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解放者たち 第二部  作者: habibinskii
第三章
22/71

8

 村の中心街から東側の丘へ向かって小一時間ほど歩いた場所に、唯一の名所という温泉がある。訪れるひとはまばらで、おおむね日に二・三十人程度といったささやかな温泉場だ。辺りには茶と軽食を供する茶屋兼管理小屋があるだけで宿泊施設などはない。しかし、効能が高いという専らの噂を聞きつけて、身体の痛みを抱える老若男女が割合遠くからでも訪れるのだと、宿の家族が話していた。


 林のなかの小道の先、なにもない空き地のような場所に温泉はあった。地面を穿ち、石を敷きつめて鉱泉を溜めただけの露店風呂だ。そのそばに、嵐が来たら吹き飛んでしまいそうに粗末な作りの茶屋があり、番頭の中年男が勘定台に突っ伏して熟睡している。ふたりは台の上に入湯料をそっと置き、露店風呂へ向かった。


 ふたりの老爺が裸になって温泉に浸かっていた。ティセはぺこりとお辞儀をし、

「こんにちは。お邪魔してもいいですか」

 老爺はともに目を瞠り、

「おう、めずらしいお客さんだな、どこから来おった!?」

「イリアです。こっちはシュウのひと」

 リュイも軽く会釈をした。

「遠いとこからご苦労なこった。ささ、温泉で疲れを癒したらええぞ」

 どちらも隣村の住民で、定期的にここを訪れていると言った。ふたりは老爺の邪魔にならないよう、反対側の離れたところで各々靴を脱いで裸足になった。



 リュイが脚衣を膝上までまくっているうちに、ティセはそのままの恰好で風呂の縁に腰かけて、脚衣が濡れるのも厭わずに膝下を湯に浸けた。


「おまえ、脚衣(シャルワール)が濡れても構わないのか」

「平気平気、すぐ乾くじゃん」


 湯のなかで足をゆっくり前後に動かしながら、事もなげに返した。衣服を湯に浸けてはならないという規則も作法もないのだが、

「……無精だな……」

 リュイは少々呆れた。


 ティセの隣に腰かけて、まくった膝下を湯に浸ける。


「思ったよりぬるいよねー」

「ん……けれど、ぬるいほうが利きそうな気がする」

「そうかもね、熱いと長く浸かってらんないしね」


 ぬるま湯に足を浸しつつ、林のなかを抜けてくる涼風に吹かれる。とても気持ちがいい。冬なら冬で湯煙が風になびいて、さぞ幻想的な景色だろうと、ティセは辺りを見回してうっとりとした口調で言った。


 ほんのわずかに白濁している湯を見つめる。底に敷きつめられた、大理石に似た模様をもつ青みがかった石が、日差しを受けて水色に揺らめいている。その水色の石の上で、ティセの足の甲が普段以上に、いやに白く映えて見える。肌色の濃い自分の足とはまるで違い、艶めかしいほど鮮やかに白い。リュイはつい吸い込まれるような気持ちになって、無意識に凝視してしまう。

 ふと思い及ぶ。そういえば、ティセの脚を見たことがない。自身もそうではあるが、脚はつねに脚衣に包まれている。普段見ることができるのは足首辺りまでだ。


 同様に、年が年中長袖の上衣を纏っている。洗濯などで腕まくりをしている姿はよく見るが、それも肘までだ。以前、二の腕の怪我を診た際にいちどだけその腕を見た。当時は少年だと思っていたので、その細さと筋のなさを知りしみじみと驚いた。それもそのはず、あれは少女のものだったのだ。すんなりと素直に伸びた、瑞枝のようにたおやかな、とてもきれいな腕だった。そう思ったことははっきりと覚えているが、いま(つまび)らかに思い浮かべようとしても記憶は遠く、おぼろげにしか浮かばない。リュイはひどくもどかしく思った。


 脚衣に隠された脚も、腕と同じくすんなりと素直な美しさなのだろうか……。胸のなかでつぶやけば、途端に見たくてたまらなくなった。そんな思いを堪えつつ、湯のなかでゆらりと揺れるティセの脚衣を見つめていた。

 見つめるうちに思い至る。ティセが膝をまくらず湯に浸かったのは、無精などではなく、もしや恥ずかしいからではないだろうか……。すると、ますます見てみたくなった。遣り切れない……胸の奥で溜め息をついた。


