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解放者たち 第二部  作者: habibinskii
第三章
15/71

1

 小川のほとりに立つジャガランダの木の下で、昼下がりの休憩を取る。澄んだ水面に木漏れ日が反射してきらきらと輝き、頭上ではカッコウが鳴いている。おやつの揚げ菓子で、ふたりは小腹を満たす。

 リュイは小川に目を向けながら、子供の拳ほどもある大きな揚げ菓子をゆっくりと口にしている。甘さに安堵しているように、顔に情緒を滲ませて。相変わらず甘いものが好きなのだと、ティセは心でニヤニヤしていた。そういう自分も相変わらず、揚げ菓子をたった三口で食べきってしまっていた。


 例の首飾りに隠されていた手紙に、ティセは改めて目を通している。

「……愛に満ち溢れた僕らの未来を、誰にも邪魔させないために…………だって。…………こんな臭い手紙よく書けるよなあ。母さんは素敵だわぁ、なんてうっとりしてたけど、全然分かんない。冗談としか思えない。誰か好きなひとでもできたら、こんな手紙簡単に書けるようになるのかな…………ねえ、おまえ分かる?」

 呆れと感心が半々の眼差しでリュイを向く。リュイは曖昧に微笑んで、

「さあ……」

 小首を傾げた。

「そうだよな、分かんないよな」

「もしかしたら、ものを書くのが得意なひとだったのかもしれないよ。小説のなかで読むような文章と似ているもの」

「そういえばそうかも! そこらへんの普通の男が書く手紙じゃないよね、これ」

 秘密の手紙と謎の宝物については、いまはまだ調べられることがなにもない。いずれシュウやランタリアで探ってみるつもりでいた。


「そういや、セレイに出した手紙、もう届いたかなぁ」

「どうだろう……読んだらきっと驚くだろうな……」

 言って、瞳に感傷を浮かべる。けれど、口元はかすかに笑んでいる。

「そりゃあ驚くよ! 驚いて、喜んで…………それから心配するだろうな」

「……心配?」

 ティセはやや真面目な声音になり、

「そ。おまえに会えるのは嬉しいけど、シュウにいるのは本当はとても心配だって、前会ったとき言ってたから」

「…………」

 リュイは感傷の色を深くした。そんなリュイに、ティセは故意にふざけた調子で言う。

「さ、そろそろ行かないと。おまえ食べんの遅いから、急がないと雨降ってきちゃうよ」

 途端に感傷の色を消し、

「おまえが早すぎるだけだ」

 度を過ぎる早食いを窘めた。

 次の集落を目指してふたたび歩き出す。シュウへの国境はまだだいぶ先だ。




 先日の病から完全に抜けて、体調は万全、ティセはいつもの元気と食欲を取り戻した。いまになってみれば、死すら過ぎったあの苦しい一昼夜は夢だったのではないかと首を傾げたくなる。実際のところ、目覚めてしばらくすると見た夢をよく思い出せないのと同じように、ティセはあの日のことをはっきりとは覚えていないのだった。ずっと意識がなかったわけではないのに記憶はひどく断片的で、ところどころは完全に記憶になく、うまく繋がらなかった。


 よく覚えているのは、歩けずにすがりついたリュイの左腕の温かさ、抱きかかえてくれたときのその身体の温かさだ。耐えがたい寒気に震えていたティセにとって、リュイの体温の高さは救いのようだった。たとえば吹雪のなか、ようやく暖かな家に辿り着き身心が急速にほどけていくのに似た安らぎを感じていた。

 そして、自分を抱きかかえた両腕は、なにがあってもびくともしない、決して落としたり離したりはしない、疑う余地など微塵もないほどに堅固で、ティセは苦しみのさなかにも拘わらず、静かな安心感に包まれていた。

 リュイはやはり、剣を抜かずともいつでも自分を守っているのだと、十四のころとまるで変わらずに思う。ただ黙りがちにそばにいるだけで、ティセは心強さに貫かれる。


 具合が悪くなってしまうほど心配してくれた。申し訳ないのと同時に、ティセは素直に嬉しかった。リュイにとって自分はそれほど特別の友人であると、自信を持って思えることが心の底から嬉しかった。あのころのままに――――……そう強く願っていたが、もしや自分たちはあのころ以上に、このうえもない相棒になりつつあるような気さえしてくるのだった。








