2
帰還してすぐに、ティセは怖れていた人生の一大事を迎えた。ついに初潮を迎えたのだ。周りの少女たちよりずっと遅い初潮だ。まるで、無意識の根性で引き留めていたかのような日が、旅の終わったのを見計らったとしか思えない時宜でやってきた。
生々しく赤い血を見て息を呑んだ。ひどい憂鬱に襲われ、絶望的な気持ちになった。遠い国々と青い海原をこの目にし、世界はどこまでも広がったと思ったのに、また新たな重りのついた足枷をかけられたように、見えない檻に入れられたように感じた。厠の壁に力なくもたれて、しばらく打ちひしがれていた。
母には隠さずきちんと告げた。本来ならば、慣習に則って特別な食物を拵えて祝うのが普通だが、すっかりと意気消沈している娘を見て、母は「そう……」とだけ返した。
一年ぶりに帰ってみれば、カイヤを筆頭に四人の仲間たちは皆、自分よりずっと背が高くなっていた。
その後、どんどん男らしくなっていく彼らを見ているうちに、ティセはようやく気がついた。家出前に、仲間たちから故意に遠ざかっていた無自覚の理由について。
きっかけが、十二歳のときに起こした傷害事件だということはなんとなく気づいていた。仲間たちに余計な負担をかけてしまった心苦しさからか、あるいは彼らといると事件を思い出すからかと、漠然と考えていた。しかし、本当の理由はどちらでもなかった。
あのとき初めて警察の世話になった。ジャールの警官は調書を取る段になって、ようやくティセが少女であるのを知り、言葉を失うほど驚愕していた。そして、ティセに対する態度をよりいっそう厳しくさせた。ティセに対してだけだった。もちろん、ティセが主犯であったのも関係があるだろう、けれどそれだけではない、むしろ女であったことのほうが警官の目を厳しくさせたのだ。仲間たちに向ける非難の目と、自分へのそれは、厳しさの度合いが甚だしく違っていた。
警官の態度に接し、無意識にも理解したのだ。この仲間たちといくら同等に過ごし、いくら同等のことをしていても、自分は決して彼らと同じ位置には立てない存在なのだと。同じ位置にいる気になるのは錯覚だ、彼らと自分の間には途方もない隔たりがあったのだと――――……。
ガキ大将として君臨してきたティセにとって、その無意識の理解は、王座から蹴落とされた自分に自分だけが気づいてしまったというのに等しいものだった。ほかの誰もが気づかなくとも、気づいてしまった自分は、もはやそこへは戻れない――――……そんな思いからくる故意の疎遠だったのだ。
十七を迎えたいま現在、彼らの腕や肩のたくましさを改めて眺めてみれば、初等部のころのように素手で取っ組み合ったとしても、自分が勝つことはもう絶対にありえないのだとすぐに分かる。かつては百戦百勝だった、少し寂しい気もするが当然のことだ。無意識の理解も、故意の疎遠も、いまのティセにとってはどうでもいい。彼らといまの関係を楽しむだけなのだから。
それでも、月のものが訪れるたびに考えてしまう。
……どうして、自分は男の子に生まれなかったんだろう……
心が男であるわけではないし、自身の身体に違和感があるわけでもない。けれど、もしも男に生まれていれば――――……もっと都合よく、もっと理想的に生きられたのではないだろうか……いままでも、おそらくはこれからも――――…………。重く鈍い腹の痛みを呪わしく思いながら、ティセはそんなふうに考えた。道の先に広がっている大きな世界と、小さな自分に科せられた重い枷を、同時に意識していた。
想いとは裏腹に初潮を迎えてからは、初対面のひとに男だと誤解されることが少なくなっていった。もっとも、たまに所用でジャールへ行く以外、村から出ることはほとんどないため、知らないひとに会うこともあまりないのだが。
ところで帰還直後、ひどく衝撃的なできごとがあり、ティセを唖然とさせた。
通りを歩けば必ずや、中傷の言葉が飛んできた。その雑言のなかには、こんなひとことが交じっていた。
「おい、中古!」
……中古?
