3
雨季もなかばに差しかかり、すっかり夏めいた。緑は色濃く燃えるように生い茂り、強い日差しを受けて黒々とした影を落とす。陽が西へ傾けば、熱く焼かれた大地を夕刻の雨が急速に冷ます。夕立のあとの雲がもしも夕陽に染まれば、息を呑むほどに美しい。この時季にはごく稀にしか見られない幸運の夕映えが、ティセは大好きだ。
今日の雨は早めに降り始め、早めに止んだ。民家の軒先を借りて雨をやり過ごし、ふたたび歩き出す。夕暮れにはまだ早い空に鮮やかな虹がかかった。ふたりの行く道のちょうど先にだ。虹の緑門をくぐっていくような気持ちになって、ゆっくりと歩を進める。シュウの国境が少しずつ近づいてくる。あの虹のはるか向こうに、シュウの大地が横たわる。
リュイには約二年ぶりの帰郷となる。故郷の方向をまっすぐに見据えるその眼差しは、普段と変わらずに静けさを湛えているものの、そのじつ、どんな思いを潜ませているのだろうか……。
道沿いに見つけた、長椅子ひとつきりの屋台茶屋でひと休み、ティセは尋ねてみる。
「シュウに戻るの、久しぶりだろ……やっぱり嬉しいもの?」
リュイは暫し黙していたが、
「……そうでもない」
ひとくち茶を飲んで、目をとても遠くした。決して辿り着けないところに思いを馳せているかのように、遠く……。ティセはその眼差しを見て、想像する。
シュウへ戻ればセレイに会える、それはとても嬉しいだろう。けれど帰郷それ自体は、リュイをさほど嬉しくさせないのかもしれない。いずれにせよ、出身地である北部には行けないのだ。あの遠い眼差しは、もう帰れない北の村を見つめているに違いない。リュイはなにも言わないけれど、本当は、本心では、帰りたいのではないだろうか。待つひとはおろか、自身を憎むひとしかいない場所であっても、記憶の海のもっとも深いところにその場所はあるのだから……。そして、たまに夢に見るという、生家に立つ沙羅の大樹を、もういちど眺めたいのではないだろうか。
硝子の湯呑みを唇に軽く当てたまま、リュイは遙か遠くを見つめている。翳を濃くした横顔を目の端に留めて、ティセは胸に切なさを溜めていた。
道は丘陵地帯に入った。なだらかな坂道が木立のなかを延々と続いている。緑の隧道を抜けて行くと、やがてこぢんまりとした集落に辿り着く。ものめずらしげにこちらを眺める住民に会釈をすれば、鄙びた笑顔が返ってくる。そうして、ふたたび緑の隧道へ吸い込まれる。そんな数日が続いていた。
休憩を取るのにちょうどよい木陰を見つけ、集落のはずれで昼食を取った。平パンと山羊の乾酪の昼食は、親切な老農婦からのいただきものだ。
リュイは食後の読書を始め、ティセは辺りを散策する。繁みの奥にひとが踏み締めてできたような小道を見つけた。ちょうど尿意を覚えたので、灌木の茂るその道の奥へとひとり足を踏み入れた。
繁みに隠れてそっと用を足したのち、なんとはなしにさらに奥へと歩を進める。ほどなくして、丘の頂上へ出た。周りの木立がまばらになり、辺りの風景が眼下に広がった。緑に覆われた丘がいくつも重なり合うように連なっている。麓には村が見えた。緑のなかのそこここから、細長い煙が上がっているのは、そこにも小さな集落がある目印だ。
「なかなか良い景色!」
ティセは両手を腰に当て、麓の村を見つめた。はずれの丘……ナルジャで一等お気に入りのあの丘に、ここは似ている。
母さん……元気かなあ……
次々と親しいひとの顔が浮かぶ。ラフィヤカはきっと母を訪ねてくれている…………校長は不在時に旅へ出たことをまだ怒っているだろうか…………カイヤもたまには自分を思い出してくれているだろう…………束の間、心はナルジャに還る。味方も、そうでないひともいる、けれど愛すべきあの村に――――……。
ひとしきりナルジャに思いを馳せたティセの脳裏に、はるか遠い北の村を見つめるリュイの眼差しが、ふいに浮かんだ。丘の頂に切ない風が吹き抜けた。
やにわ、ひとの気配を感じた。ティセは少々どきりとして振り返る。自分が来た道ではない方向に、いつの間にやらひとが立っていた。近隣に住むいち農夫といった風貌の、二十代後半と見られる男だ。痩せてはいるが、労働で蓄えた立派な筋肉を肩や二の腕に付けている。
男のほうでも少し驚いたように目を見開いた。
「なんだ……男かと思ったら、女か……」
低く独りごちた。男の落ちくぼんだ目元は暗く、愛想のない目つきにティセはなにか厭なものを感じたが、
「……こんにちは」
礼儀として小さく挨拶をし会釈した。男は黙っている。ますます厭な感じを覚えた。