 邪な気持ちでティセの横顔をそっと窺った。辺りの景色を眺めているとばかり思っていたが、いつからかリュイの膝頭の辺りを見つめていた。


「……なに?」


 ティセはなにか思い耽っているような眼差しで、


「……ううん、なんでもない……」


 ぼんやりと返した。












 離れの前に対峙して、今日もまた木刀の先を向け合っている。

 にわかに振りかぶり上段から攻めかかる、と見せかけて、リュイはティセの胴を突く。初めはまるで読めなかったが、ティセは相手の動きが読めるようになってきている。咄嗟に退き、攻めの直後にできるわずかな隙を見逃さずに攻め込んでくる。もっともそれは、ティセの水準に合わせて作る故意の隙ではあるのだが。ティセはリュイの右脚を討った。


 間髪を容れず、リュイは身体を斜めにし、まっすぐに剣先を突き出して向かっていく。ティセはその動きに調子を合わせ、じつに律動的に退いていく。間合いを巧みに保っている。そして、剣先がぶれた好機を逃さずに、相手の攻めにくい利き腕の外側にひらりと身を躱し、同時に手首を討つ。教えたとおりの動きを着実に物にしている。

 リュイはにやりと笑み、


「さすが、上達が速い」


 ティセは軽く顎を上げ、不遜な笑みをもって返す。


「まあな。喧嘩負けなしの元ガキ大将をなめんなよ!」


 言って、シシシと自嘲の笑い声を漏らし、


「まだまだ!」


 自ら攻め込んでくる。何故か非常に意欲的なのだった。



 ティセの攻撃を刀身で撥ねていく。攻めつつも防ぐことを忘れていないのが、その身のこなし方から分かる。稽古を始めたばかりのころのように、攻めることに頭が行き過ぎて防御が疎かになることが少なくなっているのだ。隙も格段に小さく少なくなってきた。そのうえ、次の動きを考えながら剣を振るっているようだ。正直なところ、考えていた以上にティセには素質があった。リュイは半ば感心していた。


 脚を討ちにくるティセの攻撃をすかさず躱し、屈んだ上体を起こしにかかったところを逆に狙い、喉を突く。が、ティセはきちんと予期している。上体を起こしつつ、咄嗟に飛び退いた。まるで猫のようだ。女とは思えないすばらしい反射神経と鋭い跳躍に、リュイは感動すら覚えてしまう。

 ところが、飛び退いた先には不運にも大きな石が埋まっていた。ティセは思い切り踵を引っかけて、


「わっ……!」


 そのままの勢いで背後へ倒れかかる。

 先日と違い、咄嗟に受身を取れるような転倒の仕方でないことを、リュイは瞬時に悟った。ややもすれば頭部を強打する転びかただ。


「……ティセッ!」


 木刀を手放して、無防備に転倒するティセに飛びかかる。折り重なるようになって、ともに地面に倒れ込む。


「――――……っ!!」


 どさり、重たい音が上がる。間一髪、ティセの頭に両腕を回し、抱え込むようにして着地した。

 ティセは驚いて息が止まったのか、リュイの両腕を枕にしたまま目を見開いて、


「…………」


 声も出ない様子だ。

 その顔の近さに、リュイはどきりとする。大きく見開かれた黒い瞳を、思わずじっと見下ろした。黒い瞳が、つやつやの頬が……そして、声の出ないほの開いた唇が目の前にある。


 ……ティセ……


 身体を起こそうにも動けない。どうしようもなく無垢に見えるわずかに開いた唇が、やわらかそうな唇の隙間から覗く小さな白い歯が、強力な磁石さながらにリュイを惹きつけていた。目を逸らすなどとてもできない。どこか奥底から迸るたまらない思いをひたすらに堪えながら、


 ……このまま、塞いでしまいたい……


 ティセの唇を凝視する。



 ほどなくして、ティセはぱちぱちと瞬きをして、


「あー……びっくりしたぁ……」


 リュイはようやく我に返った。

 ほら、と手を引いて上体を起こしてやる。たったいま迸った淫らな思いをなかったものにするように、故意に冷ややかに言う。


「ティセ、倒れても防御だ」

「……はあい」


 情けない声を返した。





 雲が出始めて蛙たちの歓喜の声が上がるころ、稽古を終えた。離れの前の丸太に腰かけて息をついていると、気の利く宿の主婦が茶の載った盆を運んできた。真っ赤に熟した苺のおやつ付きだ。

