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「愛してる……」
湿り気を帯びた熱い囁きに、女は恍惚とした涙声を返す。
「あたしも……」
男女はぴたりと並んで座ったまま、どんな天変地異が起きようとも決して離しはしない、とでも言わんばかりにきつく抱き合っている。ふたりの身体の間に少しでも隙間を作るものかと必死に見える。顔を極度に寄せ合い、互いの瞳を眼前に見つめ合う。まるで、瞳を繋ぐ見えない糸がぴんと張りつめ、強く引き合っているように。静かに、熱く、見つめ続ける。ふたりの耳にはきっといま、互いの瞬きの音と、愛しているという心の叫び声しか聞こえていない。
やがて、どちらからともなく唇を寄せた。それが必然であるように。瞳と同じく、唇を繋ぐ見えない糸が引き合うように。唇を重ね、そのまま息ができずに絶えてしまったみたいに静止した。
ティセとリュイは、たまたま立ち寄った商店の勘定場で繰り広げられる光景を前にして、呆然と立ちつくしている。
市場や商店がもっとも暇な、昼下がりの一等暑い時分だ。どうせ客など来ないと高をくくり、店番をしている恋人のもとへやってきたのだろう。そして思惑どおり誰も来ないため、若き恋人たちはついふたりだけの世界に没入してしまった、そんな場面だ。ふたりの愛を邪魔する野暮な旅人が立ち寄るとは、夢にも思わなかったに違いない。
唇を重ねたまま動かない恋人たちを前にして、ふたりとも瞳にたっぷりと戸惑いを浮かべている。声をかけるのも憚られるうえ、気配に気づかれてしまっても居たたまれない。なので身じろぎもできない。出るにも出られず引くにも引けず、さてどうしたものかとティセは心に汗をかく。
そうっと、ふたりは目配せをした。空気になって立ち去ろう…………ふたりの目は同じことを言っている。
そのとき、恋人たちはにわかに異変を察知したのか、急に唇を離して振り向いた。
げ……!
すると「なにもないです!」とでもいうように瞬時に身体を離した。男はわざとらしく咳払いをし、女はふたりから隠れるようにうつむいて横を向き、咄嗟に両手で顔を押さえた。その耳は熟れた赤茄子さながらに真っ赤だ。いやだぁ、という恥ずかしくてたまらなそうな小声が聞こえてくるようだった。
男は決まりの悪さからくる笑みを堪えるように不自然に口元を歪ませつつも、平静さを取り繕い、
「いらっしゃい、なにをご入り用かな?」
目をくりくりさせた。
その場の全員がぎくしゃくしてしまう厭な空気が辺りに満ちている。冷静さが取り柄のリュイもさすがに怯んだのか、一瞬だけ間を置いた。が、すぐに手にしていた石鹸を差し出して、
「これを……」
「毎度ありっ!」
ティセは晴れ渡る空に目を向け、先ほどの恋人たちの様子を思い出して笑っている。
「あははは……すごかったね、あれ。どうしようかと思ったよ、あはは……」
リュイはいまだ戸惑いを消し去れないのか、なにやら複雑な顔つきだ。
「おまえ、めちゃめちゃ困った顔してたぞ、あははは」
「おまえこそ……」
「そういえば、もっとすごいの見たことあるよ。初等部のころ、カイヤたちと真夜中の森を探検しに行ったときにさー」
「前に話していた、口止め料をもらった話?」
「そ、覚えてる?」
森のお化けかと思ったら、村の若いのが逢瀬を愉しんでいたのだ。
「ふたりとも裸みたいな恰好でいちゃいちゃしてんの! びっくりしたなぁ」
「…………」
「そのふたり、そのあとちゃんと結婚したんだ。いまも村に住んでるよ。男のほうにたまに出くわすけど、いまだに根に持ってるみたいで苦い顔してる」
あははっ、と道の先に向かって笑う。リュイはなにか思うことがあるのか、何故か瞳に愁いを滲ませて、いやにゆっくりと瞬きをした。
ひとしきり笑ったあと、ティセはふと思い及んで考える。
「…………好きなひとと一緒にいたら、あんなふうに周りがまったく見えなくなっちゃうものなのかなぁ……。忍び足してたわけでもないのに全然気づいてなかったよね。完全にふたりだけの世界だった…………よく分かんないよ……」
リュイは無言だ。
少し前に出会った宿の娘アルワを思い出す。蕩けてしまうような素敵な恋をしたいと、恋に焦がれる少女の瞳をして話していた。その気持ちがティセにはよく分からず、アルワとの隔たりを思う。
「ね、おまえ、そういうの分かる?」
見向けば、リュイはやはり愁いを滲ませたままでいた。黙っていたが、やがて返事の代わりに、ゆっくりと小首を傾けた。
「やっぱ分かんないよな」
調子を合わせるように言って前を向く。リュイの唇がなにか言いたげな表情でいたことに、ティセは気づかない。
田舎道の途中の小さな集落、ひなびた茶屋から外へ一歩出てみれば、店内の薄暗さに慣れた目が痛み出すほど明るくまぶしい。昼下がりの風はからっと熱く、日差しは強い。夏の盛りだ。茶屋の横の空き地では、大きな向日葵が太陽に微笑みを向けている。ティセは出発の朝に咲いていた十数本の黄色い鬱金香を思い出し、時の速さをしみじみと感じた。
リュイは勘定を支払う折りに話し好きの店主に捕まってしまい、店を出てくる気配がない。ティセは、困った目をしながらも従順に話を聞いているリュイの様子を頭に浮かべてニヤニヤしつつ、茶屋の入り口付近にいったん荷物を下ろした。向日葵の下でトラ猫の子供がひとなつこそうに鳴いているのだ。
