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シュウとの国境を目指し、西方へと歩いて行く。前の町を過ぎてしばらく行くと、寒村ばかりが続くようになった。この辺りはハルカンドでも一等貧しく遅れた地方だと話に聞いていた。手癖の悪いのが多いから充分に気をつけろ、と町のひとは口々に言っていたが、古びた衣服に身を包んだ寒村の住民たちは、むしろ温かな心でふたりを迎えてくれた。その地方に対する偏見に過ぎないのかもしれないと、親切を受けるたびにティセは思った。
初夏に差しかかり、本格的な雨季が目前に迫ってきた。少し前から、夕刻間際に雨の降る日が多くなった。旅――とりわけ膝栗毛には面倒な季節だ。雨が降れば衛生状態も悪くなるので、盗難と同じだけ気をつけねばならない。
雑木林を抜ける一本道の途中、道から少し奥に入った辺りに大木が立っていた。樹皮に深い裂け目のできた貫禄のある栗の木だ。初夏に漂わせる独特の香りを放っている。目にした途端、リュイは足を止めた。
「ティセ、ちょっといい?」
「休憩しよっか」
分かっているとばかりに笑みを返す。リュイは道端に荷物を下ろし、迷いのない、けれど静かな足取りで大木へ向かう。ティセも荷物を下ろして水筒の水を飲み、久しぶりに目にする光景を待ち受ける。
大木の下に片膝をつき、まぶたを閉じて合掌。やがて、おもむろに合掌を解き、根元に両の手のひらをつく。威厳を漂わせる立派な幹にそっと額を当てて、リュイは大木とひとつづきとなり、静止する。長い、長い祈り――――……。
少しも変わらない、精緻に張りつめた静寂の光景だ。わずかでも乱すことのないように、ティセは息を潜めてひたすらに眺め見る。耳を澄ませば、さわさわと囁く葉擦れと重なって、笛の音の幻聴が聴こえてくる。
ああ…………
しじまへと導かれる懐かしい感覚に身を任せる。はっきりと覚醒しているにも拘わらず、微睡んでいるような心地に浸る。
ひとしきり身を任せたのち、ティセは少しく冷静になった。祈り続けるリュイを、別の思いをもって見つめた。
リュイは相変わらずトルクをせず、イブリアの衣服も纏わずに、大樹に正式な祈りを捧げている。そして、イブリアの民話の笛を携えている。大樹の霊の加護があるのなら、何故リュイの笛は重奏を奏でないのだろう。どうしたら、笛は完全な音色を解き放つのだろう。その時機はいつ、リュイに訪れるのだろうか――――……。
ふいに立ち上がり、リュイは戻ってきた。
「久しぶりに見た! ガルナージャに祈るのを見て以来だな」
ニッと笑うと、リュイはいま気づいたように、
「ん……そうかもしれない」
「千回まであと何回かな?」
「……千回?」
不可解そうに眉根をしわめる。
「民話では千回の祈りで奇跡が起こったろ?」
「ああ……」
ティセは冗談半分、期待半分になって口角を上げる。
「どんな霊験があるのかなあ」
リュイは若干厭そうな顔をした。
「……霊験……気味が悪いよ」
素っ気ない返答にがっかりし、
「…………おまえらしいなぁ……」
ティセは呆れ声を上げた。
ランプを消して横にはなったものの、
「げほっ……げほっ……げほおっ……」
ティセは発作のような激しい咳込みに襲われていた。なんとか治まったと安堵するも束の間、またすぐに咳はぶり返し、眠いのに眠れないつらい夜更けを迎えていた。数日前から、ひどい風邪を引いているのだ。夕刻の雨で急激に気温が下がったのに、肌寒さをつい我慢してしまったのが原因だ。
「げほおおっ……!」
暗闇のなか、リュイが隣の布団から、
「ティセ……大丈夫か?」
「うん……ごめん、うるさくて眠れないよね」
「いや、うるさくても僕は眠れる。すぐ覚めるけれど……。おまえ、無理に歩かないでも、しばらくゆっくり休んでいたほうがいいんじゃないのか」
気持ちだけは元気なので、明るい口ぶりで返す。
「大丈夫だって。宿に閉じ籠もってるほうが元気なくなっちゃうよ」
「けれど、言うより体調悪いんだろう?」
「……なんでそう思うの?」
「風邪を引いてから、定食のお代わりをしないじゃないか。普段はあんなに食べるくせに」
図星を指されて、返す言葉に詰まった。気持ちは風邪に負けていないが、実際に身体がだるく食欲も落ちていた。一等つらかった時期はもう過ぎたとはいえ、まだまだ万全ではなかった。自分が考えているよりも、リュイは気に懸けてくれているのかもしれない。あまり強腰でいるのはどうかと思い直し、ティセは声音をやわらげて、
