4
ティセの衝撃は甚だしく、動揺はなかなか治まらない。動悸がし続け、震えも止まらない。初めて知った恐怖は内臓を絞り上げるようで、吐き気を耐えながらよろよろと歩を進めた。男の非常な力と、ほとんど抵抗できなかったという事実、荒々しく身体をまさぐられたおぞましい感触が幾度も幾度も頭を過ぎり、恐怖はさらに激しく渦を巻いた。もう過ぎたことにも拘わらず、頭を過るたびに真新しく怖かった。
ちらりとリュイを窺えば、うつむき加減で歩いていた。とても怖い目をしている。なにかを堪えているような強張った顔つきをして、口を固く閉ざしている。かすかに冷気を放っていた。凄まじく怒っているのだとひと目で分かる。
その日の目的地に到着するまで、ふたりは終始無言でいた。
目抜き通りにある小さな宿に投宿した。荷物を下ろして落ち着いたあとも、ふたりは沈黙し続けていた。ティセは部屋の隅で膝を抱え、やや治まったとはいえ、いまだ強い動揺に耐えていた。リュイは目を合わさない。やはりなにか堪えているような緊迫した面持ちで、じっと静止している。静まりかえった室内に、壁掛け時計の針の音だけがやけにくっきりと響いていた。
一撃を受けて横たわった男の姿を、ティセは思い出していた。
男は肋骨のひとつやふたつ折れたかもしれない。同情する気持ちは皆無だが、致命傷になってはいないかと懸念する。ティセの衝撃は、自分が受けた暴力のためだけではなかった。リュイの行為は、とても信じがたいものだった。
男はもう意識を失っていたようだった。それ以上する必要はない。というより、リュイはあきらかにとどめを刺そうとしていた。咄嗟に呼びかけなければ、剣は男の喉を突いただろう。ティセは膝を抱える力をきつくして、頭のなかでつぶやいた。
……どうしてそこまで…………正気なの、リュイ……
否、リュイは正気ではなかった。ゆっくりと上下する震えた肩と、背中に滲ませた殺気がそれを証明していた。正気を失うまで怒りを露わにしたのを、ティセは初めて目にしたのだ。
思い返してみれば、孤児だという嘘が露見したあのとき以来、リュイが本当に怒っている姿を見たことがないと気づく。普段はどこまでももの静かで従順すぎるほど従順なのに、怒りに火が付くと理性を失うのだろうか。その、あまりの隔たりが空恐ろしく、ティセをとてつもなく不安にさせた。
なにをするか分からない――――そんな恐ろしさと、自分のものさしでは計りきれないものを潜めているということを、改めてしみじみと思う。
夕刻の雨も止み、窓の外は闇に沈んだ。時計を見ると、普段ならもう夕食を取り終えているような時刻になっていた。リュイは黙したままだ。食事に出ようという素振りをまったく見せない。ティセはあまりの衝撃に食欲を失っていた。が、リュイを気遣い、長い沈黙を破ろうとそちらに顔を向けた。途端、どきりとする。
到着してからずっと目を合わせずにいたのに、いつからかリュイはこちらを向いていた。目元にも口元にも怒気を湛えて、ティセを見つめている。冷ややかに睨んでいた。
……え……
憎しみがじっとりと滲んでいるような、陰湿なものを覚えさせる怒りだ。目が合っても逸らすことなく、まっすぐに怒りを突き刺してくる。
……どうして怒ってるの……
どう見ても、自分に対しての怒りだった。ティセにはさっぱり訳が分からない。
怒りの眼差しに怯えつつ、沈黙を破る。
「あの……お腹空いたよね……外出ようか」
リュイはなにも返さない。じっと睨んだままだ。
「……あの……」
居たたまれず、ティセは立ち上がった。
「じゃあ、ちょっと行ってなにか買ってくるね……」
昼間のできごとのあとなので、ひとりで外へ出るのは本当は少し怖かった。が、それほどまでに居たたまれなかった。ところが扉に向かうと、リュイもいきなり立ち上がった。その勢いに、ティセは心臓が縮むほど驚いた。
「……!」
そして、いいからおまえはここにいろ、とでも言うかのように、ティセの肩をいやに荒々しくぐいとひと押しし、無言のまま部屋を出て行った。
ばたんと音を立てて扉が閉まる。
…………リュイ…………?
