piece.3-14
僕が宿屋の裏にある物置小屋の陰で、隠れて泣きながらしゃがみこんでいると、宿屋のおかみさんが近づいてきた。
「ああ、誰かと思ったらあんたかい。お姉さん元気になって良かったじゃないか」
「……はい。ありがとうございます。
……あと、ごめんなさい。お手伝いするって言ってたのに、結局何もしないでずっと泊めてもらって……」
「なあに。あのでっかい兄さんがちゃ〜んと正規分の金を払ってくれてるから、こっちはなんにも迷惑なんて思っちゃいないさ」
宿屋のおかみさんはとても機嫌が良さそうだ。
おかみさんが僕のすぐ隣に座った。
なんだろう……。妙に近すぎると思った。
「ねえ、あんた……とってもかわいい顔をしてるよねえ……」
僕の体がぎくりとこわばる。嫌な感じがした。
「お姉さんから聞いてるんだろう? これから……仲良くしようねえ」
レネーマだ……。僕の目の前にレネーマがいる。
なんで? どうして?
ここは僕が住んでた街じゃないはずなのに。
もう僕はレネーマとは関係ない。
僕はもうゴミじゃないはずなのに。
「う〜んとかわいがってあげるよ……。仕事なんてしなくていいんだ。あんたはただ毎晩アタシの言うことを聞いてくれさえすれば……ごはんだって食べさせてあげるし、必要なものは買ってあげるよ……だから……」
レネーマが僕の体をベタベタと触っていく。
ゾワッと僕の体に寒気が走る。息ができない。気持ちが悪い。吐きそうだった。
セリちゃんに触られたときには、全然こんな気持ちにならなかったのに。
「ちょ……っ! 嫌だ!」
僕はレネーマを両手で突き飛ばす。逃げ出そうとして立ち上がると、レネーマが低い声を出した。
「大きい声を出すんじゃないよ。あんたたち、姉弟なんて嘘なんだろ?」
その言葉が、僕の体を縛りつけた。逃げようとした僕の体が動かなくなる。まるで、石になったみたいに。
「あの女はお尋ね者……。あんたは、その女に飼われている坊やなんだろ?」
レネーマが嗤う。ゴミのように汚い笑顔を浮かべて――。
「バレたら困るよねえ。あんたのお姉さん、捕まっちゃうもの……。あんたがアタシの言うとおりにするなら、お姉さんがこの街を出ていくまでは黙っててあげるよ……どうだい?」
僕の目から涙がこぼれていく。
僕の見ている景色から、鮮やかだった色が消えていく。
もう……二度と戻りたくなかった、暗くて濁った世界が広がっていた。
やっぱり僕は、レネーマから逃げられない。
僕は人になれたと思ってたけど、そんなことはなかったんだ……。
やっぱり僕はゴミのままで。ゴミにしかなれなくて。ゴミとしか生きていけないんだ。
セリちゃんがいなくなったら、僕はもう……。
突然、黄色のまぶしい光が炸裂した。
「……ぅあ……!」
レネーマ――だと思ってたけど、よく見たら宿屋のおかみさんが苦しそうにうずくまっている。おかみさんの体には鎖が巻き付いていた。
僕はその白銀に光る鎖の先を目で追っていく。僕のよく知っている鎖に似ていた。
祈るような気持ちで、鎖の持ち主の方を見た。
そこには、僕の思ったとおりの人がいてくれた。
「黙らなくて結構です。言いたいならどうぞ。
私の見る目が間違っていたので撤回します。カインはあなたのような毒持ちの方には任せられません。私が連れていきます」
青空色の瞳が、鋭く宿屋のおかみさんを睨んでいた。
今日の空の色よりも、少しだけ鮮やかな色の青。僕の大好きな色だ……。
「すみませんね、私、未熟者なので力加減ができないんですよ。苦しいですよね? どうも失礼しました。
続きはどうぞディマーズにお願いしてください。
私がこの街に来たと言えば、すぐに駆けつけますから。その毒……早めに治療してもらってください。まだ間に合いますよ」
セリちゃんが鎖を強く引くと、おかみさんの体を縛っていた鎖が生き物のように解け、セリちゃんのところに戻って行った。
おかみさんは苦しそうに、ゼーゼーと息をしながらぐったりしている。
「カインごめん……。私と一緒にいるとすごく危ないんだけど、やっぱり……」
僕はセリちゃんの言葉を最後まで聞かず、セリちゃんに駆け寄った。そのまま胸に飛び込む。
「危なくてもいい! 怪我だってしたっていい! お願いだから僕を置いてかないで!」
セリちゃんにしがみつきながら、僕は涙が止まらなかった。僕が人でいられるのはセリちゃんの傍しかない。
セリちゃんから離れたら、僕はまた……ただのゴミになる。
「ごめんねカイン。怖い思いさせちゃった……。
本当にごめん……。だめだなあ……私が決めると、悪いことばかり起きちゃうのかなあ……」
セリちゃんが僕のことを、ぎゅーって抱きしめてくれる。
力いっぱい抱きしめられて、すごく苦しかった。
でもその苦しさがすごく安心する。怖かった気持ちが、いつの間にか消えていた。
セリちゃんのにおい。セリちゃんの柔らかさ。
セリちゃんの全部が僕を守ってくれていた。
僕はセリちゃんの胸に顔を埋めながら、心の中で思った。
今度セリちゃんが『ぎゅーってして』って言ったときは、絶対にすぐにしてあげよう。思いっきり、力いっぱいぎゅーしてあげよう。今みたいに。
きっと、あのときのセリちゃんも怖かったんだね。
だから……ぎゅーってしてほしかったんだね。
ごめんねセリちゃん。今度は絶対すぐに、ぎゅーってしてあげるから……。
僕はもう一度、そう決心した。




