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しばらくたったころ、誰かが戸を叩いた。謙虚さに満ちたもの静かな叩きかただった。
「失礼します」
戸が開いて、医師を呼びに行った少年がやってきた。両手に盆を抱えている。円満柔和な顔に、あどけなさの残る笑みを浮かべている。
「お腹が空いたでしょう。どうかお召し上がり下さいって、尼僧さまが」
小振りの盆の上には、こんな田舎の小さな寺院の夕餉にふさわしい、慎ましき食事が用意されている。
目を向けるだけで言葉を返さないリュイを見て、少年はさも痛々しげに眉尻を下げる。暫し黙していたが、窓の下に置かれた古い整理棚の上に盆を置くと、リュイの横にそっと寄り添うように立った。ティセを見つめて、控え目な言葉つきで尋ねる。
「……お兄さんの恋人ですか?」
リュイは静かに首を横へ振る。
「……友人だよ」
「そうですか……。それなら、とっても仲良しなんですね」
ゆっくりと、次はうなずいた。
少年は、悄然と椅子に掛けるリュイに目を向けて、
「尼僧さまたち、とても心配してますよ。お姉さんのことはもちろんだけど、お兄さんのことも……」
「……僕を」
「そうです」
「…………」
「食べないと身体に毒ですよ」
言い残し、少年は一礼をして去っていった。
整理棚に置かれた盆に目を向ける。時間的に空腹であるはずだが、まったく感じない。湯呑み一杯の水さえも喉を通りそうにない。どころか、怖れと不安と緊張による、わずかな吐き気すら覚えていた。
静まりかえった室内は、まるで憂慮に満たされた空井戸の底だ。やわらかなランプの灯りの下、屏息しきって、意識のないティセを見守り続けていた。致死率という恐ろしい言葉が、息もできないほどにリュイを圧迫していた。
集落の誰もが眠りにつくような時刻になって、ティセの呼吸が落ち着いてきた。赤みを帯びていた顔に白さが戻り、ただ静かな眠りのなかにいるような状態になった。医師の話していた小康状態が訪れたのかもしれない。
このまま病を消し去って、なにもなかったように目を覚ましてほしい。そして、普段のとおり明け透けにものを言ってくれればいい…………呆れ返るほど不敵に笑ってくれればいい、心からそう願う。
やがて、ティセはうっすらとまぶたを開けた。リュイは冷え切った胸のなかに、ほんの小さな灯りが灯ったように感じた。
少しだけ身を乗り出し、ほとんど息だけの声で、
「ティセ」
囁いた。
天井の薄闇に弱々しげな視線を向けたまま、ティセはひどく頼りなげな仕草で、布団のなかから右手を宙へ差し伸べる。リュイはその手を右手で握り締めた。色合いの異なるふたりの手を、ランプの灯りがほのぼのと照らす。
ティセは唇をかすかに震わせて、まるで芯の通らない声で、
「……リュイ…………いるね」
「ん……いる」
強さを失った黒い瞳を見て返す。
「……よかった…………ひとりなら、どうしようかと思った……」
「……旅が終わるまでは……いつでも一緒にいる」
「そうだったね…………いつかの誓いのとおりだ……」
ふうっと微笑んで、ティセはまたまぶたを閉じる。静かな眠りへと、ゆっくり落ちていったようだ。
いつかの誓いを思い出す。おまえの旅が終わるまで、もう決してひとりにしないと、まだ若い沙羅樹の下で誓いを立てた。あの誓いは、いまふたたび有効だ。
…………だからティセ、必ず良くなって、僕に誓約を守らせて――――……
右手を握り締めたまま、静かな寝息を立てるティセを見つめていた。
小康状態の安らかな様子を長いこと眺めていた。リュイは少しばかり気を持ち直した。食欲は変わらずなかったが、温かいものを口にして安堵したくなった。荷物からアルミの湯呑みを取り出し、ランプを手に部屋を出る。