ティセは扉の前に立ちつくし、呆然としていた。
驚くような早さでリュイは戻ってきた。古紙に包まれた軽食をふたつ手にしている。まるで、家畜に餌を与えるような素っ気なさで、そのひとつをティセに差し出した。愛想のなさが少し怖くて、ティセは小声になる。
「あ……ありがとう……」
聞こえたのか聞こえなかったのか、リュイは返事をせずにぷいと目を逸らし、床に胡座を組んだ。顔に怒りを刻んだまま、黙々と食べ始める。
「…………」
あきらめてティセも座り込んだ。さして広くもない部屋で、ふたりは互いを目に入れないようにして夕食を取る。
古新聞の包みのなかは、馬鈴薯の炒め煮をくるんだ平パンだ。まだ温かい。ティセの好物のひとつだが、さまざまな衝撃が重なって、食指が動かないうえに味もよく分からない。それでもなんとか、水筒の水とともに飲み込んだ。
居心地の悪さを耐えながら目を背け合って食べているうちに、ティセは哀しいような悔しいような思いが沸々と湧いてくるのを感じた。ついには熱い涙が滲んできた。ごくん、と飲み込むたびに、涙が込み上げる。その涙をまた飲み込みながら食べた。そうして食べながら、頭のなかでくり返す。
どうして怒ってるの……リュイ……どうして……
昼間のできごとが原因なのは間違いない。余計な心配をかけ、手間を取らせてしまったのを怒っているのだろうか。そうとしか考えられない。確かにそのとおりなのだし、それについては申し訳ないと思っている、助けてくれたのを心から感謝している…………。
けれど――――けれど、自分は被害者なのだ。被害者なのに、そこまで怒るのは理不尽だ…………ティセはどうしてもそう思う。そんなリュイが少しも理解できなかった。
その日、リュイはついにひとことも口をきかなかった。灯りを消して眠りにつくまで、始終冷ややかに怒りを放っていた。
地面に強く叩きつけられて、一瞬息が止まる。間髪を容れず、影がのしかかる。恐怖を象った大きな黒い塊のような影だ。影は目だけを不気味に光らせて、眼前に迫り来る。
……や……やめっ……
全身に痛いほどの圧力を覚え、身動きが取れなくなる。影は見えない手をこちらへ伸ばし、顔面をつぶさんばかりに押さえ込む。ティセは声にならない声で叫ぶ。
……離せ……!
影はますます不吉に濃くなり、光る目は恐ろしさを増していく。見えない手が、荒々しく這いまわって身体を撫でて、弄んでいく。身体と心を蹂躙していく。
……いやだ……!
衣服の釦が次々と外されていく。ふいに、光る目は昼間の男の、あの落ちくぼんだ暗い目に変わる。
やめて――――……!
ティセは目が覚めた。現実の、薄闇に包まれた天井に目を見開く。全身にじっとりと汗を掻いている。眠っていたにも拘わらず、動悸がしていた。喉がひりりと痛む。無意識に悲鳴を上げたのだと分かる。
ひどい夢…………
夜明けにはまだ遠く、窓から目抜き通りの灯りがわずかに差していた。ティセは静かに深呼吸をして、動悸が治まるのを待った。それから、意思に反して触れられた胸元を悔しさと嫌悪の入り混じる思いでもって、そっと触れた。唇を噛みしめる。
隣から、寝返りを打つ音がした。リュイは目が覚めている。驚くほど寝つきがいい反面、わずかな異変でも目が覚めるくらい眠りが浅いという。ティセの悲鳴で目が覚めたのだ。
けれど、なにも声をかけてこない。どうかしたか、のひとこともない。その思いやりのなさに、ティセは少しだけ失望した。
まだ怒ってるの…………
ほどなくして、静かな寝息が聞こえてきた。
リュイの気配とひそやかな寝息をしんみりと感じているうちに、頭のなかに重大なことが思い浮かんだ。というよりは、ほかの衝撃に埋もれたようになっていたが、それは昼間のできごと以来、頭の片隅につねにはっきりと浮かんでいた。ティセにとって重大な哀しみといえるその思いが、リュイの沈黙と夜の静寂に触れてにわかに膨張したのだった。
昼間のできごとは、ティセがもっとも怖れていたことを目に分かる形で明確に示してしまった。――――女であるということを、そういう対象であるということを、これ以上ないほど露骨に赤裸々に、リュイに示してしまったということにほかならない。易々と組み敷かれた恥ずかしい姿が、胸元をまさぐる男の手が、涙の滲む怯えた目が、恐怖で立たなかった足腰が、ティセは女であると証明してしまった。
村での低俗な噂がどうかリュイの耳に入りませんように――――……そう強く願っていたティセが、自らそれを明白にしてしまったのだ。ティセは毛布を頭から被り、きつく目を閉じた。両の目尻から涙が零れ、頭皮の上を流れていく。
