ! ちょっとリュイ……?」
慌てて声をかけたが、足を止める様子はない。どうしたものか、ティセは呆然とする。
若者はリュイの後ろ姿をひとしきり睨んだのち、
「おまえたち、何故一緒にいるんだ?」
ティセは怪訝そうに言うその顔を見上げて、
「春から一緒に旅してるんだ」
「旅!? あいつとか?」
ひどく驚いたように返した。
「そう」
「……どこへ?」
「ランタリア。とりあえずいまはシュウへ向かってる」
「……シュウへ……」
なにか思うことがあるように眉根を寄せた。ティセは先ほどの尋ねごとを思い出し、
「なに、おまえもラヒーマに行くつもりなの?」
ラヒーマはその日の宿泊予定地だ。
「ああ」
行き先が同じと知って、ティセはもういちど、
「ねえ、ちょっとリュイ!」
リュイは足を止めず振り返りもしない。
「とにかく、行かないと…………じゃ、また」
ラヒーマは小さな町だと聞いている。ふたたび顔を合わせる可能性が高い、ティセはそう言ってリュイを追い足早に歩き始めた。
ほどなくして、若者も歩き出す。
リュイは後ろ姿に、声をかけづらいまでに張りつめた空気を纏っている。追いついて、一歩後ろからそっと横顔を窺うと、はっとするほど翳を濃くさせていた。内側に潜む闇が、瞳や肌から滲み出しているかのようだ。これほど濃い翳を感じるのは再会してからは初めてのことだ。まるで、十五のころのリュイのようだった。冷たい雪融け水に似たその雰囲気は、ティセの胸のなかを一瞬にして冷やした。
振り返ってみれば、少し後から若者が同じ道を歩いてくる。歩きかたには、どことなくぎこちなさがあった。ティセは「あ……」と心で小さく声を上げた。ほんのわずかにだが、若者は右足を引き摺るようにして歩いているのだった。
逃げるように歩き始めたリュイ、にわかに増した翳と、雪融け水の温度。ここにいるはずのないハジャプート、さまざまな意味を込めたような鋭い微笑と、わずかに引き摺る右の足…………。
……リュイは……なにを思ってる……?
その胸中は微塵も推し量れない。ティセは黙って、リュイの後ろをそっと歩く。リュイを見つめる複雑な眼差しを背後に感じながら…………。
夕刻の風が吹くころ、ようやくラヒーマに辿り着いた。聞いていたとおりの小さな町だ。町の中心に、繁華街と呼べば語弊がありそうなささやかな商店街があるきりで、あとは田畑と民家が散在するだけだ。ふたりは宿を訪ねたが、四部屋しかない個室は埋まっていたため、相部屋に宿泊することになった。
この小さな町には、宿はおそらくここだけだろう。ティセはそれを思い、なんとも居たたまれない気持ちに襲われた。リュイも同じことを想像しているようで、困惑と厭わしさを瞳に滲ませて、相部屋の敷物の上にじっと座り込んでいる。
まもなく、部屋の扉がギイッ……と不吉な音を立てて開き、先ほどの若者が姿を見せた。――――想像が現実となった。
リュイは口元にも目元にも沈黙を表して、古くからの知り合いを冷ややかに見る。対する若者も、まるで同じ目を向けた。ティセはひやりとし、息を凝らしてふたりを見ていた。
のち、若者はにやりとし、
「相部屋しかないという話だからここへ泊まるつもりだが……厭なら厭と言え」
落ち着いた口調ながらも、挑発や蔑みを綯い交ぜにしたように言った。厭だと言えるわけもなかろうと、頭ごなしに言っているのと同じだ。
見下した態度を受けても、リュイは沈黙の表情を変えない。やや間を置いたのち、若者にまっすぐ目を向けたまま、
「……好きにすればいい」
ことのほか静かに返した。若者はさも疎ましそうに、険しい目をさらに険しくさせる。片隅に積まれた数組の布団以外なにもない殺風景な相部屋は、これ以上ないほど居心地の悪い空気に満たされた。
