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午前中に往診に来た医師はティセの診察のみならず、リュイをも診る羽目になった。立ちくらみや倦怠感、胃の痛みと食欲不振などで、誰の目にも分かるほど参っていたからだった。
むすっと口を曲げた医師は、やれやれ声でリュイを叱る。
「心配し過ぎだ! そんなに心配する必要はないと言ったろうが。看病人が看病されてどうする、莫迦者!」
尼僧も呆れ半分に微笑んで、
「夕食も朝食もお取りにならないんですもの。水さえお飲みになってはいないのでしょう? ご自分も大切になさらないと罰が当たるものですよ」
リュイは部屋の隅へ敷いた布団に俯せに寝たまま、小さく返す。
「すみません……」
寝椅子の上で、ティセは申し訳なさそうに眉尻を下げつつも、くすくすと笑っている。病み上がりの弱々しさをどことなく漂わせてはいるものの、すっかり生気を取り戻し、黒い瞳は瑞々しく輝いている。憔悴を顔にありありと残しているリュイとは対照的に見えるくらいだ。
「リュイ、ごめんね。そんなに心配してくれたの……ありがとね」
さっぱりとした微笑みを向けるティセに、返せる言葉が見つからず、リュイは小さく溜め息をつくだけだった。
ふたりとも不調のため、もう一日だけ寺院の世話になった。例の少年が甲斐甲斐しくふたりの世話を焼いた。ティセの発疹は夕刻にはほぼ消えて、いったいなんだったのかと首を傾げたくなるほど、元気を取り戻していた。リュイは医師の処方した薬が効いて、胃の痛みが改善し、やはり夕刻には体調を取り戻した。
寺院が寝静まったあと、リュイは布団からそっと半身を起こした。ティセの寝ている寝椅子のほうを、暫し漫然と眺めていた。やがて、音を立てずに立ち上がり、昨夜のように寝椅子の横の腰かけにそっと腰を下ろした。
窓から月の光がちょうど差していて、眠るティセをひそやかに照らしている。仰向けに、顔をこちらへやや傾けて、月影に陰影をつけている。胸の辺りまで毛布を引いて、肩は出し、左右の手を胸の上に重ねている。静かな寝息と同時に、かすかに胸の辺りを上下させている。
リュイはその顔をじっと凝視する。
眠りについたティセは、目覚めているときとは雰囲気を異にしている。見る者をたじろがせるほど強い瞳をまぶたの裏へ隠し、初夏の日差しを纏う代わりに、涼風に揺れる一輪の秋桜のようなしおらしさを漂わせる。穢れを知らない少女を内側に秘めているかのように、いたいけに見える。なにかの間違いかと瞬きをくり返したくなるほどに、果敢なく頼りなげに映る。可愛らしいと素直に思う。
時を忘れて、ひたすらに眺め見る。やわらかく閉じたまぶたを、ときおり震える睫毛の先を、桃の果肉によく似たきめ細かい頬と、その瑞々しさを。触れたら壊れそうなほど繊細なこめかみを、ほんのわずかに開かれた薄紅の唇と、そのどうしようもなく無垢な風情を。月明かりを受けてあえかに光る産毛の清浄さを……――――息を凝らして見つめていた。
さめやかに、無表情に見つめ続ける、けれどその暗緑の瞳の奥は、湿り気を帯びていた。薄い硝子の表面をうっすらと水滴が覆うように、濡れていた。
この娘を愛しているのね――――……問われ、なんのためらいも疑問もなく、ずっと前からそうであったのを知っていたかのように、はい、と答えた――――……。
それ以外の返答はありえなかった。確かなものをいまだ持たない自分の内側から噴き出した、揺るぎない返答だった。
唐突に本心に気づき、気づいたときにはすでに飽和を超えて溢れ零れ落ちている。かつて、ハジャプートの施設を出る決意をしたあのときと、まるで同じだ。堰を切り、噴煙のように噴き上げて、自分を追い立てる。にわかに知った本心に、その激しさに翻弄されて、口を閉ざして従うしか道がない――――……あのときとなにも変わらない。
昨夜ほど見苦しく、恥ずかしげもなく取り乱したことはかつてない。けれど、想いに気づいてみれば、未知の本心に無自覚に従ったまでだということが、リュイには納得できるのだった。