早く戻ろう、ティセは来た道のほうへ向かった。すると、男は足早に近寄ってきた。ティセのすぐそばに迫ると、ニヤリと気味の悪い笑みを浮かべ、
「女なら金より身体だ」
ティセははっとする、心臓が大きく鼓を打った。拳銃を装備していることなど頭にも上らず、ほぼ同時に駆け出した。が、すぐさま男に左腕を取られてしまう。
「……!!」
そのまま、雑草に覆われた地面へ、力任せに引き倒された。
「――――――――……っ!!」
どんな声を発したか、自身も定かでない悲鳴を上げた。男はティセに覆い被さり、非常な力で押さえつけようとする。
「や……やめっ……」
死にものぐるいで激しく抵抗する。男の肩を押し、顔や頭をなりふり構わず叩きまくり、どうにか逃げようと身をよじる。頭のなかでは危険な色の光が、眩暈を引き起こす勢いで点滅していた。かつて感じたことのない種類の恐怖が身体の奥から噴き上げて、ティセを一瞬で支配した。
「は……離せ……!」
肩を押さえつけてくる男の腕を掴み、ありったけの力で押し返そうとしても男の腕はびくともしない。
どうしても男の下から逃れられない。ますます動悸が激しくなり、恐怖に突き上げられる。男はティセの身体を服の上から荒々しくまさぐり始める。右の胸の上に、穢らしい手のひらの感触を覚えた。
「や……触るなっ……!」
ふたたび大声を上げる。男はいらだちを露わにして、
「騒ぐと殺すぞ……!」
声を凄ませ、ティセの口元を右手で強く押さえつけた。後頭部が地面にめり込むような容赦ない力だ。口元と後頭部に強い痛みを覚える。
「……うぅ……」
その手は同時に鼻も塞いでいた。息ができない。苦しさのあまり、ティセは抵抗する力を見るまに失っていった。
……いやだ……
右胸をまさぐる手のひらの感触をはっきりと意識して、目に涙が滲み始める。
男は口を塞いでいた手をいったん離した。ティセは息を吸い込むだけで精一杯、離したその手が胴着の釦を引き千切る勢いで外しても、阻止する力はもはやない。恐怖が全身の筋肉を強張らせていた。手も足も自由に動かせない。眼前の恐怖から逃れるように固く目を瞑り、必死に呼吸しながら、か細い声で停止を訴える。
男の手は興奮で大きく震えている、その手が襟もとにかかったとき――――押さえつけられていた身体が、急に軽くなった。
「……!?」
咄嗟に開けたティセの目に、白の脚衣と軍靴に似た長靴が映る。逆光を受けて立つリュイを見上げた。
やや離れたところに、リュイに蹴り上げられた男が仰向けに転がっている。渾身の一撃を受けて、すでに意識を失っている。
「リュ……」
呼び声を無視し、リュイはティセを飛び越えて、男に向かう。そして、なんのためらいもない手つきですばやく長剣を抜き――――――男の喉をめがけて垂直に振り下ろした。
心臓が縮み上がるまでに、はっとする。
「リュイッ……!!」
背筋に冷たいものが走り、ティセは目玉が零れるほどに目を瞠る。
時が止まった。男の喉の上、宙に停止した切っ先は、けれどゆらゆらと上下している。リュイは肩で息をしていた。ゆっくりと、震える肩を上下させ、その姿勢のまま、横たわる男を見下ろしている。
小鳥のさえずりも葉擦れも、なにもかもが止んで静まりかえった気がした。真昼の暖かな空気が凍りつき、霜の降る夜のごとく張りつめた。ゆらゆらと上下する切っ先が、清冽な光を放っていた。
ティセは目を瞠ったまま、リュイの後ろ姿を呆然と見つめていた。どんな表情をしているのか、まるで見えない。が、上下する肩と背中に滲む濃い殺気が、猛り立つその内側をはっきりと表していた。
やがて、リュイは肩の震えを止めた。長剣を鞘に収めて振り返る。半身を起こしたものの立てないティセに駆け寄って、しゃがみ込み、眉根を寄せ苦しげな声で呼ぶ。
「ティセ……」
動揺を隠しきれない顔つきと声だ。
リュイの顔を見た途端――――もう大丈夫……――――ティセは安堵と確かな心強さに貫かれた。恐怖に硬直していた筋肉が緩み、代わりに全身がぶるぶると震え始める。目は怯え、涙は滲んだまま、衝撃による吐き気が込み上げる。
ようやく出した小声で、
「リュイ……大丈夫、怪我もない……」
「……意識が戻る前に、早く立ち去ろう」
「うん……」
うなずいたものの、心も身体も動揺していて足腰がまともに立たない。無残な様子を見て、リュイはますます動揺を深めたように、さらに眉を寄せる。
「ほら立って、ティセ……」
手を差し伸べられて、ようやく立ち上がる。そのまま手を引かれ、足をもつれさせながらその場を去った。去り際、リュイは横たわる男を振り返り、忌ま忌ましさに満ちた目で一瞥した。
荷物を背負い、逃げるように去った。