いつもは聞こえないふりをしていたが、つい足を止めた。振り返ると、ある青年がこちらを見てニヤニヤと下卑た笑いを浮かべていた。素行の悪いことで有名な、村の嫌われ者だった。そのいやらしい笑みとよく分からない中傷にぞっとして、ティセは足早に自宅へ戻った。
数日後、田圃脇でひと休みしている農夫たちの横を通りすがった。農夫たちは先日の男と同じような下品な笑いを浮かべながら、口々に言った。
「膜なしめ」
ようやく思い至った。ティセは傷物だという噂が、まことしやかに村へ流れているのだ。想像したこともなかったが、そんな噂を立てられてもしかたがなかったのだ。
驚くことに母親までもが、その噂について半信半疑になって心配をしていた。
「か、母さん、なに言ってんの……!? そんな噂信じないでよ!」
母はおろおろと狼狽えて、
「だって、だって……そりゃああなたを信じたいけど、でも状況が状況だもの……」
「あのねえ、リュイは別れる前の日まで、俺のこと男だと思ってたんだよ! そんなことあるわけないじゃないか!」
すると、信じられないとばかりに素っ頓狂な声を上げた。
「なんですってえ……! それ本当なの? そんなことありえるの……」
「本当だよ、男だって信じて疑いもしなかった。だから噂はまったくの出鱈目だ」
「…………」
「リュイが聞いたらめちゃくちゃ厭な顔するよ。僕がなにを……って青筋立てるな絶対」
そのあと、母は安堵するより怒りに燃えて、
「失礼なひとねえ……私の娘に……あまりに失礼だわ」
いつまでもぶつぶつと文句を言っていた。
噂を払拭するのは不可能だ。村びとの少なくない数は出鱈目を信じているだろう。ありもしないことを本当のように囁かれるのは我慢ならないが、いたしかたない。これも自分の行為の結果だと、ティセは不本意ながらも不愉快な視線を受け止めるしかなかった。
中等部を修めたあとは、勤め先を探すのにひどく苦労した。村では誰ひとりティセを雇おうとする者がいなかったのだ。商店、食堂、農園、工場…………いくつも尋ねてまわったが、たとえ人手が足りていなくとも、雇う余裕があったとしても、雇ってはもらえなかった。どころか、内職さえもらえなかった。ティセを赦し受け入れてくれたひとびともいたが、そうでない村びとのほうがまだずっと多かった。信頼と評判の回復はそれほど困難だったのだ。
「……厳しいなあ……」
断られては、深く溜め息をついた。
家事手伝いに収まるのは逃げのようでいやだった。できるかぎり母に家事を負担させたくなかったので、近場に勤め先を見つけたかったのだが、しかたがないのであきらめた。通勤に時間を取られてしまうけれど、ジャールで探すことにした。
しかし、ジャールでも簡単には見つからなかった。そこでもティセはそれなりに知られていた。かつてそこで傷害事件を起こしていたため、とくに同時期に初等部にいた生徒とその保護者たちの間では有名な不良少女なのだった。また当然ながら、男の身なりをする型破りな少女だと、白い眼を向けるひとびとも少なくはなかった。
幾度もジャールへ足を運んで探してみたが、なかなかいい返事をもらえない。世の中の厳しさと、自身の認識の甘さを痛感し、ティセは途方に暮れた。
そんなある日、いちどは断られたナルジャの食堂の女将から、声がかかった。
「あんた、まだうちでやる気があるなら、働いてみるかい?」
それは、子分ナギの母親が切り盛りしている食堂だった。
ふたつ返事で店に入った。非常にありがたく助けられた思いがした。以来、ティセはそこに勤務している。
店は少々手狭だが目抜き通りの一等賑やかな場所に位置している。惣菜の種類の多いのが自慢の、わりあい繁盛している食堂だ。ティセは開店前の仕込みから昼食の時間帯が終わるまで、いちど自宅に戻り、夕方からふたたび出勤するという毎日を送っている。休日は週一回、その前日は夜の勤務はないので、実質一日半の休暇となる。
たいへん真面目に働いた。思い直して声をかけてくれた女将の厚意に報いたい、そんな一心だった。
勤め始めて数ヶ月がたったころ、女将はそっと打ち明けた。
「あんた、ほんとよくやってくれるわね。いままで何人も雇ったけど、こんなにやってくれる子初めてよ」
低い腰かけに掛けて洗いものを続けながら、女将を見上げ「そう?」と微笑んだ。
「いちど断ったけど、やっぱり雇ってよかったよ」
ティセが店に来てからいつでも掃除が行き届いている厨房を、女将は満足げに見回した。重そうに身体を屈め、はす向かいにしゃがみ込み、声を潜めて続ける。