「じゃあ、明日の朝起きてみて今日よりよくなってなかったら、言うとおりにするね」
「ん……」
激しい咳をものともせずに、リュイは言ったとおり静かな寝息を立て始めた。
咳込みに涙ぐんだ目を手の甲で拭いつつ、ティセはつくづくと思う。二度目の旅の出端は意に反して、思うようにいかないことが多すぎる。気を滅入らせるような案件が次々と訪れる。こんなひどい風邪も、以前の旅では引かなかった。心の底から待ち望んでいた旅なのにと、もやもやしてしまう。これ以上の難儀や煩悶が待ち受けていないように…………ティセはそう、強く願うのだった。
曇りがちの空の下、灌木がまばらに立つだけの寂しげな荒野を長々と歩いていた。昼休憩を取った集落を出てから、すれ違うひともない。誰もいない世界の果てに通じているような気にさせる、寂寞とした一本道だ。ときおり、雲間から光の梯子が降りてきた。すると、荒野はにわかに神がかったように見え、ますます世界の果てを感じさせるのだった。
ティセの体調はだいぶ良くなった。食欲もすっかり戻り、先の昼食にはお代わりを頼んだ。リュイはそれを見て、安堵したとばかりに穏やかな顔つきになった。
前方右手の野に、大きな鳥が数羽集まっているのが目に入る。一心不乱になにかをついばんでいるようだった。
「あれ、なんだろうね」
「……禿鷲のように見えるけれど」
やや近づくと、黒褐色の鳥の群れはひとの気配を察し、少し離れたところへと一斉に飛び去った。こちらをじっと窺うように首をもたげ、静止している。ふたりが立ち去るのをじっと待つつもりなのだろう。
集まっていたところへ目を向ける。
「うわっ……!」
ティセは小さく声を上げた。鹿の死骸が食い荒らされて、腐った肉と内臓、ところどころに骨をさらけ出していた。ぞっとするほどたくさんの蛆が、赤黒く変色した死肉の上に蠢いている。引き裂かれた皮はなかば干からびて、まるで打ち棄てられた襤褸に見える。風に乗って腐臭が漂った。
「……大きな鹿だね。立派な角……」
「鳥葬のようだ……」
ふたりは無言になって、暫し死骸を眺めていた。
神がかった曇天の荒野にて、生前は純白の角を気高く空へ向けていた秀麗な牡鹿が、こんなにも醜い塊となり果てて地に横たわっている。眺め見ているうちに、ティセは言葉では言い尽くせないような思いに囚われた。どうしようもなく果敢ない、一切合切が変わりゆく、美しい生命も瞬きをする間に霊と肉になる――――……この世の無常を感じていた。
リュイは死骸を見つめたまま、ことのほか静かな調子で語る。
「以前訪れた地域には鳥葬の習慣があった。実際にそれを見たわけではないけれど、いまはもう使われていない鳥葬のための古い塔を見た」
「塔?」
「大地を穢さないように塔の上で鳥葬をするんだ。鳥に食べられることで、死者の肉体と魂は天上に運ばれると聞いた」
「天上……」
ティセは遠くでこちらを窺っている数羽の禿鷲を見遣り、それから曇天を仰ぐ。不吉さを纏った黒褐色の猛禽が、死者を安らかな楽園へと運ぶ――――……ひどく不思議な話にも思えるが、胸にすっと落ちるように分かる気も何故かする。いよいよ荒野が神秘に映り、この道は世界の果てに通じている気になり、さらなる無常観に囚われた。
漫然と宙を見据えて、独りごちる。
「……私もいつか、死ぬんだなぁ…………」
リュイはやや間を置いて、
「……それは間違いないけれど、おまえには似合わない言葉のような気がするな……」
かすかに笑みを浮かべて返した。
ふたたび歩き始めると、禿鷲はすぐに鹿の死骸へ戻った。美しい生命を天上へと運ぶため、一心不乱についばみ始める。
荒野を歩き続けるうちに、ティセは体調にそこはかとない違和感を覚え始めた。完治まであと少しだと思っていた風邪がぶり返したのだろうか。手足の関節に鈍い痛みを感じ、急に寒くなった気がした。
……まずい……絶対ぶり返してる……
またしても思うようにいかないことが……心のなかで舌打ちをした。
ところがまもなくして、風邪のぶり返しとはとても思えないほど具合が悪くなってきた。頭が逆上せたようにぼんやりとする。視点がしっかり定まらず、ふらついているように思える。寒気も耐えがたくなっていた。まさに急変だ。
……あれ……なんかおかしいよ……
まぶたを何度も擦ってみたが、ますます目がふらついた。