 ボホーマは久しぶりに大きな町だった。東西、南北に大通りが走り、商店や食堂、会社などが櫛比している。ふたつの大通りが交差する町の中心地には異国風の瀟洒な時計塔が高くそびえ、遠くからでも目に入り、地理に疎い旅人にとっては便利な目印になる。通りも裏道も多くのひとが行き交い、ロバ車が走り、荷車が掛け声とともに駆けていく。


 しばらくは寒村ばかりが続く寂しげな地を歩いていたため、ティセはその喧噪に目が回りそうになっていた。ぼやぼやしていると、

「どいたどいた!」

 布地を万載にした荷車がすぐ脇を駆け抜けて、

「わああっ!」

 危うく跳ねられそうになるところを、リュイが咄嗟に引き寄せてくれたおかげで免れる。

「あーびっくりした!」

「周りをよく見て」

 右手首を掴んだまま、リュイは冷ややかに言う。その握力は痛いほどで、引き寄せる力もはっとするほど強かった。

「ごめーん」

 走り去る荷車を見遣ると、万載の荷物の向こうにトルクを巻いた荷運び夫の頭が見えた。トルクの裾が小気味よく跳ねている。この町にはイブリアが少なくないようだった。





 適度に安い宿を探し当てて、ひと息つく。宿の主人は年配で、やはり当惑と非難の交じった眼差しでふたりを眺めたが、ティセはもういちいち気にするのを止めていた。堂々としていればいい…………さっぱりとした笑顔でそう言ったあの(ひと)の言葉どおりにだ。


 水浴びと洗濯を済ませると、いい具合に腹が減ってきた。客室の窓から見える空はいまにも雨が降り出しそうに暗い。

「ねえリュイ、夕飯はさっきの食堂に行ってみない?」

「鶏が回っていた店のこと?」

 通りがかった店の先で、棒に刺した数羽の鶏が炭火の上でぐるぐる回されながら炙られているのを、ティセは足を止めてたまらない思いで眺めていたのだ。

「そう! めちゃくちゃ美味そうだったよ。いまから行けば食べてる間に雨が降って、帰りには止んでるだろ、きっと」

「……そういえば、ここしばらく肉を食べていない」

「だろ? 肉、肉! そうと決まればさっそく出よう、雨が降り出す前に!」

 リュイは生乾きの長い髪を無造作に束ねた。



 思惑どおり、店に到着したのと同時に大雨が降り始めた。殺風景な店内、いちばん隅の席へつき、一羽の焼き鶏と平パンを注文した。

 こんがりと焼けたたっぷりの肉塊を挟んでリュイと向かい合う、ティセは御満悦だ。

「ちょっと贅沢すぎたかなぁ……ま、いいよね、全快祝いってことで」

 にこにこ顔のティセを、リュイは呆れたように笑う。

「……自分で言うこと?」

 肉塊をちぎりあい、酸味と辛味のあるタレに浸して平パンとともに食す。穀物と野菜だけの食事では味わえない満足感に浸る。戸口の外では大雨が石畳を叩いていた。

 ティセはふと目を上げて、もの静かに咀嚼するリュイの様子をなんとはなしに見据えた。


「おまえ、いつのまにかずいぶん人間らしくものを食べるようになったな」

「…………それは、なに?」


 気に入らない発言を耳にしたように、不服げに返した。

「だって、前はもっとつまんなそうに食べてたもん。食べものの味が分からないとしか思えなかったよ」

 いまでもさめやかに行儀良く食しているけれど、隙も無駄も迷いもないような以前の食べかたとは違い、味わっている、愉しんでいるという雰囲気がそこはかとなく伝わってくる。甘いものを口にしているときに近くなってきているのだ。

