絵日記
マルフィーは憂いていた。ユセビアから戻り次第城中の書物を漁ったものの、大樹や第一子の名前はどこにも記されてはいなかった。誰か情報を持つ者は居ないかとシャルに当たらせてみたが、名を知る者どころかそういった情報自体が初耳という者ばかり。無論、僅かな望みにかけてユセビアから戻ってすぐスパルに頼んで共鳴をさせてみたものの、言葉は聞こえるが会話はやはり出来なかった。アクサネスも似たような状態だと報告を受け、さてどうしたものかと考えているうちにユセビアの状況が悪くなっていると知ったのだ。
「歯痒いものだな……。」
書物の見すぎで疲れた目を癒そうと、私室にて匿っているスーニャの髪を梳く。あれから更に日が経ったというのに、スーニャはまるで起きる様子がないままだ。生命活動は極限まで抑えられているようで、髪も爪も変化は無いし排泄もない。連れてきた翌日に栄養を摂らせる為の点滴をしたところ、酷く嘔吐して喉に詰まらせかけて以来不安はあるがただ寝せたままにしている。信頼のおける侍女を四人つけて一時間ごとに体位を変えさせてはいるが、侍女からの報告では一切の反応もなく、発汗の様子もないとの事だった。
「スーニャ、お前は今夢を見ているのか?それとも、意識だけは起きているのか?」
問いかけに返事はない。それでも、マルフィーは部屋に戻ると必ず会話を試みた。まだ幼い娘が、もし意識だけは起きていたのだとしたら寂しかろうと思って。
「ユセビアという国を知っているか?いや、そなたはまだ外交……王の仕事には関わっていなかったな。気楽なものだ。」
幼い娘への話しかけ方などマルフィーは知らない。それでも、親友の真似をしてゆっくり、優しい言葉で話すくらいなら、なんとか出来る。それでも言葉選びが実に残念なところがマルフィーらしいのだが。
「ユセビアは、神様を信じる国だ。いつかそなたも行ってみると良い。特にこれといった観光名所などはないが、教会のステンドグラスはなかなかに見応えがあった。」
カタリナが聞けば無言で心の門を閉めそうな事を言うマルフィーだが、ユセビアはそもそも宗教国であり観光に適した国では無いのは事実である。言うなれば、教会そのものが国のメインであり唯一なのだ。
そしてその唯一が、今や威信を失いかけているわけだが。
「……そなたが行く頃には、全てが解決しているはずだ。そのために、我らが全力を尽くす。」
スーニャは静かに眠ったままだ。特に反応もないので、いつものように布団を綺麗にかけ直して立ち上がる。
「おやすみ、スーニャ。良い夢を。」
執務に戻ろうとしたマルフィーは、いつもスーニャの枕元に置いていた本が落ちているのを見つけて拾い上げた。スーニャがまだ言葉も喋れない頃に、イーティスが絵日記にと買い与えたものだ。いくらなんでも気が早すぎるとイニアか嗜めていたのが懐かしい。スーニャにとってはなんの面白みもないはずのそれを、しかし彼女は妙に気に入ったらしい。乳児の頃はよく角の部分を咥えていたし、歩くようになるといつも持ち歩いていた。
「……イーティスはかなり気が早かったようだな。」
ふと捲った本には、まだ何も書かれていない。装丁の凝った表紙はかなり高価なもののはずだが、その中身が白紙なのだからイーティスの親馬鹿もここまでくると面白く思えた。
「しかしこのままでは侍女が勘違いして片付けてしまうやもしれん……。」
マルフィーの部屋には彼が趣味として集めている古書が多くあり、スーニャの本とは見た目が少し似ている。侍女達には必要最低限の接触以外は禁じているが、良かれと思って動く者が居ないとも限らない。もし起きた時に国や親の現状を知ったスーニャが、肌身離さず持っていた本まで失ったとしたら。その絶望を想像して、マルフィーは決断した。
「……スーニャ、イーティス、許せよ。」
一番最初にスーニャが何を書くのかを楽しみにしていたイーティスに心の中で謝りながら、マルフィーは自身のペンを取って一枚目にスーニャの名前を書いた。
書いた、つもりだった。
「……ん?」
しかし、何度書いてもインクが乗らない。試しにデスクにあった不要な紙に書いてみたが、そこには普通に書けた。なのに、スーニャの本にだけインクが乗らないのだ。念の為にペンを替えて試したが、やはりスーニャの本にだけインクは乗らなかった。
「魔法でもかけられていたのか……?」
古書のように装丁の凝った本は大抵劣化防止の魔法がかけられている事が多く、あの親馬鹿なイーティスならやりかねんと気にしていなかったがどうやら違うらしい。試しに手を掲げて魔法の種類を選別出来ないかとやってみれば、マルフィーの知らない魔法のようだった。
「無理か……。」
仕方なくまたスーニャの枕元に本を置いて、本には触れないようにとシャルを通じて侍女達に通達を出した。
執務室に戻れば、色々と片付けなければならない事が山ほどある。今はデドロンだけでなくケルアの持つ外交も何とかしなければならないので、マルフィーは過去一番多忙であった。そんな中でもカタリナに手紙を書くべきかを執務の片手間に悩むのだから、天才とは本当に恐ろしい生き物である。




