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夕刻の雨が降り始めたのを汐合に、その日の稽古を終えた。部屋へ戻ると、ティセは床に身体をごろりと投げ出して、
「あー疲れたぁ……ちょっとひと眠りしてるから、おまえ先に水浴びしてきたら? 終わったら起きるよ」
「分かった」
手ぬぐいと着替えを抱えて、雨のなか、リュイは母屋の脇の水浴び小屋まで小走りした。母屋と水浴び小屋の間はトタン板のひさしがあり、その下は要不要を決められず捨て切れないような日用品――――古びた樽や甕、行李、石臼など――――が放置されて半ば物置のようになっている。ひと息にひさしの下へ走り込めば、トタンを打つ雨音がやけに大きく耳に響き、外で降られているよりも逆に雨を意識させた。
ちょうど小屋の板戸が開いて、なかから若い母親とびしょびしょに濡れた素っ裸の男児が出てきた。子供の水浴びを世話していた母親はまだ二十歳を少し過ぎたくらいの歳と思われた。リュイと目を合わせるとにこやかに微笑んだ。
「水浴び? ちょうどよかった。いま終わったところよ」
「お借りします」
若い母親は屈み込み、子供の頭や身体を手ぬぐいで拭いつつ、興味深げな目でリュイを見上げ、
「あなたたち、うちに長いわね、こんなに長く泊まってくれるお客さん初めてよ。この村の名物はあの小さな温泉だけだから、みんな一・二泊くらいで出て行っちゃうの。温泉はもう行ったの?」
「まだです」
村のはずれに効能の高い鉱泉の湧く小さな温泉場があり、そこが唯一この村の名所だという。ティセが行きたいと言っていたので、出発する前には訪れるつもりでいた。
若い母親はさも可笑しそうにふふふと笑い、
「そう、毎日稽古ばかりだものね」
返す言葉を探しあぐねていると、ますます興味津々といった眼差しを向けた。
「ねえ、あなたまだ若いけど、剣術の先生かなにかなの?」
「いえ、そうではありませんけれど……」
「そうなの? でも、ずいぶん慣れてるふうに教えてるじゃない、あの娘に」
「…………」
リュイはまた言葉を探しあぐねた。
「でも、なんだって女の子にそんな稽古つけてるのよ。うちのお婆ちゃんなんか、いじめじゃないかって心配してるわよ」
冗談めかしつつ思いも寄らないことを言う。リュイは「いじめ……!?」と頭のなかでくり返した。
「……もちろん身を守るためにです」
真面目に返答すると、若い母親は意味有り気に抑揚を付けて「ふうん……」と返し、
「ま、身を守れるに越したことないけどね。……でもさぁ、そんなに慣れたふうなら、あなたが守ってやればいいんじゃないの?」
ずきり…・・・尖ったものを強く押しつけられたような痛みを胸に覚え、リュイはつい伏し目になって黙した。
「…………」
うつむいたその様子を、若い母親は暫し眺めていた。のち、にわかに声を潜め、冷やかしを込めた口調で、沈黙へ逃げたリュイを追い撃つように続ける。
「……義理の兄妹って言ってたけど、本当は違うんでしょ? 本当は大切な娘なんでしょう、だったら守らなきゃ!」
からから笑って、リュイの肩をポンと叩く。「ごゆっくり」と言い残し、男児を連れて母屋へ戻っていった。
「…………」
言いたいことも、言うべきことも、なにひとつ出てはこない。リュイは呆然としてしまう。
水浴び場の棚に脱いだ衣服を少々乱雑に置いた。普段なら軽く畳んで置くのだが、自己嫌悪と再燃した憤りが腹と胸のなかで渦を巻き、そんな余裕を失くしていた。コンクリート製の水槽から桶で水を汲み、頭から幾度も水をかぶる。自身に冷や水を浴びせたい、そんな気持ちそのままに。浅黒い肌の上を幾筋もの水が流れていく。長い髪の先から滴っていく。
桶を手にしたまま、高い位置にある明かり取りの窓から覗く曇天をじっと睨む。雨の夕刻の水浴び場は、リュイの心と同じほどひどく暗かった。そのうえ、母子の使用したすぐあとのため湿気が籠もり、暗いうえに不快な暖かさだ。
あなたが守ってやればいいんじゃないの――――……?
