5
力つき地に横たわったティセの前に両膝をつき、ほんの束の間、リュイは放心した。つい先ほどまで元気に歩いていたというのに…………あまりの急変が怖ろしくも信じられず、身も心も竦んでいた。背中に冷たいものを感じていた。が、すぐ我に返り、遠くに見える集落に目を向けた。とにかく、一刻も早く医者に診せなければならない。
ティセの半身を抱き起こす。首が据わらず、がくりと垂れた。生気を失った様子に、リュイは戦慄を覚えた。
「ティセ、僕に掴まれる?」
意識は混濁しているようだが、完全にないわけではないようだ。ティセはなにも返さずに、ひどく緩慢に両腕を動かした。まるで手探りするような覚束ない所作で、リュイの首に弱々しく両腕を回す。リュイはそのまま、両腕でティセを抱きかかえて立ち上がった。背には自分の荷物を、右肩にはティセの荷物を負ったまま。そして、できるだけ速やかに、できるだけ静かに、集落へ向かった。
自身の後頭部辺りで、ティセは短く荒い息を吐き続けている。首に回された両腕は、いつ力つき離れてしまうかと気を揉むまでに頼りない。その息遣いを耳にするほど、怖れによる緊張が高まっていった。両腕の頼りなさを思うほど、リュイは一心になっていった。
…………ティセ……――――
集落に辿り着くと、ちょうど大粒の雨がパラパラと降り始めた。少し先に見えるシータ教寺院に、リュイは迷うことなく駆け込んだ。
「すみません、医者を呼んでもらえませんか」
本堂にはちょうど、鼠色の寛衣を纏い、頭を白布で覆った老いた尼僧がいた。尼僧は急病人を抱いたリュイを見て、心底驚いたように目を瞠る。
「まああ! どうなされたの? お気の毒に……。けれどあいにく、この村にはいまお医者さまはおりませんの」
「――――!」
矢のように激しい失望といらだちが、リュイを襲う。焦燥が顔に表れたのを見て取ったのか、尼僧はすぐに、
「隣の村のお医者さまへ使いを出してみましょうか。もう日も暮れますし、来てもらえるかどうかは分かりませんけれど……」
「お願いします」
すると、本堂の清掃をしていた小使いか見習い僧と思われる十一・二歳程度の少年が、それを聞きつけて駆け寄ってきた。
「僕が行ってきます! グァンおじさんを連れてくればいいんでしょう?」
誠実さの滲む声音で、使いを買って出た。
「では、お願いね、雨も降ってきたから充分気をつけるんですよ」
リュイは藁にもすがる思いで、
「頼む!」
見知らぬ少年を頼った。少年は意気込みに溢れた表情を返す。
「きっと連れてきます! 少しだけ待っていて!」
丸刈りの頭からふくらはぎまで覆う木綿の雨合羽を羽織り、本降りになり始めた雨のなか、ロバを駆って隣の村へ向かっていった。
寺院にいる四人の尼僧は、大急ぎで病床を用意してくれた。本堂の裏にある尼僧たちの住居の、物置のようになっていた小部屋を空けてくれたのだ。そこに保管していた古びた寝椅子の上に、いちばん若い四十路と思しき尼僧が自身の敷き布団を提供した。
リュイはその布団の上に、意識の混濁が続いているティセを静かに横たえた。
「…………ティセ……」
傍らに用意された背もたれのない椅子に、気落ちしたように力なく腰を下ろす。
初めに応対した一等位の高い尼僧はリュイの斜め後方に立ち、さも心配そうな面持ちでティセの様子を窺っていた。
「熱が高いようだから、いま水枕の用意をしているわ」
息苦しそうなティセの顔を見据えたまま、リュイは礼を返した。尼僧は落ち着いた声で尋ねる。
「いつごろからこんな状態に?」
「急にです。昼過ぎまでは元気でした」
「そう……それは心配ね。発熱のほかにはどんな症状があるのかしら?」
「……眩暈と、寒気と……関節の痛みと……」
リュイは尼僧を振り向いて、
「そう、胸元に赤い発疹が出ていると言っていました」
尼僧はほんのわずかにだが顔を強張らせた。そのわずかな表情の変化は、瞬時にしてリュイをとてつもなく不安にさせた。腹の底から不穏の塊が突き上げ、身体を突き抜けていった気がした。
「――――症状に心当たりがありますか」
無意識に、鋭く問うていた。
途端に張りつめた眼差しと鋭い声音を受けて、尼僧は口籠もったように間を置いた。
「…………そんな症状の出る病もありますけれど、お医者さまではありませんので、私にはなんとも申し上げられません」
申し訳なさそうに小首を傾げながらそう返した。穏当とも曖昧ともいえるその返答に、リュイはなおいっそう不安を募らせる。
水枕が運ばれてきた。布団を提供した尼僧が、熱に浮かされるティセの頭をそっと持ち上げる。頭の下で水枕がたぷん、と音を立てた。余裕を失った顔つきで病人を見据えるリュイに、尼僧は慈しみ溢れる微笑みをもって、
「お医者さまを待ちましょう。きっと来てくださいますわ」
ふたりの尼僧はいったん部屋を出て行った。
ただひたすら、寝椅子に横たわるティセを見つめていた。頬を赤くして苦しげに息を吐く様子を、つらそうに震える薄紅の唇を、見つめていた。腹の底から更なる不穏の塊が次々と突き上がり、喉元までを容赦なくいっぱいにしていた。
窓の外は闇に包まれた。雨足が強くなり、粗末なトタン屋根を叩く雨音が室内に響き続けていた。不吉さを煽るかのように、雨は激しさを増していく。
リュイは唇を噛みしめる。
――――遅い…………――――
