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棄てられた王女ヘイゼル

アズマイラ男爵夫人のわかりにくい片想い

作者: くろつ

(なんでこんなことしてるんでしょうか、僕は……)


 ジャジャは男爵夫人の私室扉のそばに立って自問していた。


 妙な人間が最近入り込んでおりますの。怖いから、誰か近衛をよこしてくださいまし。


 アズマイラ・ドルパンティス男爵夫人が王に甘えて頼んだのが数日前のことだった。


 どうして自分がよこされたのかジャジャはわからない。


 近衛なら他にいくらもいるのに、わざわざヘイゼルと関わりの深い自分が指名されたのはなぜだろうと思う。嫌がらせだろうか。だがそれにしては、ここに来てからというもの、男爵夫人はジャジャの存在をことさら無視していた。


(まあ、無視でも僕は一向にかまわないわけだけど……)


 むしろ話しかけられないほうが、助かるといえば助かる。

 扱いにくいことにかけては王宮でも一、二を争う彼女だ。話し相手を求められるよりも、こうして黙って突っ立っている方が何倍楽かわからない。


 ただ、ジャジャが気になっているのは彼女の酒の飲み方だ。

 彼女は黒を基調にした私室にいる間中、とろりとした琥珀色の酒を飲んでいる。それは遠目にも、シードルやはちみつ酒のような軽い酒ではなかった。


(そして、明らかに飲みすぎでしょうよ……)


 男爵夫人に対してなんの恩義もないジャジャですらそう思うのに、侍女たちがそれについて一言もふれないことも気にかかる。


(もし自分が同じことをしていたら)


 ジャジャは考えた。

 かつてのあるじヘイゼルは体が弱く、アルコールを受け付けなかったので、自分だったらというていで想像してみる。


(──考えてみなくたってわかる。ガーヤの雷が落ちるに決まってる)


 ガーヤは愛情深い乳母だけれど、なんでもはいはいと許してくれる人ではなかった。ヘイゼルにしろジャジャにしろ、よくないことをすれば叱られたし、叱るとなれば相当怖い人だった。


 ジャジャがそんなことを考えている間にも、男爵夫人は静かに酒を飲み続け、それでいて乱れる様子もない。

 そこがなおさら怖いというか、凄みがあるんだよなあとジャジャは思った。


(男でも、なかなかそんな飲み方をする人はいないよ)


 かつてのこの人には、目を合わせることすらはばかられるような、ぞっとするような圧力があった。あでやかに笑っていても恐ろしかったものだ。


 だが今のこの人には、あの重厚な空気はない。


 それがなぜなのか、ジャジャにもうまく言えないが、堅固でとりつく島のなかった要塞の城壁に、今はほんの少し、隙間が空いているように感じられるのだ。


 隙と言うほどの隙ではないが、こう、憎しみで埋め尽くされていた気配の密度が薄くなったとでも言おうか。


(気が抜けた、とでも言ったらいいのか……)


 そしてそれがなぜなのか、ジャジャにはわからない。


(聞けるような相手でもないしな)


 ジャジャはここにいる間、ずっと立ちっぱなしだ。男爵夫人付きの侍女たちが出入りの際にそっと気の毒そうな目線をよこしてくる様子からも、これが一種の意地悪なのだとわかる。

 だがこれでもジャジャは近衛である。体力には自信があるからなにほどのこともない。ないのだが。


(暇だと、よからぬことばかり考えてしまうんだよな……)


 ヘイゼル様は今頃どうしているだろう。

 あれから何度となく考えては、頭から追い払ってきた。


 幸せであってほしいと思うのに、幸せそうにしているところを想像すると、この世界ごとぶち壊したい衝動に駆られる。

 ご苦労されている想像なんて、もってのほかだ。


『ずっと守ってもらっていたわ』


 別れ際のあの一言が、あれからずっと頭から離れない。


 従者として誇りに思っていい言葉のはずなのに、喜んでいいはずなのに、時間がたてばたつほど胸が痛い。

 あの時、言っておけばよかった。我慢などしていないで。


──待ってくださいヘイゼル様。僕はまだ、あなたのためになにもできていません。


 あの時喉まで出かかった言葉を口にしていたら、なにか変わっていただろうか。


──だから、一緒に連れていってください。


 あの背中を見送った夜からずっと、落ち着かない気分が続いていた。

 足元がおぼつかないような、気を抜くとどこまでも投げやりになってしまいそうな。


 そしてそんなジャジャと王宮内ですれ違っても、ガーヤはちらりと一瞥をくれるだけで、特になにも言おうとしなかった。


 それもまた、ジャジャの胸をちくりと刺す。

 気がついていないわけではないだろうに。ジャジャの内心が読めないガーヤではないはずなのに。


 もう自分たちの契約は終わったから、だから家族のふりもおしまいなのだろうか。


(いや……その通りだしそれでいいんだよ。筋は通ってる。わかってるよ、けどさ)