近寄れば警戒するどころか、子猫は地面にごろりと横になり、撫でてくれと言わんばかりに身を捩る。
「よっしゃ、リュイが出てくるまで遊んでやるぞ」
腹や首筋、背中から尻尾にかけての曲線を撫でまくる。子猫はティセの指先を舐めたり、軽く噛んだり満足そうだ。そのうち興奮極まったのか、ティセの手を小さな前脚で抱え込み、後ろ脚で蹴りまくるあの必殺技を掛けてきた。
「いててて、こら!」
ふいに、背後から声がかかる。
「おい、小僧」
低く、やや濁りを含む若い男の声だ。ぞんざいな言葉つきと角のある声音は、耳にしただけでそれが居丈高な男だとすぐに分かり、不愉快だった。かちんときた。
「…………」
短髪のうえ男の身なりをしてしゃがみ込む姿は、背後からは少年に見えたようだ。ティセは久しぶりに少年に間違えられた。しかし声の様子から、小僧と呼ばれるほどその若者と歳が離れているとは思えない。そう思えば、余計に不愉快になった。
ティセをこの辺りの住民と思っているようで、
「小僧、聞こえているだろう。ここからラヒーマまでの間にほかに茶屋はあるか?」
尋ねごとの内容はともかく、不遜極まる高圧的な声の調子がおおいに癪に障る。ティセはしゃがみ込んだまま、無言で猫を向き続ける。
若者はいらいらしたように、
「おい!」
声を凄ませた。
ティセはおもむろに立ち上がり、凛と胸を張って振り返り――――……どきりとした。
若者ははっとするほど大きな男だった。背の高いリュイよりさらにひとまわりは背が高く、体格もがっしりとしていて、突然目の前に岩がそそり立ったように感じるほどだ。非常な威圧感を覚え、ティセはつい、たじろぎかける。
筋肉質の大きな図体に反比例するような小さな顔をティセにまっすぐ向けて、機嫌が悪そうに見下ろしている。不敵な面魂、目つきがひどく険しい。まるで、いままで嘗めた苦汁を両目に溜め込んできたかのような刺々しさだ。若者らしいさわやかさが少しも感じられない。
その眼差しと傲然とした態度に気圧されつつも、ティセは意志を曲げずに我を立てる。顔をキッと上げ、険しさを突き刺してくる目をあえて見据え、
「それが知らないひとにものを尋ねる態度かよ」
正面を向けてもまだ少女だと気づかないようで、若者はきつい表情をまったく変えない。ふたりは暫し無言で睨み合った。
やがて、おまえの発言なぞに聞く耳を持つ必要はないとでも言うように、
「質問に答えろ」
冷静に命じた。
ティセが振り返ったときから、若者は指先のひとつさえ微動だにせず、どこを取っても歪みがないと思わせるほどまっすぐに立っている。男にしてはやや長めの焦げ茶色の髪と、見事な身体を包む薄茶色の伝統衣装がそよ風になびいているだけだ。衣服の形はリュイとほぼ同じで、シュウ北部出身であるのを示していた。その地方のひとびとの習慣どおり帯刀している。
同じほど歪みのない口調で、ティセは返す。
「知らないよ。もし知ってたとしても、失礼なやつには教えられないな」
険しい目元をわずかにぴくりとさせる。ひやりと冷気が漂った。
「……おまえも充分に失礼だ」
「失礼なやつにはこのくらい失礼で充分だ」
ますます毅然として返した。若者は怒りより呆れを覚えたような口調になって、
「……この俺と喧嘩をしたいのか、小僧……」
「勝てない喧嘩をするほど莫迦じゃないんだ」
偉そうに不戦敗を宣言すると、若者はフンと鼻を鳴らすふうにわずかに嗤った。なんて厭なやつだと、ティセは心底思った。
「ほかのひとに聞きな」
ぷいっと、荷物の置いてあるほうへ歩きかける。すると、剽悍さをたっぷりと纏ったたくましい腕をさっと伸ばして、
「待て」
ティセの左肩をがしりと掴んだ。
そのはずみ、丸襟の上衣が若干引っ張られたようになり、かねてから糸が緩んでいたいちばん上の釦が飛んだ。
「……っ!」
咄嗟に、開いた襟もとに手をやった。
その慌てた仕草を目にして、若者は肩を掴んだまま目を瞠り、
「なんだ、おまえ女か……!」
「……」
ティセはむっとして黙り込む。
「男の身なりをして…………おかしな女だな」
さも訝しそうにティセを見た。
ちょうどそのとき、リュイが茶屋から出てきた。大きな男に肩を掴まれて襟もとを押さえるティセを見て、瞬時に血相を変えた。と同時に、右手が長剣の柄にかかる。
ティセはひやりとして、
「リュイ、待った!」
若者はリュイを振り返り、急に顔色を変えて、放心したような面持ちになる。肩を掴んだ手から力が抜けた。
ティセは顔つきを強張らせるリュイに駆け寄り、柄にかけられたまま固まった手に、「ほらほら」と宥めるように触れる。
「なんでもないよ、ものを尋ねられただけ。釦が外れたのは偶然だよ」
「……そう」
リュイはようやく柄を離した。
改めて見向けば、若者は立ちつくしたようになって、真剣な眼差しでリュイを見据えている。ティセはそのあまりの真剣さに違和感を覚えた。不審者を見るようだったリュイも、若者の様子に違和感を覚えたようだ。顔つきに疑問符を浮かべ始める。
やがて、若者はゆっくりと口角を上げた。悪意をも含むさまざまな意味を込めたような、深くて鋭い微笑だ。存分に棘を盛った口調で、
「久しぶりだな……」
そう告げた。
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