……もうおしまいだ……
あまりに哀しくて、心でそうつぶやいた。
あのころのままの存在でともにいることを切望していた。実際リュイがなにを思ったのか知る由もないが、その願いをこれほど最悪の形で自ら砕いてしまったことが、ティセにはなにより重大だった。溜め息も出ないほど打ちひしがれる。
幾度となく重ねてきた言葉が、哀しみに染まった心に浮かぶ。
もしも男に生まれていれば――――……もっと都合よく、もっと理想的に生きられたはずなのに…………――――
ふたたびリュイを起こしてしまわないように、ティセは声を押し殺し、明け方まで泣いていた。
翌日のリュイも寡黙だった。ほとんど口を開かない。冷ややかに黙り込み、目にはやはり憤りを滲ませている。一歩前を行くリュイの横顔を、ティセは恐る恐る覗き込む。いつになったら怒りを消してくれるのか……けれど何度覗いても、目は静かに怒っていた。
丘は延々と連なっている。木漏れ日の揺れる緑の隧道を歩いて行く。昨日と同じような木陰で昼休憩を取った。会話もなく、なんとなく離れて平パンを食べた。腹は満ちたが、パンではなく不満と哀しみでいっぱいになった気分だ。
食後しばらくして、ティセは立ち上がり繁みのほうへ歩いて行った。すると、リュイはようやく口を開いた。
「ティセ……」
振り返ると、リュイはこちらを見ずに横顔を向けたまま、うつむき加減に言った。
「……あまり遠くへ行かないで……」
とても低い声で、つぶやくように。言わずにはいられないといった、焦りのようなものを含んでいた。
「……うん」
ティセは小さく返し、普段とは異なる元気のない足取りで繁みのなかへ入っていった。
リュイはやはり気にしている、とてつもなく気にしている。そして、想像以上に心配している。いまのひとことで、よく分かった。
心配してくれるのはありがたいことではある。が、それはリュイにとって、あのころのままの自分ではもはやないからだ。再会してからずっと考えていたティセの憂慮は、杞憂には終わらずに実現している、その証しとなった。ティセはまた、泣きたいような気持ちになる。
初めて女の子だと明かしたあの日、女なら相棒ではなくなるのかという問いかけに対し、おまえはおまえなのだから――――リュイはそう答えてティセの懸念を蹴散らした。あの言葉を、ティセはいまも信じている。ふたりが相棒でなくなることはない。
けれど、あの奇跡みたいな一年に築いた最高の関係が、どこかに狂いが生じたかのように変容し、同じようでいてまるで違うなにか別のものに成り果ててしまう予感がする。それはきっと、戸惑うほどの違和感と、たまらないぎこちなさを持った、居心地の悪いものであるように、ティセには思えてならないのだ。
塞いだ顔つきをしてリュイのもとへ戻った。リュイはおもむろに顔を上げて、こちらに目を向けた。その眼差しを目にした瞬間、ティセはわずかに違和感を覚えた。
……あれ……?
眼差しは怒りの代わりに、別の感情を宿していた。たとえば、悔しさや済まなさに似たような、そういったわだかまりを覚えているときにする目の表情に似ている。
……リュイ……?
ひとしきり、そんな眼差しを向けていた。
やがて立ち上がり、出発の素振りを見せた。ふたたび目に怒りを滲ませる。ひとことも声をかけずに歩き始めた。
午前中同様に、一歩前を行くリュイの横顔を窺いつつ歩いていた。沈鬱とした憤りを湛えた瞳を、ちらちらと見ていた。ティセは気がついた。
リュイがいま憤りを感じているのは、自分に対してではない――――……?
昨夜はあきらかに自分に対して怒っていた。向けた目は憎々しげでさえあった。引き続き自分を怒っているのだとばかり思っていたが、違うようだ。ほかのなにかに憤りを感じている。ならば、いったいなにに対してそれほど激しく怒っているのだろうか。リュイの気持ちは、ティセには理解も推測もできなかった。
その日は食堂兼簡易宿の屋根裏部屋に過ごした。親子連れが同宿だった。寡黙な若い父親とやたら元気のない男児、読書するリュイと、気を落ち込ませ続けるティセ…………屋根裏部屋は真夜中のように静まりかえっていた。
けれど、ティセは知っていた。リュイはいつものように背筋を伸ばして本に目を向けてはいたが、その指は一枚も頁をめくってはいなかった。憤りを滲ませた目を本に向けつつ、まったく別のことを考え込んでいるようだった。
ご感想、コメント、ブクマ、レビューなど是非ともお待ちしております。