「…………」

「ようやく俗っぽくなってきたな」

 先日と同じことを、ティセはニヤリとして告げた。



 食後の水を飲み終えれば、計算どおり雨はすっかり止んでいた。ふたりは湿り気を帯びた夜気のなかを宿に向かって歩いた。

 目抜き通りの商店の半分はすでに閉店し、人出はだいぶ減っていた。石畳に残る水溜まりに街灯の青白い灯りが寂しげに反射している。家路を急ぐひと、これから遅めの夕食に出かけるひと、夜遊びをしに来た青年たちなどが、大きな水溜まりを除けながら歩いていた。横道を覗けば、水商売の女や客引きたちが息を潜めるように佇んでいるのが見える。


 ある横道の近くに差しかかったときだ。数軒奥の酒場から若い女の金切り声が上がり、目抜き通りを歩くふたりの耳に届いた。

「そんなものいらないわ! 帰ってちょうだい! もう二度と来ないで! 今度来たらひどいわよ!」

 ほどなくしてその横道から、やせ細った三十路の男がひとり、大通りへ抜けてきた。シミと皺の多い衣服を纏い、右手に桃の入った篭を提げ、足を少々引きずって歩いている。偏屈さが如実に表れたような険しい顔をして、ぶつぶつと文句を唱えいらだちを露わにしていた。酒に酔っているのは、鼻の頭と頬の赤さを見ればあきらかだった。

 男は大通りに出た途端、石畳のわずかな段差に足を取られて派手に転倒した。どん、と鈍い音を立て、濡れた石畳に全身を強く打ち付けたようだった。ちょうど、リュイのすぐ前方だ。手にしていた篭が飛び、瑞々しい薄紅の桃が数個、ころころと辺りへ転がった。ティセは慌てて篭を拾い上げ、辺りに散らばった桃を集めていった。


 男は痛みのためか、深い酔いのためか、少々不自由な足のせいか、あるいはそのすべてのせいで、石畳から起きようと足掻くがなかなか足腰が立たないでいる。

 リュイは暫し男を眺めていたが、

「……立てますか?」

 手を貸そうと男の前に屈みかかった。すると、


「俺に触るんじゃねえ!!」


 咆哮にも似た怒声を上げた。瞬間、差し伸べたリュイの右腕が強張ったのを、ティセははっきりと見た。

 男は無様に尻餅をついたまま、なにか忌まわしいものでも見るような目つきでリュイの顔を見上げている。そして、憎悪と侮蔑の籠もった濁り声で、


「イブリアの世話になんかなるか!? え? 穢らわしい! さっさとあっち行けや!!」


 ちょうど辺りに人影はなかった。が、ティセはまわり中が静まりかえり、すべて凍りついた気がした。屈んだまま身動きを止めたリュイの後ろ姿と、敵意の刃を突き刺す男を呆然と凝視する。

 シン、という音のない音が束の間辺りを支配した。


 やがて、男はよろめきながらもどうにか立ち上がると、ティセを向き、

「よけいなことしやがって……そんなもんもういらねえよ!」

 濡れた石畳に唾を吐き、覚束ない足取りでふたりが来た道を去っていった。ふらふらと揺れ動く肩が小さくなっていくのを、ティセは胸の内を冷たくさせて見送った。

 リュイはうつむき加減に、身じろぎひとつせず立ちつくしている。背中も肩も腕も、すべてが硬直して見える。青ざめた心を映すかのように、街灯の灯りがその白衣を青白く染めていた。

 ひどく声をかけづらかったが、ティセはそっとリュイに近寄った。「なんだよ、あれ……」と同意を求めるような口調で愚痴を言いかけて、


「――――!」


 開いた口を咄嗟につぐむ。ティセははっとした。リュイは零れそうなほどの傷心の色を顔に浮かべていたのだ。暗緑の瞳を瞠り、そこに深々とした痛手を湛えている。ばさりと裂かれた心が目に見えるように瞭然と。ティセは男の心ない発言を耳にしたとき以上に、硬直した。


 …………リュイ…………


 ティセは思い出していた。ラフィヤカの平手打ちを受けたあとの、リュイの顔つきを。あんたなんか来なければよかった………ラフィヤカはそう叫んだ。あのときも、リュイは見ているほうが心痛を覚えるほどに傷心を露わにしていた。まるで同じだ。いま、その傷に少しでも触れようものなら、心は敢えなく砕け散り、ばらばらに壊れてしまいそうに思えた。