 考えても考えても答えは出ない。


 そうこうしているうち、女官のひとりが男爵夫人に耳打ちした。

 王のお召しがあったらしい。

 夫人は酒杯をその辺に置き散らかしたまま、侍女たちを従えて衣裳部屋へ姿を消した。


 やれやれとジャジャは肩を落とす。

 これでしばらくの間彼女はここへ戻ってこない。


(ようやく、自由時間だ)


 気晴らしも兼ねて体でも動かしてくるか、とジャジャはその場を後にした。


◇◇◇


 深夜とあって、訓練場には誰もいなかった。


 吐く息が白い。

 空には雲がかかっており、明日は雪かなとジャジャは身震いした。


 遅い時間とあって、訓練場に誰もいないことにジャジャはひそかにほっとした。


 誰かになにか言われたわけではないのだが、ここ数日でジャジャの陰口があちらこちらでささやかれているのは知っている。

 男爵夫人の私室に連日呼ばれているのがその理由だ。


 男爵夫人の伽の相手をしているとか、ヘイゼル王女を売って夫人に気に入られたのだとか。


 うるさいバカ。とジャジャは思っている。


 夜伽の相手などしていないが、外からはそう見えているのは理解できる。実際、そうでもなければ、急な連日の呼び出しをされる理由がないのだし。

 急な人員配置には、なにかしら裏か欲があるのが普通である。ここ王宮では。


 だが、そんなことをしていないのはジャジャ自身が一番よく知っている。


(夫人の警護だって、やりたくてやってるんじゃないし……呼ばれる理由なんて僕にもさっぱりわからないってんだ!)


 ムカつく気持ちをなだめるように、ジャジャは練習用の剣を取った。

 最初はゆっくり丁寧に演武を行う。


 二巡目、三巡目と数を重ねるごとに早さを増し、キレも鋭くしていくのだが、やっているうちにジャジャは愕然とした。

 楽しくないのだ。稽古が。


(久しぶりだから体がなまったか……いや、違う)


 これまでなら、むしゃくしゃすることがあったとしても、体を動かせばそれで気が晴れていた。森のはずれに住んでいた頃だってそうだ。ヘイゼルが寝た後でこっそり外に出て、ひとり剣を振れば大抵の憂さは晴れたものだ。


 だが今夜は、何度演武を繰り返しても、早さも力加減も能力ぎりぎりまで追い込んでも、胸の内の暗雲が晴れない。


(なんで……勘弁してくれよ)


 じゃりっ、と砂を踏む足音でジャジャははっと我にかえった。

 空気が冷えて澄んでいるせいで、足音が反響して聞こえる。


 振り向くと、そこにはエザン隊長がいた。


 エザン・カッセルは近衛全体を束ねる連隊長で、年齢は五十に届くかというほどだが、鍛えているせいか年よりずいぶん若く見える。近衛だけあって男ぶりも若手に引けを取らないが、物静かで、腕前が際立っているばかりではなく人望があることで有名だった。


「隊長」


 ジャジャは立位の礼を取り、剣を収めた。


「起こしてしまいましたか、申し訳ありません」


 エザン隊長はなにも言わない。

 なにも言われないことで、ジャジャは一層いたたまれない気持ちになった。


 責められたわけでもないのに、むやみと恥ずかしくなって、気が付けば自分から口をひらいていた。


「僕は……このまま近衛でいていいんでしょうか」

「お前の立場は今でも近衛だ」


 エザン隊長が低いよく通る声で言う。


「近衛が、王族とそれにまつわる方々を守るのは、なんらおかしなことではない」

「隊長……」


 不思議な感覚だった。

 頭の中がすうっと霧が晴れたように冴えていく。


「引き続き、任務をまっとうせよ」


 その声に体が直接反応した。


「はいっ」


 ジャジャはかかとを打ち合わせる敬礼の形をとり、そのままの姿勢で去っていく隊長の背中を見送った。


◇◇◇


「プレッツェルが食べたい」


 翌朝、男爵夫人の私室に呼ばれて行ってみると、この人にしては珍しく午前中から起きていた。


「プレッツェル……ですか」

「そうよ、焼き立てのやつ」


 プレッツェルってあれだよな、硬いパン。とジャジャは思う。


(屋台で棒にぶっ刺して売ってるやつ……)


