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解放者たち 第二部  作者: habibinskii
第二章
12/71

5

 力つき地に横たわったティセの前に両膝をつき、ほんの束の間、リュイは放心した。つい先ほどまで元気に歩いていたというのに…………あまりの急変が怖ろしくも信じられず、身も心も竦んでいた。背中に冷たいものを感じていた。が、すぐ我に返り、遠くに見える集落に目を向けた。とにかく、一刻も早く医者に診せなければならない。

 ティセの半身を抱き起こす。首が据わらず、がくりと垂れた。生気を失った様子に、リュイは戦慄を覚えた。


「ティセ、僕に掴まれる?」


 意識は混濁しているようだが、完全にないわけではないようだ。ティセはなにも返さずに、ひどく緩慢に両腕を動かした。まるで手探りするような覚束ない所作で、リュイの首に弱々しく両腕を回す。リュイはそのまま、両腕でティセを抱きかかえて立ち上がった。背には自分の荷物を、右肩にはティセの荷物を負ったまま。そして、できるだけ速やかに、できるだけ静かに、集落へ向かった。


 自身の後頭部辺りで、ティセは短く荒い息を吐き続けている。首に回された両腕は、いつ力つき離れてしまうかと気を揉むまでに頼りない。その息遣いを耳にするほど、怖れによる緊張が高まっていった。両腕の頼りなさを思うほど、リュイは一心になっていった。


 …………ティセ……――――






 集落に辿り着くと、ちょうど大粒の雨がパラパラと降り始めた。少し先に見えるシータ教寺院に、リュイは迷うことなく駆け込んだ。

「すみません、医者を呼んでもらえませんか」

 本堂にはちょうど、鼠色の寛衣を纏い、頭を白布で覆った老いた尼僧がいた。尼僧は急病人を抱いたリュイを見て、心底驚いたように目を瞠る。

「まああ! どうなされたの? お気の毒に……。けれどあいにく、この村にはいまお医者さまはおりませんの」

「――――!」

 矢のように激しい失望といらだちが、リュイを襲う。焦燥が顔に表れたのを見て取ったのか、尼僧はすぐに、

「隣の村のお医者さまへ使いを出してみましょうか。もう日も暮れますし、来てもらえるかどうかは分かりませんけれど……」

「お願いします」

 すると、本堂の清掃をしていた小使いか見習い僧と思われる十一・二歳程度の少年が、それを聞きつけて駆け寄ってきた。

「僕が行ってきます! グァンおじさんを連れてくればいいんでしょう?」

 誠実さの滲む声音で、使いを買って出た。

「では、お願いね、雨も降ってきたから充分気をつけるんですよ」

 リュイは藁にもすがる思いで、

「頼む!」

 見知らぬ少年を頼った。少年は意気込みに溢れた表情を返す。

「きっと連れてきます! 少しだけ待っていて!」

 丸刈りの頭からふくらはぎまで覆う木綿の雨合羽を羽織り、本降りになり始めた雨のなか、ロバを駆って隣の村へ向かっていった。





 寺院にいる四人の尼僧は、大急ぎで病床を用意してくれた。本堂の裏にある尼僧たちの住居の、物置のようになっていた小部屋を空けてくれたのだ。そこに保管していた古びた寝椅子の上に、いちばん若い四十路と思しき尼僧が自身の敷き布団を提供した。

 リュイはその布団の上に、意識の混濁が続いているティセを静かに横たえた。

「…………ティセ……」

 傍らに用意された背もたれのない椅子に、気落ちしたように力なく腰を下ろす。


 初めに応対した一等位の高い尼僧はリュイの斜め後方に立ち、さも心配そうな面持ちでティセの様子を窺っていた。

「熱が高いようだから、いま水枕の用意をしているわ」

 息苦しそうなティセの顔を見据えたまま、リュイは礼を返した。尼僧は落ち着いた声で尋ねる。

「いつごろからこんな状態に?」

「急にです。昼過ぎまでは元気でした」

「そう……それは心配ね。発熱のほかにはどんな症状があるのかしら?」

「……眩暈と、寒気と……関節の痛みと……」

 リュイは尼僧を振り向いて、

「そう、胸元に赤い発疹が出ていると言っていました」

 尼僧はほんのわずかにだが顔を強張らせた。そのわずかな表情の変化は、瞬時にしてリュイをとてつもなく不安にさせた。腹の底から不穏の塊が突き上げ、身体を突き抜けていった気がした。

「――――症状に心当たりがありますか」

 無意識に、鋭く問うていた。

 途端に張りつめた眼差しと鋭い声音を受けて、尼僧は口籠もったように間を置いた。

「…………そんな症状の出る病もありますけれど、お医者さまではありませんので、私にはなんとも申し上げられません」

 申し訳なさそうに小首を傾げながらそう返した。穏当とも曖昧ともいえるその返答に、リュイはなおいっそう不安を募らせる。



 水枕が運ばれてきた。布団を提供した尼僧が、熱に浮かされるティセの頭をそっと持ち上げる。頭の下で水枕がたぷん、と音を立てた。余裕を失った顔つきで病人を見据えるリュイに、尼僧は慈しみ溢れる微笑みをもって、

「お医者さまを待ちましょう。きっと来てくださいますわ」

 ふたりの尼僧はいったん部屋を出て行った。





 ただひたすら、寝椅子に横たわるティセを見つめていた。頬を赤くして苦しげに息を吐く様子を、つらそうに震える薄紅の唇を、見つめていた。腹の底から更なる不穏の塊が次々と突き上がり、喉元までを容赦なくいっぱいにしていた。