当然だとでもいうように言った、若い母親の言葉が頭のなかにこだましていた。
それが完璧にできるのなら、こんな思いをすることはないだろう…………リュイは痛切に嘆いていた。自分の不甲斐なさを、これ以上ないほど鋭く指摘されたも同然だった。
あまりの憤りに棒立ちとなって、あの日のことを思い出す。二度と思い出したくないにも拘わらず、何度でもよみがえるあの日のことを――――……。
悪いことなどなにも起こりそうにない、よく晴れた長閑な昼だった。遠くのほうから、ティセに似た叫び声がかすかに聞こえた。瞬間、読んでいた本を取り落とし、弾かれたように立ち上がった。先ほどティセが入っていったように思った繁みの奥へ、全速力で向かった。いったいどこまで行ってしまったのか、ティセはいない。不安に突き上げられるようになってなだらかな坂道を駆けた。
丘の頂上へ出てみれば、凍りついてしまうような光景が目に飛び込んだ。飛び込むと同時に意識が飛んだ。すると凍りつくどころか、身体は勝手に動いた。なんの手加減もなく男を蹴り上げていた。剣を抜いていたのも自身知らない。ティセに名を呼ばれてから、初めて抜刀していることに気がついた。
あの男の顔や姿はほとんど覚えていない。ただ、その穢らしい手がティセに触れていたことだけは、目と頭にいまでもはっきりと焼きついている。決して消すことのできない烙印のようにくっきりと生々しく。
その光景が脳裏を過ぎる。あの日から再三再四襲われている耐えがたい怒りが、腹の底から沸き上がる。リュイは手にした桶の箍が外れかねないほど強く、それを握り締めた。そして、やり場のない怒りを叩きつける思いで、たっぷりと水の張られた水槽に叩きつけた。パアン……と大きな音が上がり、水が辺りに飛び散った。思い出せば唇は震え、呼吸は荒くなり、むき出しの肩がわなわなと上下した。
失神した男を放置し、震えているティセを連れて逃げるように去った。あのときのティセは見る影もなく弱々しく、強さを失った瞳に涙を滲ませて怯えていた。それなのに、ティセを気遣う心の余裕は、リュイには少しもなかった。ただただ、怒りに突き上げられて足を進めていた。凄まじい憤りが、リュイを沈黙させていた。
宿に落ち着いたあとも、怒りは少しも治まらなかった。どころか足が止まったことにより、歩くことで少しは発散させられていた怒りは行き場を失い、身体のなかにみるみる溢れていった。いまにも破裂しそうな風船のように怒りは飽和し、胸ばかりか全身が張り裂けてしまいそうだった。
…………ティセに触れた…………敷物の一点を見つめながら、あってはならないそのことを頭のなかで幾度もくり返した。呆然とするほどの怒りに晒されながら、ティセに触れた…………声なき声を上げていた。その声は激情に掠れ、わなないていた。
許せない――――……なにをどうしたとしても、決して許せない……!
あの日とまるで同じように、リュイは頭のなかでくり返す。許せない……許せない…………ティセに触れて許されるひとがいるとするならば、それは――――……。
「……僕だけだ……!」
水槽の波面を睨みつけて、吐き捨てるようにつぶやいた。
そして、敷物の一点を見つめて怒りを耐えるリュイのはす向かいで、ティセは壁に寄りかかるようになって膝を抱えていた。リュイ自身、とても目を合わせられるような状態ではなかったが、おそらくティセもそうだったのだろう。沈鬱とうつむいたきりでいた。
僕だけだ……そんな思いでティセをそっと見た。すると、まったく別の怒りが瞬時にして生まれた。
その瞬間までは、怒りは男に対してのみ向けられていた。それとは別に、ティセに対する激しい怒りが沸き上がったのだ。
――――何故、あの男に触れさせたのか…………!!
暴力による強要であり、ティセは完全に被害者だ。どれほどの恐怖と衝撃を覚えたか、その様子を見れば充分過ぎるほど分かる。けれど、リュイの憤りとは微塵も関係しなかった。可哀想に思う気持ちはあれど、噴き上げるその怒りを少しも鎮めはしなかった。
……何故、触れさせた……!?
口のなかでくり返し唱えつつ、うつむいているティセを見据え続けた。墨色の靄に似た感情がたちまち胸をいっぱいにした。胸から溢れ、ついには手足の先まで満たされた。十五のころは、それがなんなのか自身よく分からなかった墨色の感情だ。いまはもうはっきりとなにか分かる。憎しみだ。ティセに対して激しい憎しみを覚えていた。
……何故、触れさせた……なにをやっているんだ……ふざけるな……!
