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解放者たち 第二部  作者: habibinskii
第二章
10/71

3

 年老いた女将は案内した部屋の入り口で、リュイに鍵を手渡した。

「夜七時には玄関閉めちまうから、それより遅く戻るなら呼び鈴鳴らしてちょうだい」

 宿泊を申し出たときからずっとしている非難と戸惑いの滲む目でリュイを見て、それからティセを見た。そして、ぶつぶつと唱えるように、

「……まったく、いまどきの若いのはなに考えてるんだか……」

 と、小首を傾げながら戻っていった。

 汽車を降りた町を出てから三日ほど野宿を重ね、この町に辿り着いた。宿の女将は先日の宿の主人とまるで同じ、当惑気味の態度でふたりを迎えた。ティセはまたも、沼に落ちた小石のように急激に気持ちが沈んでいくのを感じていた。

 下ろした荷物から手ぬぐいと着替えを取り出しつつ、胸の奥でつぶやく。


 ……そんな変な目で見ないでよ……


 不満が顔に表れていると自身分かったので、振り返らずに告げる。

「先に行っていいよ、リュイ」

「ん……」

 リュイは水浴びに出て行った。


 ぱたんと扉が閉まり、部屋がひとりきりの静けさに包まれたのを感じてから、ティセは大きく溜め息をついた。

「はあぁぁぁ……!」

 自棄を起こしたように四肢を投げ出して、ゴロッと仰向けになる。うっすらと黄色く汚れた天井を見上げて、胸に溜まりこんだ憂鬱を思う。


 やましいことも恥じることもまるでないのに、非難めいた目で見られるのが非常に悔しく、かつ不服であった。村で囁かれていた低俗な噂のように、そこに悪意が込められていないだけまだましであったが、その眼差しと態度はティセを暗い気持ちにしかさせなかった。

 部屋をふたつ取れば、少しは態度はやわらぐだろう。けれどそれは自分たちにとって――――少なくともティセにとってはかえって不自然…………ひどく不自然に思えた。おそらくリュイもそうではないか。先の宿の主人の問いかけに、自分と同じくはっとしていたようだった。


 しかし、ティセをなにより沈鬱とさせているのは、非難めいた眼差しや当惑露わな態度そのものではなかった。それが突きつけてくる、あのころのままではいられないという受け入れがたい事実のほうだ。もっといえば、その事実をリュイに突きつけてしまうことであった。

 あのころのままの存在でいたいティセは、自身の意思に反して、ひとびとの眼差しや態度がリュイの意識を変えてしまうかもしれないことを懸念していた。悔しさや不満よりも、もっと大きな焦燥を覚えるほどに。女であるという、無念に似た思いを湧き上がらせる事実を、どうかリュイに突きつけないで――――……ティセはまわり中にそう懇願したい思いに駆られていた。あのころのままでいたいのに、まわりがそうさせない…………どうにもできない世間の目を感じ、やるせない思いでいっぱいだ。


 だからこそ、汽車内で老婦に間柄を問われた際のリュイのあの返答は、ティセにとっては少なからず衝撃だった。尋ねられたら即答できるよう少しは用意していたと言った。自分の憂慮は、リュイのなかでもうしっかりと形を取っているのだろうか、あのころの自分とはもう違っているのだろうか…………ティセはあのとき、たまらなく哀しくなった。

 自身、そんな問いかけを受けることもあるだろうと、なんとなくは想像していた。それに対する返答を少しは考えようとした。が、頭が考えるのを拒否しているのか、思考はすぐに途切れてしまった。できるかぎりうやむやにしたい事実を頭に上らせるのさえ、ティセにはし難いのだった。


 ……もしも男の子に生まれていたら……幾度となく胸のなかで重ねてきた思いが込み上げる。もっと都合よく、もっと理想的に、自分を生きていたはずなのに……。



 しばらくしてリュイが戻ってきた。夏用の袖無しの肌着の上に濡れた長い髪を流している。ティセは気に病むことなどなにもないかのような明るい顔を作り、

「よっしゃ、交代交代」

「水が少し冷たかった」

「大丈夫、屁でもないよ」

 リュイのすぐ横を通ると石鹸の香りが漂った。肌着をうっすらと盛り上げる美しい胸筋と、むき出しの浅黒い腕がなんとはなしに目に付いた。相変わらず、身体は細いけれど充分な筋肉がしなやかについている。その腕にまるで浮彫のように、あるいは別の生きものが内に潜んでいるかのようにくっきりと伝う血管が、生々しく目に飛び込んだ。ティセはなにやらはっとした。……うわー……と胸でつぶやきながら、部屋を出た。