 なにも声をかけられない。桃の篭の持ち手をきつく握り締め、しばらく立ちつくす。



 夜遊びに来た青年たちが賑やかに談笑しながら、ふたりのそばを通り過ぎた。それをきっかけに、ティセはようやく、なにもなかったように声をかけることができた。

「……行こっか」

 リュイはおもむろに瞬きをひとつした。傷心の色がふっと消える。

「ん……」

 いつもの鼻音で返した。








 宿は寝静まり静寂に包まれた。ときおり、往来から酔っぱらいのだらしない声がするのと、野良犬の遠吠えが聞こえる以外はなにも耳に届かない。ティセは布団に横たわり、暗い天井をじっと見据えながら、先ほどのことを考えていた。


 見るからに偏屈そうなあの男は、きっと誰に対しても当たりが悪いのだろう。が、とりわけこの国では少数派であるイブリアに、おそらく偏見を抱いているのだ。あるいは、個人的に強い恨みを持っているのかもしれない。金切り声を上げた酒場の女に一方的に想いを寄せていて、桃を贈ろうとして手ひどく拒絶され、憤りのさなか、イブリアであるリュイに情けをかけられて逆上した――――おおかたそんなところだろう。

 裂かれた心をそのまま映し出すリュイの瞳が……その顔つき、佇まいが、幾度も頭を過ぎる。過ぎるたび、胸のなかが黙っていくように感じるほど、ティセはしみじみと驚いてしまうのだった。


 以前のリュイは、あんな表情を見せはしなかった。旅をしていれば、余所者への不信感や嫌悪感からか、すげなく拒否されたり悪意を向けられたりすることはまれにある。けれど、そんな理不尽な仕打ちに遭遇しても、リュイはいつでも冷ややかな眼差しを保ち、まるで心に響いてなどいないようだった。それはある意味、心の鈍さを感じるまでに……。エトラとその母親からひと売りの組織に売られたのを知ったときでさえ、少しも動揺していなかった。


 確かにリュイは、以前と比べると少しばかり人間味を増している。いまは知らないリュイがその内側にいる。再会してすぐにそれを感じたが、ティセがもっとも驚いているのは、呆気なく、且つ深々と傷ついてしまうという、新たな一面だった。


 その生い立ちと罪を知ったあと、それまで自分が思っていたような強いひとではないのだと気がついた。触れるほうが怯え、戸惑ってしまうほどの弱さを、その心の中心に隠していることを知った。再会までの二年の間、リュイの内側は少しずつ温かみを増してほどかれていったのだろう。たとえば硬く凍りついていた雪塊が溶け始めて、指が突き通るほどぐずぐずになるように。そうして心の中心を守っていた、雪の固まりに似た堅固な壁が脆くなり、脆弱な中心をたやすく露わにさせてしまうのかもしれない…………。

 天井を覆う薄闇に、ティセはいっそう目を澄ます。


 そう――――リュイは自身を強く憎み、自己嫌悪の闇にいたのだ。以前ほどではないとしても、いまでも自分を厭わしく思っているはずだ。そこここに漂わせる翳はいまだ消えていない。相変わらず、暗さを引き摺って歩いているように見えることがある。

 嫌悪の心に囚われているリュイはおそらく、自身を肯定することができない――――……それはつまり、自信や自尊心といったものを人並みに持つのが難しいということだ。他者から拒絶されたり悪意を向けられたとき、ひとは通常そういったもので心を守る。守れなかった分だけ、心に傷を負うものだ。そういったものを持ちづらい……もしや持たないリュイは、心を少しも守れない。拒絶や悪意の刃に、ばっさりと呆気なく裂かれてしまうのだろう。刃を向けた相手すら驚いてしまうほど簡単に。


 リュイはとても強いのに、別の意味ではひどく弱いのだと、ティセはますます深く思った。そして、そんなリュイに対して、空恐ろしいものを感じずにいられなかった。


 静かな窓辺には桃の篭。街灯のかすかな灯りを受けている。篭のなか、行き場を失った桃たちは息を潜めるように身を寄せ合い、ほの甘い香りを放っていた。








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