「あんたのことは子供のころからよく知ってるからね、みんなが言うほど悪い子じゃないのは分かってたんだけど、うちは客商売だからねえ…………よく思わない常連さんたちが離れていくかもしれないと思ってさあ…………ま、杞憂だったけどね」
「……うん。小母さんの言うこと、よく分かるよ。私、評判悪いからね」
「じつはね、私が断ったのを、ナギは知ってたようなのよ。それで、私に言ったのよ……ティセ姉を雇ってあげて、そうしたら俺、もう母さんの言うことなんでも聞くから……ってさ!」
ティセははっとして、洗いものの手を止めた。
「ナギが!?」
その驚きに同意するように、女将も目を瞠り、
「そうなのよ! 普段憎まれ口しかきかないあの莫迦息子がよ、神妙な顔して言うの。私もうびっくりしちゃってさ、あんなにしおらしくなったナギを初めて見たわ。……で、考えを改めたわけ」
「…………」
「あの子の頼みを聞いてよかったよ。あんた、料理もなかなかうまいし、細かいとこにいろいろ気づいてくれるから助かるわ」
女将は目尻にわずかに皺を寄せ、少し恥ずかしげに微笑んだ。
「あの子はね、あんたに心酔してるわ。もともとあんたのこと慕ってたけど、もう英雄みたいに尊敬しきってるみたい。あんたの家出がよっぽど衝撃だったんだろうね」
帰還後初めて会ったときの、ナギの様子を思い出した。真剣な瞳をして自分を見つめていた。そういうことかと、ティセはいまさらながら腹に落ちた。
こんちはあ、という声とともに客がやってきた。
「いらっしゃい!」
女将はひと声かけてから、もういちど声を潜め、
「この話はナギには内緒ね。ティセ姉には言わないでって言われてたの、本当は。恥ずかしいんでしょ、きっと」
ニッと笑って、女将は立ち上がり客の注文を聞きに行った。
ティセはいかにもやんちゃ坊主なナギの顔を思い浮かべながら、手にした硝子の湯呑みを暫し見つめていた。
……ナギ……ありがとう……
またもうひとり、心から感謝するひとが増えた。そして、持つべきものは恩師と親友と子分だと、少しだけ得意になった。
ナルジャや近辺の村ではますます洋装が浸透し、とくに若い男たちの間ではそれを普段着とする者まで現れるようになっていた。母親の仕事の依頼は増えるいっぽうだ。ティセは母を助けるべく、家事の多くを担いつつ食堂の仕事に精を出す。そんなティセに対して厳しい眼差しを緩めない村びともまだ多いが、かつての非行を水に流して再評価してくれるひとびともずいぶん増えていた。
十七歳を迎えた現在は、帰還直後のように中傷の言葉や物を投げつけられることはさすがになくなった。父の死以来、ナルジャがこんなにも居心地がいいのは久方ぶりだ。
よく晴れた昼下がり、ティセは久しぶりにお気に入りの場所であるはずれの丘へ登った。木立がまばらな西側の斜面の上にまっすぐ立ち、前方を見つめる。眼下にはナルジャの全貌が横たわる。そのなかから伸びる細い道が南のほうへと続き、はずれの森へ吸い込まれるように消えていく。あの道の先は、奥の村へと続き、数々の地方都市を経て、いつしか隣国へ――――……そして、はるか遠いシュウの国へと繋がっている。
一陣の風が吹く。上衣の裾や袖、太股回りだけゆったりと作られた脚衣をはためかせる。栗色の髪が掻き乱されて、額が露わになる。春風の心地よさを味わいながら、ティセは軽くまぶたを閉じる。
…………リュイ…………
毎日のように、ティセはリュイを思っている。
いまはどこにいるだろう、なにをしているのだろう。もう十八歳になっている、見た目と年齢はついに一致しただろう。いまだ行き先を決められずに、戸惑っているのだろうか…………いまでも笛を、もの怖ろしげに見つめているのだろうか…………。
その姿をまぶたに浮かべる。垂直に落ちてくるひと筋の水に似た立ち姿、そこはかとなく野性味を感じさせる肌の色、それが引き立てる白い衣服。道の先へまっすぐに向ける眼差しと、吸い込まれそうな暗緑の瞳……。
冷たい水のおもてを思わせるもの静かな声音、木々のささめきのような耳触りの喋りかた…………粛としながらも揺るぎない声で立てた、別れの日の誓い――――――
ティセは目を開けて、はずれの森に消えていく道の先をじっと見据えた。
リュイは誓いを果たすだろう、いつかナルジャへ来るだろう。一片の疑いさえもなく、ティセはそれを信じている。その日を心の底から待ち望んでいる。
いつかそのときが訪れたなら――――――……自分はふたたび残酷になり、なにもかも置いて出て行くだろう。ひとびとの視線を顧みず、ともに歩いて行くだろう。結果をすべて受け止めて背負う覚悟を持てという、母の言葉を胸に刻み込んで――――……。
ご感想、コメント、ブクマ、レビューなど是非ともお待ちしております。