空はすっかり晴れ上がり、雨に磨かれて満天の星だ。建物を回り、尼僧たちの部屋の扉を過ぎると、外壁に沿って作られた厨がある。屋根だけが付いている質素な厨だ。土を塗り固めた小さな竈に火を熾して薬缶を掛け、一杯分だけの白湯を沸かす。
ほどなくして、薬缶の口から湯気が上がり始めた。竈の火を消して、台の上に置いた湯呑みに湯を注ぐ。そして、湯呑みの取っ手を持ち上げた、その数秒後――――……。はしなくも、取っ手と本体が外れてしまった。湯呑みは地面に落ちて、カァンと鋭い音を立てる。白湯は跡形もなく土に吸い込まれた。
「――――……!」
途端、途方もなく悪い予感に貫かれる。リュイは金縛りさながらに硬直した。目を見開き、息をも止めた。
不具合など少しもなかった湯呑みが、突然壊れてしまった。それは、毎朝ティセが自分に白湯を入れてくれる湯呑みだ。――――――まるで、もう必要がないのを悟ったとでもいうように、湯呑みは自ら壊れることを選んだ――――……リュイにはそうとしか思えなかった。
日中に見た禿鷲の光景がふいによみがえる。曇天に漫然と目を向けてティセはつぶやいた。あの言葉が落雷となってリュイを襲い、突き刺した。
……私もいつか、死ぬんだな……――――
身の毛がよだち震え始める。動悸がして、目がくるめいた。冷や汗が流れ、呼吸が荒くなる。頭のなかで、さまざまな色の光が点滅している気がした。
「……ティセ……」
ほとんど泣き声で名を呼んだ。
「ティセ……――――!!」
台の上のランプをひったくり、部屋へ駆け戻る。かなぐるように戸を開けて、粗末な建物全体が揺れるほど乱暴に閉めた。
ランプをかざしてみれば、ティセはふたたび苦しみのさなかにいる。否、先ほどよりも容態が悪化して見える。かすかな呻き声の交じった荒い息を吐き、あたかも死が間近いひとのように、右腕を寝椅子の外へだらりと落としている。
リュイは心臓が飛び上がった。ますます過呼吸に陥った。
「ティセ! ティセッ……!!」
なりふり構わず叫ぶ。
このまぶたを開けなければ、このまま、もう二度とは開かれない――――もう二度と…………。疑う余地なく、直感する。
寝椅子のそばへ頽れて両膝をつき、
「ティセ! 目を覚まして! ティセ……ッ!」
切迫した声で呼び続ける。
声と物音を聞きつけた尼僧が部屋へやってきた。就寝中だったのだろう、法衣ではない質素な寛衣を纏っている。
「どうかなさいましたか!?」
尼僧の声は、リュイには半分も聞こえない。ティセを呼び続ける。
「ティセッ!!」
尼僧はティセの様子をそっと窺った。ほんの一瞬、厳しさと憐れみを綯い交ぜにした面持ちになる。それから、リュイの隣へ同じように膝をついた。この病の症状と経過をよく知る尼僧は、しっとりと落ち着き払った声でリュイへ語りかける。
「二度目の熱が出ているのですね、お気の毒に……。けれど、この熱が過ぎてしまえば、あとはもうあっという間に治ってしまいます」
労るように聖職者の微笑みを向けた。
眉根を寄せてティセを見据えたまま、リュイはくぐもり声でつぶやく。
「……ティセはきっと、逝ってしまう……」
「なにを仰るのですか」
尼僧の微笑みは揺るがない。
「……ティセは死を予感していました……」
「まさか」
リュイは初めて尼僧を向き、声をやや強くする。
「本当です。私もいつか死ぬ……って…………今日の昼にです!」
尼僧は確かな調子でゆっくりと首を横へ振る。微笑みを湛えたまま、
「それは予感などではありません。ただ事実のひとつを述べたに過ぎません。そして、いつかとは、いまのことではありませんよ」