 比較的安価で腹持ちがよいので、下町の路地ではよく売りに出ている。


(なんでこの人がそんなものを)


 とは思ったが、見る限り侍女もいなかったのでジャジャは申し出てみた。


「では、よかったら僕が買い求めて参りますが」

「お前が買ってきたのではだめ」

「と、いいますと……」


 男爵夫人は眉をひそめて舌打ちした。


「察しが悪いわね。買いに行くからついておいでと言ってるのよ」


 思わずジャジャは目をぱちくりさせた。どうしてそんなことを言い出すのか、わけがわからない。


(外へ出たい、だなんて)


「王宮にいないことがばれたら、どうなさいます」

「わかりゃしないわよ、そんなこと」

「……本気で言ってるんですか」

「陛下だったら今頃爆睡なさってる。問題などないわ」


 ジャジャとは目も合わせずに言う彼女に押し切られる格好で連れていかれたのは、城下町の端にあるエリアだった。


 彼女が選ぶにしては珍しいほど地味な通りにその店舗はあり、道幅も狭く、彼女の馬車が一台止まると道はほとんどそれで埋まってしまう。


 雪がちらつく中、ふちに毛皮をあしらったブーツで彼女は丸石敷きの小道に降り立つ。


「寒っ、ああいい匂い!」


 言いたいことだけ言って彼女はジャジャがエスコートするのも待たずにみずから店の扉を開けると、勝手知ったる様子で店内に入っていってしまう。

 店のガラス越しに見ていると、彼女は店主と既知の間柄のようで、和気あいあいと話している。


 今日の彼女の装いは、孔雀の羽根のような深みを帯びた青緑色のドレスに、黒に近い藍色のケープを羽織った格好だ。藍色のケープはしっとりとした艶を放って、見るからに上等の品だった。

 化粧もこってりと濃くて、身分を隠そうという気は一切ないらしい男爵夫人に、ジャジャは他人事ながらはらはらする。


 だがこうしてみると、相当に美しい女性なのだと認めざるを得なかった。

 彼女が店内にいる様子は、まるで大輪の花がそこに現れたようだ。


 彼女は店員らしき中年の女性とカウンター越しに両手を取り合って笑っている。どうやらこれまでも何度かここに来ているらしい。


 それなら少しは安心かとジャジャは思う。王の寵姫が下町で遊び歩いていると悪評を流される心配もしなくてよさそうだ。


(まあ、僕が心配するようなことではないけど……)


 店の棚には各種プレッツェルが整然と積み重なっている。


 アーモンドキャラメル、シナモンシュガー、クランベリー、ダブルチョコレート。独特の形に形成された大きな塊で売っているのもあれば、小さく切った小売り用もあって、店内は華やかだった。

 男爵夫人はぶどう色のアイシングがかかったものを指さしていくつも詰めてもらっている。


(──女性の好みはよくわからん)