 ハルカンドの西部地方はシュウに近いためだろうか、ひとびとはシュウ南部と似た伝統衣装を纏っている。男なら足首あたりまである丈の長いすとんとした上衣を纏う。女たちも裾に向かって幅の広がる、身を回せば裾が円く花を咲かせるあの華やかな衣装だ。シュウ南部のそれと違うのは、男女とも丈の短い柄物の胴着を身につけて、粋を演出しているところだ。町なかはことさらお洒落なひとびとが行き交っているように見えた。


 ティセは新しい手ぬぐいをひとつ買い求め、目抜き通りの雑貨屋を出た。夕刻迫る通りは大変な人出でとても賑やかだ。

 往来で待っているリュイのもとへ戻ると、背中の曲がった老婆がひとり、リュイに話しかけていた。にやにやと意味ありげな笑みを浮かべ、筋の浮いた首を無理やり伸ばしてリュイを見上げている。老婆の様子はまるで内緒話でもするかのようで、ふたりの距離は不自然なまでに近かった。リュイはさめやかな顔つきで見下ろしている。


 ティセの姿を目に留めて、リュイがこちらを振り向く。と、老婆もティセを見向いた。途端、急ににやにや笑いを収め、つまらなそうに口角を下げて、なにも言わずにそそくさと去ってしまった。

「……なに、あのお婆さん、変な感じだな……」

 リュイはさめやかな顔つきのまま答える。

「女を買わないかって……」

 ふうん……と言いかけてから、

「は!?」

 思いも寄らない返答に度肝を抜かれる。

「……娼館の客引き(ばばあ)か……!?」

 呆然としながら、雑踏に紛れていく老婆の背を見つめてつぶやいた。あとは暫し言葉が出なかった。


 ティセは独りごとにも似た言葉つきで、ぼそりとリュイへ問うた。

「…………前は……そういうことあったっけ……」

「いちどもなかったわけではないけれど…………ここ一・二年でよく声をかけられるようになった」

「……そうなんだ……」

 ためらいを覚えつつも、どうしても尋ねずにいられない、ふたたび独りごとのように問う。

「……買ってみたこと、あるの……」

 リュイはさらりと返す。

「いや、まだない」


 …………まだ…………?


 まるで、そのうち買うつもりがあるかのような「まだ」に、またしても度肝を抜かれた。


 あると返されたらもっと激しく驚愕しただろうが、その含みのある返答は、リュイにはそぐわないような気がしてならなかった。はっきり言えば、そういうことに少しも興味を示さないひとだと思っていた。そういった普通の興味からかけ離れているように思えるほど、リュイには浮世離れした印象を持っていたのだった。


 とても信じられないので、ティセは考え直した。ちょっと語弊のある言いかたをしてしまっただけかもしれない、ただの深読みに過ぎないのかもしれない、そう……きっとそうだ…………黙りこくって、リュイの顔をじいっと凝視していた。

 そんなティセの様子を、リュイは不可解そうに眺めていた。小首を傾げ、

「……なに?」

「……いや、なんでもない……」










 宿の食堂には四人の労働者と二組の家族連れがいて、夕食を取っている。誰かが注文した炒飯を作るジャッジャッ……という小気味よい音が厨房から聞こえてくる。ふたりはいつものように、一等安くてお代わり自由の定食を食べている。


 八割がた食したところに、二十歳前後と思われる下働きの女が、大きな盆を抱えてやってきた。左右の髪を小粋に編み込んだ、さっぱりとした顔つきの女だ。涼しげな眼差しでリュイを見て、

「お代わりはいかが?」

 リュイは目を上げて軽くうなずいた。女は盆の上の器から、まずは白米を、それから青菜の炒め煮、唐辛子とマンゴーの漬けものを適量取って、食べかけの盆に盛りつけた。すると、初めに運ばれてきたのと同じくらいの量に戻った。

「おまえ、相変わらずよく食うなぁ、呆れちゃうよ」

 ニヤリと笑えば、

「これくらい普通だろう」

 毫も意に介さないとばかりに静かに返した。女はティセを向き、

「あなたもいかが?」

「いただきます!」

 ティセの盆も初めの量に戻った。リュイはふっと失笑し、

「おまえこそ。ひとのことを言えるのか」

「え? 私、なんか言ったっけ?」

 素っ惚けたティセの態度がさも可笑しそうに、女はクスクス笑いながら、家族連れの席へ移動していった。





 早朝の厨房から、飯を炊く匂いとパンを揚げる匂いが渾然となって廊下に流れている。アルミの湯呑みをふたつ手にして厨房へ入ると、盛んに燃える竈の熱気で少々蒸し暑い。開店準備をしていた昨夜の下働きの女がティセに気づき、生あくびを噛み殺しながら、