いま目の前に眠るひと――――これほど大切なものは、ひとつもない、なにひとつ――――……。
自身を大切に思ったことのないリュイには、命よりもという耳慣れた言いかたができず、どのくらい大切なのか自分にうまく説くことが難しい。それをひどく歯痒く思う。ひとつ確かに言えるのは、妹セレイを特別に思う気持ちを遙かに凌いでいるということだった。ティセの大切さと愛しさを思えば、リュイはもはや、呆然と宙を見つめるよりほかはない。
それでは、この想いはいったいいつからなのだろう――――……。甚だ疑問に思う。
ティセという存在に強い憧憬を抱いていると、ザハラの庭の大木の下で知った。しかし、別れる前日まで、ティセを少年だと思い込んでいたのだ。そのうえ再会するまで、どうしても事実を信じ切れずに半信半疑でいた。ナルジャに歩を進めながら、男であるのを心から願っていたほどなのだ。
ならば、再会してからにわかに愛しさを募らせたのだろうか…………それは違う。何故だろう、それは違うと、リュイには断言できた。はっきりと分かる。ずうっと以前から、ティセを愛しいと紛れもなく思っていた――――と。
もしや、男でも女でもないところで、ティセ・ビハールという存在に憧憬を抱き、心を震わせ、愛しさを募らせていたのかもしれない…………そう考えればもっとも納得がいくように、リュイには思われた。
けれど、いま全身から溢れ零れ落ちている想いは、近しい者へ向ける性を問わない友愛の類では確実になかった。横たわるティセの頭から、毛布に包まれた足の先まで、リュイは途方に暮れる思いでゆっくりと視線を移していった。そして、きつく目を閉じて、熱く震える溜め息をひとつ漏らす。
まぶたに、頬に、唇に…………触れたい。首筋や耳の後ろ、うなじに、触れたい。衣服の下に隠されている、見たことのない素肌に…………右の手のひらが記憶したふくらみや、二の腕の内側の滑らかなところへ、触れてみたい――――……この指先と、唇で…………。
生まれたての小動物を手のひらのなかにそうっと包み込むように、この両腕でやわらかく包んでしまいたい。あるいは、その意地も骨も折るほどに、きつく抱きしめてしまいたい。腕のなかで淡く染まっていく素肌と、小鳥のようにか細く震えるさまを見たい。まだ聞いたことのない切ない声を、聞きたい。ティセのまっさらな身と心に――――……触れたい。
そして――――ほかの誰にも、触れさせたくない。指の先ひとつでも誰かが触れたなら…………頭のなかでつぶやいてみただけで、震えが走るほどの怒りが突き上げた。
身体の奥底から熱を孕んだ疼きが込み上げて、体内がずくんと脈打った。自分では止めがたいその疼きを、リュイはかつてない露骨さで感じていた。ずくずく、どくどくと疼いている。たまらずに視線を外し、薄闇の一点に目を向ける。
十五のころのあの日、ザハラに問われ、思うままを覚束ない調子で答えた。
……義務も価値も関係なくて、自分の身を守れない友人を、僕が守ろうと思う……
ティセの母親にした重たい約束は、不思議なことに、昨夜は少しも頭を過ぎらなかった。それは、義務よりも価値が大きいことの証しだ。義理や義務はないし、価値など分かるはずもない……十五のあの日そう考えたリュイは、しかしいま、義務も価値も確実にあるのだった。圧し拉がれるほど重い義務と、言い表せないほど大きな価値が…………。
義務と価値が、息を詰まらせる。露骨な疼きが、リュイを責め立てる。こんなことになるとは少しも思っていなかった…………甚だ驚き、当惑する。
本心に触れたリュイの胸に、明瞭な意欲が漲っていた。それは湧水のようにこんこんと湧き上がり、全身に満ち満ちる。
いまいちどティセの寝顔をじっと見据える。月明かりに睫毛が影を落としている。安らかな目元を見つめながら、リュイは心のなかで囁いた。
――――おまえを、全力で守る――――――
それは、母親に約束したときとは違い、覚悟ではなく、意志の表明だ。
【第二章 了】
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