 窓の外は闇に包まれた。雨足が強くなり、粗末なトタン屋根を叩く雨音が室内に響き続けていた。不吉さを煽るかのように、雨は激しさを増していく。

 リュイは唇を噛みしめる。


 ――――遅い…………――――


 実際のところ、それほどの時間は経過していない。にも拘わらず、何時間にも感じられた。いらだちはもはや胸を裂くような苦痛と化して、リュイを厳しく苛んでいた。膝の上で、両の拳をきつく握り締める。


 ……一刻も早くここへ来て、一秒でも早くティセを元に戻して……――――


 まだ見ぬ医師へ幾度も懇願していた。

「ティセ……」

 そっと呼びかける。けれど、ティセはもう完全に意識を失っているようで、なにも反応を返さない。

「…………」

 嗚咽を堪えたときに出るような短い吐息が、リュイの唇からひとつ漏れた。






 雨足が弱くなったころ、外で人声がした。尼僧と、少年と、大人の男の声だ。

「早かったわね、偉いわ」

「おじさんもとても急いでくれました」

「急病と聞いて急がん医者がおるかいな」

 リュイは弾かれたように立ち上がり、戸が外れるほどの勢いで扉を押し開けた。

「おっと……!」

 目の前に、雨合羽に身を包んだ初老の医師がいた。乱暴に開いた戸に目を丸くしている。

「待っていました」

 どうか早く、とリュイは医師を促した。

 医師は戸口で雨合羽を脱ぎ、それを少年に託すと、

「主な症状は?」

 鋭い眼光を向けて問うた。手短に話を聞いて、すぐに診察に取りかかる。


 尼僧が部屋に残り、リュイは外へ出た。小雨が降っているため、軒下に立ち雨をしのぐ。が、すぐにしゃがみ込んでしまった。診察を待ちつつ立っていられる気力を失っていた。小雨の降り続ける闇に漫然と目を向けながら、ティセの容態だけを思っていた。




 やがて静かに戸が開いて、ランプの灯りが外へ漏れた。尼僧が顔を出し、リュイに入室を促した。

「どうでしょうか」

 真剣な眼差しで尋ねるリュイに、医師は灰色の頭髪を手で交ぜるように掻きながら、

「ふむ……諸症状から診てシンハ熱だろうな」

「シンハ熱……?」

「ある種の蚊に刺されることで発病する感染症だ。この地方では昔からよくある病で、雨季になると毎年少なくない数の患者が出る」

 リュイの聞いたことのない、風土病のひとつだった。

「どんな病でしょうか」

「刺されてから数日の潜伏期間を経て、急に発熱や寒気や眩暈、呼吸の乱れなどに襲われる。いまこの()に出ているような発疹が現れる。高熱が続き、意識の混濁が見られることもあるが、病状にもよる」

「病状……」

 医師はゆっくりとうなずいた。

「症状が軽い場合は、意識ははっきりしていることが多い」

 怖々と尋ねているのが誰にでも分かるような言葉つきで、リュイは問う。

「…………症状は重いということですか…………」

「……まあ、軽症だとは言えないだろうな」

 血の気が引き、代わりに冷たいものが上がっていく感覚をはっきりと覚えた。凍てついた唇を震わせて、


「…………死に至る可能性は…………?」


 ほんの束の間、医師は黙した。その沈黙は、リュイをいよいよ恐怖させた。

 気を落ち着かせようとするふうに、医師は穏やかに述べる。

「そりゃあな、なんのことはないただの風邪だって、こじらせれば死に至ることもあるんだから、可能性は零だとは言えんよ」

 リュイはつい大きな声で、

「確かなことを教えてください!」

 医師はびくりとし、尼僧は不憫だとばかりに眉尻を下げた。灰色の頭を再度交ぜるようにしたのち、医師はリュイをまっすぐに見据え、真面目な声音で返答する。

「病のことだから確かということはない。多くの場合は、という返答になるがの……。シンハ熱の致死率は決して低いとはいえない。しかしな、命を落とすのは小さな子供か、身体の弱った年寄りがほとんどで、この娘みたいな若いのが死に至るのは稀なことだ」

 その返答は、リュイを少しも安堵させない。

「…………稀にはあるということですね……」

「そりゃあ稀にはあるさ。もともと虚弱な体質だったり体調を崩していたりすれば、若いものでも持ちこたえられんこともある」

 それを耳にして全身が凍りつく。不安の井戸の底へ突き落とされる。声をわななかせ、


「……先日までひどい風邪を引いていて、ようやく治りかけていたところです…………」


 さすがに医師も、顔つきをやや曇らせた。が、すぐに気を取り直したように軽めの口調になって、

「まあ、とにかくだな、いまなんとか薬を飲ませたから、我々は静かに見守ることしかできん。本人の体力次第だ。けど、見たところ普段はいかにも健康そうじゃないか。気持ちは分かるが、過剰に心配する必要はないと思うがの」

 高熱はいったん下がり短い小康状態が訪れ、のち、ふたたび上がる。二度目の熱はさらに高くなることが多いが、それが下がれば見るまに回復するのが特徴だという。明日の午前中にまた来ると言い残し、医師は雨の止んだ暗い道を帰っていった。リュイは礼を述べることもできずに、頭のなかを真っ白にさせて立ちつくしていた。




 医師を見送った尼僧が部屋へ戻ってきて、とてもやわらかな口ぶりでリュイを慰めた。

「お医者さまのおっしゃるとおりですよ。私たちは心を穏やかにして、静かにこの娘を見守りましょう」

 聖職者らしい揺るぎない微笑みを湛えたまま、尼僧はそっと部屋を出て行った。

 寝椅子の傍らの椅子に、リュイはへなへなとへたり込んだ。怖れが胸に飽和し、ほとんど自失していた。こんなに苦しげなのに自分にはなにもできやしない……どうしようもなく無念で、叫び声を上げたい思いに駆られながら、ひたすらティセを見つめていた。








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