「あら、早いのね、おはよう」

「おはようございます」

 土製の大きな竈の脇には小型の簡易焜炉がある。そこに掛けてある薬缶の口から、細長い湯気が上がっている。

「あの、薬缶のお湯を少しもらってもいいですか」

「どうぞ、お好きなだけ」

 女は大鍋の油で平パンを揚げつつ、少しも厭味のない笑みをティセに向けた。


「ね、あなたたちまだ若いけど、夫婦なの? それとも恋人同士?」


「…………」

 なんと答えるべきか、一瞬戸惑った。が、ありのままを答える。

「そういうんじゃなくて……ただ仲のいい友達です」

「そう、どうりで、そんなふうに見えないわけね」

 納得がいったかのようにあっさりと返した。

「……そんなふう……」

 なんとはなしにくり返した。


「ええ。だってほら、十五や十六でお嫁に行く()もいるけど、そういう場合、相手はうんと歳上なのが普通でしょう。だから夫婦には見えないし、かといって恋人同士みたいにベタベタ甘い雰囲気は全然ないし……どんな関係なのかなって、昨日見てて思ったの」


「…………そっか」

 女の微笑みと口ぶりは、その顔つきと同様にさっぱりとしていて、ここの年老いた女将が示したような非難の色はもちろん、俗悪な興味や下種(げす)な好奇心など、ティセを沈鬱にさせるものを微塵も含んでいなかった。だからだろう、ティセはつい小さく尋ねてみたくなった。


「……一緒に旅してるの、おかしいかなぁ……」


 女はわずかに目を丸くしたのち、にこりと笑った。


「いいじゃない、ふたりがそれでいいなら、おかしいことないわよ。もしかして、ここの女将さんの態度、気にしてる?」

「!! …………知ってました?」

「ふたりが来たとき、ちょうど帳場の近くにいたからね。女将さんは昔のひとだから、とても驚いて呆れてたみたいだったけど、ふたりがそれでいいなら、まわりがとやかく言う権利ないじゃない。堂々としてればいいのよ」


 あっさりと言ってのけた。

 パンを揚げ終えて、油の入った大鍋を鍋掴みでもって慎重に竈から下げた。代わりに、鶏肉汁を作る大鍋を竈に掛ける。再度ティセに目を向けて、

「彼、とても素敵ね。あんなきれいなイブリア、初めて見たわ。あんな友達なら私も欲しいくらい」

 言って、今度は悪戯っぽく笑い、

「でも駄目ね、私惚れっぽいから、すぐ好きになっちゃう。きっと友達じゃいられないわ」

 小さく舌を出して、自嘲気味に戯けてみせた。



 取っ手が熱いため、左右の袖越しに湯呑みを持ちつつ厨房をあとにした。味方を得たような心強さをじんわりと覚え、ティセは胸の内の沈鬱がわずかに薄まった気がしていた。これから先も非難めいた眼差しを受け続けるに違いない、けれど、厭味のない笑みを向けてくれる彼女のようなひともいるのだと、気を強くした。


 両手が塞がるのを考慮して、少しだけ開けておいた部屋の扉を肩で押してなかへ入る。リュイはもう起きていて、ふたり分の布団をちょうどたたみ終えたところだった。ティセは「布団ありがと」と言いつつ、小机の上に白湯の入った湯呑みを置いた。

「ありがとう」

 リュイは白湯を口にして、まるでなにかに安堵でもしているかのように、かすかに目を細めた。


「そういえば、おまえと別れてから、僕は朝、白湯を飲まなくなっていたんだ……」

「そうだったの!?」


 意外な言に驚いた。

「毎朝飲んでたじゃん、日課みたいに」

「そう、毎朝飲んでいた。そのうちおまえが用意してくれるようになっただろう。それが当たりまえになってしまって、おまえがいなくなったら、そのままになってしまった」

 そんな自分に呆れているかのように、リュイはやわらかく口角を上げた。

「なんだ、じゃあもしかして、もういらない?」

「え……」

 一瞬、哀しげな顔をした。返答に詰まったように黙し、のち、不服げに声を強くして、


「いる」


 ティセの目を見て言った。

 その様子がなにやら可笑しくて、思わず軽く吹き出した。すると、慌てたような返答が自分でも可笑しかったのか、リュイはクスクスと笑い声を漏らし始めた。


 窓掛けを引き寄せて窓を開ければ、新鮮な朝の日差しとさわやかな空気が室内を満たす。ティセは熱い白湯を少しずつ口にしながら、前庭の立ち木の若々しい緑を眺めた。葉のひとつひとつに光の粒がきらきらと踊っている。まぶしいほど明るい朝だ。心のなかで、しみじみとくり返す。


 ……いる……


 白湯のせいではない温かみが、たとえるなら幸せにも似た深い感慨が、胸を満たしていた。ちらりとリュイを見遣れば、湯呑みを手にしたまま、とても心地がよさそうに静かな微笑みを湛えていた。









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