実際のところ、それほどの時間は経過していない。にも拘わらず、何時間にも感じられた。いらだちはもはや胸を裂くような苦痛と化して、リュイを厳しく苛んでいた。膝の上で、両の拳をきつく握り締める。
……一刻も早くここへ来て、一秒でも早くティセを元に戻して……――――
まだ見ぬ医師へ幾度も懇願していた。
「ティセ……」
そっと呼びかける。けれど、ティセはもう完全に意識を失っているようで、なにも反応を返さない。
「…………」
嗚咽を堪えたときに出るような短い吐息が、リュイの唇からひとつ漏れた。
雨足が弱くなったころ、外で人声がした。尼僧と、少年と、大人の男の声だ。
「早かったわね、偉いわ」
「おじさんもとても急いでくれました」
「急病と聞いて急がん医者がおるかいな」
リュイは弾かれたように立ち上がり、戸が外れるほどの勢いで扉を押し開けた。
「おっと……!」
目の前に、雨合羽に身を包んだ初老の医師がいた。乱暴に開いた戸に目を丸くしている。
「待っていました」
どうか早く、とリュイは医師を促した。
医師は戸口で雨合羽を脱ぎ、それを少年に託すと、
「主な症状は?」
鋭い眼光を向けて問うた。手短に話を聞いて、すぐに診察に取りかかる。
尼僧が部屋に残り、リュイは外へ出た。小雨が降っているため、軒下に立ち雨をしのぐ。が、すぐにしゃがみ込んでしまった。診察を待ちつつ立っていられる気力を失っていた。小雨の降り続ける闇に漫然と目を向けながら、ティセの容態だけを思っていた。
やがて静かに戸が開いて、ランプの灯りが外へ漏れた。尼僧が顔を出し、リュイに入室を促した。
「どうでしょうか」
真剣な眼差しで尋ねるリュイに、医師は灰色の頭髪を手で交ぜるように掻きながら、
「ふむ……諸症状から診てシンハ熱だろうな」
「シンハ熱……?」
「ある種の蚊に刺されることで発病する感染症だ。この地方では昔からよくある病で、雨季になると毎年少なくない数の患者が出る」
リュイの聞いたことのない、風土病のひとつだった。
「どんな病でしょうか」
「刺されてから数日の潜伏期間を経て、急に発熱や寒気や眩暈、呼吸の乱れなどに襲われる。いまこの娘に出ているような発疹が現れる。高熱が続き、意識の混濁が見られることもあるが、病状にもよる」
「病状……」
医師はゆっくりとうなずいた。
「症状が軽い場合は、意識ははっきりしていることが多い」
怖々と尋ねているのが誰にでも分かるような言葉つきで、リュイは問う。
「…………症状は重いということですか…………」
「……まあ、軽症だとは言えないだろうな」
血の気が引き、代わりに冷たいものが上がっていく感覚をはっきりと覚えた。凍てついた唇を震わせて、
「…………死に至る可能性は…………?」
ほんの束の間、医師は黙した。その沈黙は、リュイをいよいよ恐怖させた。
気を落ち着かせようとするふうに、医師は穏やかに述べる。
「そりゃあな、なんのことはないただの風邪だって、こじらせれば死に至ることもあるんだから、可能性は零だとは言えんよ」
リュイはつい大きな声で、
「確かなことを教えてください!」
医師はびくりとし、尼僧は不憫だとばかりに眉尻を下げた。灰色の頭を再度交ぜるようにしたのち、医師はリュイをまっすぐに見据え、真面目な声音で返答する。
「病のことだから確かということはない。多くの場合は、という返答になるがの……。シンハ熱の致死率は決して低いとはいえない。しかしな、命を落とすのは小さな子供か、身体の弱った年寄りがほとんどで、この娘みたいな若いのが死に至るのは稀なことだ」
その返答は、リュイを少しも安堵させない。
「…………稀にはあるということですね……」
「そりゃあ稀にはあるさ。もともと虚弱な体質だったり体調を崩していたりすれば、若いものでも持ちこたえられんこともある」
それを耳にして全身が凍りつく。不安の井戸の底へ突き落とされる。声をわななかせ、
「……先日までひどい風邪を引いていて、ようやく治りかけていたところです…………」
さすがに医師も、顔つきをやや曇らせた。が、すぐに気を取り直したように軽めの口調になって、
「まあ、とにかくだな、いまなんとか薬を飲ませたから、我々は静かに見守ることしかできん。本人の体力次第だ。けど、見たところ普段はいかにも健康そうじゃないか。気持ちは分かるが、過剰に心配する必要はないと思うがの」
高熱はいったん下がり短い小康状態が訪れ、のち、ふたたび上がる。二度目の熱はさらに高くなることが多いが、それが下がれば見るまに回復するのが特徴だという。明日の午前中にまた来ると言い残し、医師は雨の止んだ暗い道を帰っていった。リュイは礼を述べることもできずに、頭のなかを真っ白にさせて立ちつくしていた。
医師を見送った尼僧が部屋へ戻ってきて、とてもやわらかな口ぶりでリュイを慰めた。
「お医者さまのおっしゃるとおりですよ。私たちは心を穏やかにして、静かにこの娘を見守りましょう」
聖職者らしい揺るぎない微笑みを湛えたまま、尼僧はそっと部屋を出て行った。
寝椅子の傍らの椅子に、リュイはへなへなとへたり込んだ。怖れが胸に飽和し、ほとんど自失していた。こんなに苦しげなのに自分にはなにもできやしない……どうしようもなく無念で、叫び声を上げたい思いに駆られながら、ひたすらティセを見つめていた。
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