 ティセは苺をぱくりとひと口にし、口をもぐもぐさせながら、

「ずいぶん美味い苺だなあ、ちょうどいい甘酸っぱさ。おまえも食べてみ」

「ん……」

 そっとひと粒摘み上げて、口にする前にティセを見向く。

「そろそろ出発しようか」

 目を丸くして、ティセは驚きと喜びを露わにする。


「ほんと? それ、合格点もらえたってこと?」

「とりあえずのところは……。もちろん、出発しても稽古は続けるよ」

「合格点! ひゃっほー!」


 湯呑みを手にしたまま双手を上げた。

 無邪気に喜ぶティセに、リュイは反対に真剣な眼差しを向ける。


「ティセ、とりあえずは合格点でも、決して忘れないで」

「なにを?」

「もしもなにかあったとき、おまえが真っ先にすることは、立ち向かうことじゃない」


 まっすぐに目を見て告げる。


「まずは、僕を大声で呼ぶことだ」


 ティセは暫しぽかんとしていた。が、やがて、滲み出るようにゆっくりと微笑んだ。「ひゃっほー」と叫んだティセとは別のティセが急に顔を出したみたいに、しおらしさのある小声で返した。


「……うん。頼りにしてる」



 丸太の脇から蛙が一匹、ティセの足元に跳ねてきた。ティセは「お?」という顔をして上体を屈め、左の人差し指でその背中をムニッと押した。蛙はゲコッとひと鳴きし、慌てたように飛び跳ねていった。

 子供みたいなことを……呆れ笑いをしつつ、ふたたびティセを向く。


「けれど、おまえ……初めはあんなに厭がっていたのに、ずいぶん熱心だったな」


 手にした短剣を持てあまし、泣きそうな声で怖いよと訴えたティセを浮かべながら、リュイはからかい気味に言った。ティセは少々むっとするか、あるいは気恥ずかしそうな顔でもすると思っていたが、


「まあな」


 なにやら得意げな顔つきになってニヤリと笑みを返した。


「なんでだか、おまえ分かる?」


 元ガキ大将の血が騒いだのかと考えていたが、的外れだったのだろうか、リュイは少し戸惑った。

「……さあ……分からない」

 ティセは自信たっぷりに笑んだまま、してやったりとばかりにこう答えた。


「おまえが楽しそうだったから!」

「え……」


 意想外な返答に、呆気に取られる。ティセは態度をそのままに続ける。


「自分で気がついてないんだろ? おまえ、見たことないほど楽しそうだったぞ。おまえじゃないみたいに活き活きしてた」

「…………」

「だから私も楽しくなっちゃって、やる気になったわけ。おまえが楽しそうなら私も楽しい…………友達ってそういうもんなの。当たりまえだろ?」


 不遜なまでに得意げに笑っている。



 返す言葉をどうしても見つけられず、リュイは困った目で蛙の跳ねて行ったほうを見つめた。そして、ゆっくりと苺を口にする。優しい甘さと、それを引き立てるほどよい酸味が口内と鼻腔に広がった。言うとおり、気分まで瑞々しくさせる美味しい苺だ。


 おまえが楽しそうなら私も楽しい――――……くり返せば、胸の奥がにわかに温まった、と同時に、きゅうっと締めつけられた。


 似たようなことを、リュイはすでに知っていた。ティセの瞳が興味に輝くのを眺めていると、不思議と満たされた気持ちにいつだってなることを。ティセもまた同じような気持ちになるという…………。すると、ますます胸が苦しくなった。病気みたいだと、ひそかに溜め息をつく。


 ティセはしたり顔で、友達とはそういうものだと説き聞かせる。


 ……友達……


 苺そっくりの、甘くて酸っぱい気がするものを胸に感じながら、果たしてリュイは想像する。


 ……ティセの心がもしも僕を向いたなら……いったいどんな気持ちになるだろう……


 うっすらとした願いが、締めつけられた胸の奥に仄めいていた。





【第三章 了】









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