いままでいちども使ったことのない荒々しい言葉や持てあますような感情が、内側から次々と湧いてきた。憎しみはティセを見据える目を険しくさせていく。どれほどきつい眼差しを向けているか自身分かっていたが、止められず、また止める気も起きなかった。正直に言えば、うつむいているティセの顔を無理にでも上げさせて、その頬を叩いてやりたかった。そんな衝動を堪えつつ、じっとティセを睨んでいた。
そのうち、ティセは夕食を買いに出ると言い出した。まるで逃げるように立ち上がり、すでに真っ暗になっている往来へひとりで出て行こうとした。夜の町へひとりで――――……。そのとき、ティセへの憤りは頂点に達した。
――――冗談じゃない……!!
頭のなかで喝破していた。無言で押し留め、自ら外出した。すぐそこの屋台で夕食を買い求めながら、部屋を出る直前のティセを思っていた。呆然としつつも、あきらかに自分に怯えていた。
何故これほど怒っているのか、ティセにはまったく分からなかったかもしれない。自身、何故こんなにも理不尽に激怒しているのか、納得できない思いだった。しかし、その理不尽な憤りは紛れもなく本心だ。激しい怒りを持てあましながら、その晩は眠りについた。夜中にティセが悲鳴を上げて目覚めたのにも気づいていた。が、声をかけようという気持ちは起こらなかった。
翌朝になると、少しは気持ちが落ち着いたのか、ティセへの怒りは鎮まっていた。代わりに滲み出ていたのは、自身に対する憤りだった。
おまえを、全力で守る――――……ティセの寝顔を見つめながら心に誓った。つい先日のことだ。にも拘わらず、少しも守れない。自分の不甲斐なさ、情けなさに心の底から落胆し、失望し、嫌悪していた。
それは、十五のころと同様だった。ザハラに義務や価値を問われ、身を守れない友人を僕が守ろうと思うと、流れ出るままに答えた。その後すぐ、ティセはフェネを追っていたならずものに撃たれ、おそらくは生涯消えない傷跡を二の腕に遺したのだ。厳しい訓練に十年も耐えたのに、友人のひとりすら守れない。守ることなどできないのだと、その銃創はリュイに現実と実力のほどを突きつけた。ティセの二の腕に刻まれているのは、自分の失態と不甲斐なさなのだ。戒めのように刻まれて、自分に警告している。
そして、自身に対する憤りのほかに、もうひとつ別のものが滲み出ていた。それはうっすらとした言いようもない不安……自身に対する空恐ろしさとでもいうべきものだ。
あのとき、知らぬ間に抜刀していた。頭のなかを真っ白にさせて、喉に突き立てようとしていた。皮膚を裂くだけの示威行為などではない、取り返しのつかない行為だ。ティセの制止がもしもなければ――――……リュイはぞっとした、自分の行動に鳥肌が立った。なにをするか分からない自分がいることを、初めて知った。恐ろしいものが、この身体のなかに潜んでいる…………。自身への憤りと空恐ろしさを、あの翌日はつくづくと噛みしめていた。
リュイは深い溜め息をひとつつき、石鹸を手に取った。小さな傷跡がいくつも遺る身体にそれを塗りつける。左の脇腹で手が止まる。そこには醜い傷跡が遺っている。十五のころ、ひと売りの組織に追われた際に負った銃創だ。この傷もまた、ティセを守れなかった証しのようなものだ。
リュイはふたたび、若い母親の言葉をくり返す。
あなたが守ってやればいいんじゃないの――――……?
どうしたら守れるのか――――あの翌日、自身を嫌悪しながら考え続けていた。片時も目を離さずにいるのは絶対に不可能だ。ならばどうすればいい…………一日中、黙って考えていた。そうして辿り着いた結論が、連日の稽古だ。
ティセを強くすればいい。守りきれない不甲斐のなさの分、ティセに助力を頼めばいい。それもまた、ティセを守るということではないか……。
剣術や護身術を、ひとに教えたことなどいちどもない。教える自信があったわけでもない。けれど、誰にも触れさせないためにならなんでもする、リュイはそう決意した。ティセのためにというよりは、むしろ自分のために――――……。
いまいちど心に決めて、どこかに残っているかもしれない弱気をすべて払う気持ちで、頭から幾度も冷水をかぶった。
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