そのうち、足が滑らかに動かせなくなってきた。ただ歩くことが、ひどく重いと感じる。ティセは急に不安になった。
……どうしよう、これ……
歩く速度がにわかに遅くなったので、リュイが振り返った。
「ティセ、どうかした?」
ティセは弱々しげに足を止め、
「……なんだか……急に具合が悪くなってきた……」
覚束ない声で正直に告げた。途端、リュイは眉根を寄せる。
「どう悪い?」
真剣な眼差しを向けて問う。ティセはぼうっとする頭で考えて、思いつく異変を思いつくままに答える。
「……頭がぼんやりする……足も目もふらふらするし……歩くのが重い……それに身体中がなんだか痛むし、寒くてたまらない……」
「寒い?」
リュイはティセに近寄って、その額に手のひらを置いた。
「――――熱があるんじゃないか」
「……そうかも」
突然、リュイははっとしたように目を見開いた。
「ちょっと……」
言いながら、ティセの頭を手で傾けるようにして、首のつけ根辺りを覗く。さらに目を瞠り、声を強張らせてつぶやいた。
「……発疹が……」
「え? なに?」
リュイはこれ以上ないほど真剣な面持ちになり、ティセの目を見て命じる。
「ティセ。後ろを向いているから、服の内側を確かめろ」
少し離れて背中を向けた。
ぼんやりとし過ぎてよく分からなかったが、ティセは言われたとおり、背中を向けたリュイにさらに背を向けて、胴着と上衣の上のほうの釦数個を外し、胸元を確かめた。見た瞬間、心臓がどきりと跳ね上がる。夥しい数の赤い発疹が、胸元を覆っていた。
「うわ……!」
「なに?」
背中を向けたままリュイは即座に問うた。
「…………赤いぽつぽつがたくさんある……なにこれ、気持ち悪い……!」
まるで、日にちの立った平パンの表面を覆う赤黴のようだった。心の底からぞっとして、恐怖に貫かれる。これほど異常な発疹が現れたことはいままでいちどもない。なにか知らない忌まわしきことが自分に起こっている、ティセは瞠目し、激しく戦慄した。
あまりに怖ろしくて胸元を見ていられず、ティセはすぐに釦を掛けた。リュイを振り向き、らしからぬ震え声で、
「どうしよう、リュイ……」
振り返ったリュイは、夜気に似た冷気を感じさせるほど厳しい表情をしていた。
「まだ歩けるか? 次の村までもう一時間ほど」
「うん……まだ歩ける」
「荷物を」
ティセは素直に荷物を託し、リュイはそれを右肩に担いだ。
「村に着いたらすぐに医者を探そう」
雲がいっそう厚みを増して、荒野は夕刻のように暗い。ふたりは怖れと不安に屏息して、ただただ無言で次の村を目指す。
どうにか歩いていたが、ティセはまもなく限界を覚え始めた。足が言うことをきかず、寒さに震えが止まらない。息も荒くなり始めた。よろめくティセを目にしたリュイは、
「ティセ」
左腕を差し伸べた。
ティセは礼を返すこともできずに、すがるようにその腕にしがみつく。リュイの肩に重たい頭を預け、ほとんどぶら下がるようになって歩を進める。
リュイの左腕は温かかった。が、寒気はひどくなる一方で、震えも激しくなるばかりだ。まぶたを閉じて、短く荒い息を吐き続けるティセの様子を、リュイは何度も窺っていた。窺うたびに、瞳に滲ませた憂懼の色を濃くしている。
たかだか小一時間が途方もなく長く感じる。もう無理だ、ティセは幾度となくそう思った。歩くのはおろか、こうしてリュイの左腕にすがりつく力さえもはや残り少なかった。
空はいまにも雨が降り出しそうに黒い。その黒い空の北のほうから、大きな鴉が一羽飛来した。阿鼻叫喚に似た不吉な鳴き声が、荒野に響き渡る。
そのとき――――……ティセの脳裏に、死が過ぎった。
…………母さん――――――…………
「見えた」
リュイが囁いた。鴉がやってきた方向に小さく集落が見えたのだ。シータ教寺院の尖塔が、曇天をささやかに指している。
「ティセ」
肩の後ろに顔を埋めるティセに呼びかけた。とほぼ同時、ティセはついに力つき、リュイの腕を離れ、その場に崩れ落ちた。
「――――……ティセ!!」
起き上がる力も、ものを考える気力も完全に失った。それでも、リュイの呼ぶ声だけは聞こえていた。くり返し、動揺を露わにした声で、
「ティセッ! ティセッ……!」
それからのことを、ティセはよく覚えていない。
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