宿の三軒先にある食堂へ入った。一日の畑仕事を終えた数人の農夫が集い、安酒を愉しんでいる。ふたりは隅の席につき、静かに夕食を取る。
あのあと相部屋では、しばらく誰も口を開かなかった。物音ひとつしない洞窟の奥深くにでも入ったかのように、不気味に静まりかえっていた。リュイと若者は目も合わさず話もせずに、互いに知らぬ顔をしていた。けれどそのじつ、互いを甚だしく意識していることはあきらかだった。知らぬ顔をしつつも、心のなかにある目で相手の挙動を見つめ、声をかけてくる瞬間を構えて待っているようにティセには見えた。冷気に似た緊張感が部屋中に漂っていた。
ティセは疲れを覚えてくるほどに居たたまれなくなり、小声でリュイへ言った。
「ねえ、腹減ったよ。外に出よう」
リュイは無言で立ち上がり、ふたりは若者を置いて外へ出た。もしも若者が外出すれば顔を合わせてしまう宿の食堂ではなく、わざわざ三軒先の食堂に足を運んだのだ。
ティセは少しだけ目を上げて、黙々と食事を取るリュイをそっと窺った。不自然なほど冷静な顔つきをしている。先ほどからなにも話さず、また話しかけるのも憚られるような雰囲気だ。翳はいっそう濃い。
腰抜け脱走兵だと、若者は言い放った――――……。その行動と負った罪を間違いなく知っている。若者は、目を背けていたい事実をリュイの眼前に突きつける存在だ。否応なしにその闇を深くさせる。
それだけではない、普段あまり触れたがらない、居心地の悪さを感じていたという施設での長き日々をつぶさに知っているはずだ。いまリュイがなにを思っているのか少しも想像は及ばない。が、どれほど衝撃を受けて動揺しているか、それだけはティセにも分かった。
リュイにとってはつらい再会だろう。されど正直なところ、過去のリュイを知っているあの若者に、ティセは興味を引かれていた。本音を言えば、すでに話をしてみたくてたまらなくなっていた。それに、なにも話さずに相部屋に過ごすというのもおかしなはなしではないか…………そんな思いが胸に渦巻いていた。
けれど、その気持ちを思いやらずに勝手なことはできない、リュイの厭がることをしたくないという信念は、いまもティセを貫いているのだった。
始終無言の夕食で、味はおろか、腹が満たされたかどうかもよく分からなかった。居たたまれない相部屋に戻る憂鬱と、ふたりの間に繰り広げられるものに対する興味を同じだけ感じながら、ティセはリュイと宿へ戻った。
若者はひとり、敷き布団の上に胡座を組んで本を読んでいた。ちらりと目を上げただけで、すぐに本へ戻った。誰もが夕食を取り終えるようなこの時刻になってもほかに客が来ないのだから、相部屋はこのまま三人きりなのだろう。緩衝になるものはないのだと、ティセは心を構えた。
しばらく沈黙が続いていたが、やがて、若者が口火を切った。
「リュイ・スレシュ」
先ほどまでの嘲るような声音ではない、真摯さのある低声で呼びかけた。リュイは一瞬間を置いてから、静かに読書の目を上げて若者を見据える。
目を向け合うふたりは、同じほど美しく背筋を伸ばして胡座を組んでいる。まるで、気高い二匹の獣が対峙しているかに見える。その姿は粗末な部屋の侘びしい空気を見るまに清冽にさせていく。先ほどから漂っている緊張感が、いまにも弾けそうに高まった。ティセはなんとなく拳を硬くして、会話の行方を見守った。
「何故俺がこんなところにいるのか、知りたいんじゃないのか?」
目をまっすぐに捉えて問うた。リュイもまた、同じ眼差しになり、
「…………とても知りたい」
胸中を正直に告げた。
若者はどこか満足げに少しだけ口の片端を上げる。すぐに真顔に戻り先を続ける。
「昨年、軍縮したのは知っているだろう?」
「知っている……ファルギスタンと講和条約を結んだね……」
終戦については、ティセも新聞でちらりと見ていたので知っていた。