慈悲深い尼僧の笑みをじっと見つめる。それは、見る者を心安らかにさせ神の近くへ導かんとする尊き微笑みだ。けれど、ティセを失う恐怖に芯まで侵されたリュイには、どんな言葉も微笑みも届きはしない。
手足はおろか、声帯すら凍りついている。無理に声を絞り出し、リュイはわなないた。冷たい水のおもてを思わせる声はいま、風波に乱されてしだらなくぬるみ、静けさと透明さを失っていた。
「……違う! ティセは逝ってしまう……」
さらに大きく喚く。
「逝ってしまう! 僕をひとりにして死んでしまう……! ティセッ!!」
横たわるティセにすがりつくようになって、両肩を激しく揺さぶった。
「目を開けて、いますぐ……!」
尼僧は窘めるような口調で、
「おやめなさい!」
リュイの両腕を取り、ティセから引き離す。
両腕を取られたリュイは、そのまま尼僧の胸の前にがっくりと項垂れた。背中を丸め、小さく弱いもののように肩を震わせる。尼僧は静かにその腕の力を解き、震える両肩にそうっと手をかけた。一転、部屋は静けさに包まれる。
尼僧は項垂れるリュイを優しく抱くように包んだまま、穏やかな眼差しで見下ろしている。
「気を確かに持つのです」
リュイは震え続ける。尼僧は皺の寄る目尻にそっと微笑みを浮かべ、愛しい我が子を慰めるように言う。
「この娘を愛しているのね」
「はい……」
項垂れたまま返す。
「とても深く」
「はい……」
目尻の微笑みは、わずかに深みを増した。
「さあ、顔をお上げなさい。私と一緒に、この娘の快復を神に祈りましょう」
やや間を置いて、リュイはそろそろと顔を上げた。暗緑の瞳は潤み、声音同様に熱を帯び、そして、ひどく困憊している。
尼僧はティセを向き、慎ましき身振りで天上に向かって手のひらを合わせる。リュイは無言で尼僧を倣う。
リュイは祈った。いちども信じたことのない神へ祈りを捧げた。大樹でないものに、生まれて初めて祈りを捧げた。深く、篤く、滾り迸るような全霊の祈りを――――……。
ティセを助けてください……――――
自我を忘れるほど一心にくり返す。
――――ティセを助けて…………僕からティセを奪わないで…………
…………どうか、奪わないで…………――――
天上に向けられた祈りの手は、かすかに震えていた。伏せたまぶたは、その下に飽和した涙でうっすらと腫れていた。
それは、精霊と見紛うほど超俗的な姿となる大樹への祈りとはまるで違う。泣きはらした幼子さながらの、無防備ないじらしい祈りだった。
尼僧が去ったあとも、リュイの祈りは続いた。どれほどの時が立っていたのか、自身、定かでない。気づけばティセの容態は落ち着いて、苦しげな呼吸は静かな寝息に変わっていた。
疲れ切った顔を向けながらも、全身に溢れ持てあますほどの想いを帯びた声で、リュイは囁いた。
「ティセ……」
身心尽き果てて、寝椅子のそばに両膝をついたまま、ティセの傍らに顔を伏せて目を閉じた。
ほどなくしてランプの燃料が切れ、室内は闇に沈んだ。代わりに空が白み始め、外の空気に青みがかかる。窓掛けのない窓から、水のごとく澄み切った朝の青みが、少しずつ室内を満たしていく。やがて、部屋のなかは静けさの立ち込める水底のようになった。鳥のさえずりが高らかに響いているけれど、ふたりを包む静けさは微塵も乱されない。
冷ややかで心地よい水底に、寄り添うようになって眠る。熱を冷ましたティセの右手のうえに、ひと筋の滝のようにひたむきな祈りを捧げたリュイの右手が重ねられていた。
夜が明けた。新しい朝が、ふたりに訪れた。
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