「徴兵期間が短縮されて人員が大幅に削減された。……俺はあのあと兵站部に配属されていたんだが…………信じられないことにな……」
いったん切ると、錐ほどに鋭い氷柱に似たものがその鳶色の瞳に過ぎる。
「除隊候補者の名簿に、俺の名が載っていると上官に告げられた」
リュイは目を瞠り、
「まさか!?」
ありえないとばかりに返す。その反応を予期していたのだろう、若者はまたほんのわずかに口の片端を上げてみせ、リュイに共感を表した。
「いや……真偽のほどは分からない。実際に除隊命令があったわけではないし、名簿を目にしたわけでもない。ただ……俺に対する厭がらせのために、そんなことをほのめかしてみたのかもしれない」
リュイはなにか考え込んだように、束の間視線を落とした。
「……それで?」
若者は、たとえば自棄の念を抱いた者が時として殊更偉ぶってみせるのに似たように、気持ち顎を上げ悪びれもせずに言う。
「それでなにもかもが途端に厭になった。だから…………おまえと同じ道を辿った」
――――同じ道を…………ティセは頭のなかでくり返す。それは、同じく脱走をしたという意味なのだろう……。リュイはただ黙って若者を見据えている。
「二度と戻らないつもりでシュウを出て、それからあてどなく旅をしている」
「…………」
「……おまえも、おおかたそんなところだろう? 帰れるところなんかあるはずがないんだからな」
言って、ますます深くリュイの目を見つめた。そうだろう、と真剣に問うているかのように。
リュイは無言のまま小さくうなずいた。すると、若者は微笑みを返した。その笑いかたに、ティセははっと胸を突かれた。
皮肉と哀しみが入り交じったような、いままで目にしたことのない笑みだ。笑みというよりは、むしろ歪みといったほうが近いようにも見える。帰る場所がない事実、希有な境涯から生まれるさまざまな思いが複雑に入り交じり、歪みとなって表れたかのようだった。そしてその微笑みは、じつのところ相手に向けられているのではなく、自身に向けられている。自身を揶揄するための、そんな微笑に見えた。霧のように漂う哀しみのなかに嘲りや非難を潜ませて、自身を皮肉っている。
横柄で尊大なこの若者が、見事な体躯を誇るこの若者が、こんな微笑みを浮かべるなんて…………それは、木漏れ日が揺れるように穏やかに微笑むリュイの笑いかたとはまるで違う、さながら哀しみと寂しさに傾いでいるような笑みだ。ティセは胸のなかにあるなにかを、ふっと掴み取られたような気がした。
若者は印象的な笑みをふいに収めると、凝りでも解すかのように両肩を軽く上下させた。すると、場の緊張が幾分やわらいだ。
角のある普段の声音に戻り、ふたたび見下したような態度でリュイへ問う。
「で、おまえ、この女はなんだ?」
親指を傾けて、不躾にティセを指す。
「…………」
リュイは答えない。返答に窮しているのではなく、答える必要がないとでもいうように唇を硬くした。その様子が逆に興味を引いたのか、若者はまた挑発するようににやりと笑う。リュイはますます頑なに押し黙る。
不穏な空気が漂い始めたので、ティセは割って入る。
「この女じゃないよ。ティセ……ティセ・ビハールだ。リュイとは三年くらい前から友達なんだ」
若者はティセを向き、呆れたような声で、
「……トモダチ……?」
フン、と今度は尊大さに釣り合う小莫迦にしきった態度で笑った。
――――帰る場所がないのはリュイだけではない――――…………同じ境遇にいて、けれども違う道を歩んでいるこの若者は、その胸にいったいどんなものを抱えているのだろう…………ティセはそんな思いでもって、若者をじっと見つめた。
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