 ジャジャは入り口で首をひねったが、すぐに異変を感じて振り返った。

 馬車を取り囲むようにして、がたいのいい男が三人、体を揺らしながら近づいてくるところだった。


「ガセかと思ったら、マジかよ」

「本当にいるぜ、アズマイラだ」


 ヒュー、と野卑な口笛が吹かれる。

 彼らのわずかな言葉だけで、ジャジャの近衛としての警戒心は疾く発動した。


「どちらさまでしょうか」


 店の扉の前にそれとなく立ちはだかって、まずは尋常にたずねてみたが、男たちは腕を振ってジャジャを追い払うそぶりを見せた。


「どけよ、俺らはあの女に用があんだ」

「そうそう、小銭が貰えりゃそれでよう。知ってるか小僧。俺たちはあの女のふるーいお友達なんだぜ?」

「知らねえだろ、あいつがここで暮らしてた頃どうやって金を稼いでたか」


 だがジャジャは店の入り口から動こうとせず、胸に手を当てて目礼してみせた。


「──恐れ入ります。この場はわたくしに免じて、お許しいただけませんか」

「なにい!?」


 威嚇するような大声にもジャジャはひるまない。


「近衛なんて、見た目と家柄だけで選ばれたお坊ちゃんだろ。ちょっと遊んでやれよ」

「きれいな顔に怪我しないうちにどいた方がいいぜー」


 近衛の正装には王宮の紋章がついている。城下町のものならば、いや、この国の人間ならば子供でも知っている印だ。それを見てなお、向かってくるということにジャジャは自分でも驚くほどカチンときた。


(──この無礼者め)


 胸の内側で静かな怒りが燃えていた。

 どうやら自分は、本気で怒ると熱くなるのではなくひんやりするタイプらしい。


「そう思われるなら、どうぞ、ご遠慮なくかかってこられませ」


 細身で身長もそう高くないジャジャに言われて、男たちは顔色を変えた。

 ジャジャは背中に神経を集中させて男爵夫人の様子を伺う。店から出てくる様子はない。


(上出来です。そのまま店内にいて下されば)


 三人か、勝てるかな。まあ負けることもないと思うけど、この制服であんまり泥臭い立ち回りをするのもなあ。


(まあ、いいか)


 考えたのはごく一瞬だった。

 それに、たとえ負けても一番愛した人に迷惑がかかることはもうないのだ。

 ジャジャは男たちに向かってにこっと笑った。


「謹んでお相手しますよ」


 その声が終わるか終わらないかで、男たちが獣じみた声をあげて襲い掛かってくる。

 ジャジャは最小の動きでそれをよけながら思った。

 なんだ、野犬の喧嘩だな。


 男たちが素手なのでこちらも剣を抜くわけにはいかないため、素早い身のこなしで男たちの間をすり抜け、掌底でまず一人昏倒させる。続いて二人めも。

 男たちは一瞬で意識を刈り取られ、重たい音をさせて路地に倒れ込んだ。


「気絶させただけです、骨は折っていません。でも折ることもできますよ。あなたはどうなさいますか?」


 残った一人にそう言うと、男は明らかに目が泳いでいた。細身の優男と侮っていたはずが、予想外の強さを見せつけられてどうしようか迷っているのだ。

 そこを逃さずジャジャは助け舟を出す。


「──ご友人たちをおひとりで連れ帰るのは難儀でしょう。ご自宅までお手伝いしましょうか?」


 暗に、お前の家までついていってやるぞと脅しているのだ。これに男は顔色を変えた。


「いっ、いや、それには及ばねえ! ほっといてくれ!」

「そうですか」


 気絶した男たちの尻を蹴飛ばし、手荒く正気づかせて彼らは逃げるように去っていった。


 何事かと集まってきた近隣の住民のこわごわとした表情に向けて、ジャジャは得意の笑顔を浮かべる。

 その笑顔ずるい。そんな顔されたらなにも言えなくなるじゃないとヘイゼルに何度も言われたお墨付きの笑顔だ。


「お騒がせ致しまして、申し訳ございません」


 その笑顔と優雅な身のこなしに、集まったものは老いも若きもポーッとなった。


 これでよし。ジャジャがそう思った時。

 背後で扉のあく音がして、男爵夫人が姿を見せた。


「なんだ、強いんじゃないの」

「──ええまあ」

「思っていたより強かったわ」

「もしかして、僕を試したんですか」

「そういう側面も考えなかったわけではないけど」


 ジャジャは体のわきで握りしめている彼女の手が震えているのを見下ろす。わかりやすい強がりだった。

 ジャジャは少し考えてから、馬車の扉をあけて彼女を促した。


「もう帰りますよ」


 彼女はむっとしたように眉をひそめる。


「なぜお前が決めるの」

「目的は達成したでしょう。それにこれ以上ここにいると官吏のものが来るかもしれません。アズマイラ・ドルパンティス男爵夫人であると官吏に名乗りたいんですか?」


 ジャジャが言うと彼女はしばし沈黙してから、意外に素直に馬車に乗り込んだ。

 文字通り、山ほどのプレッツェルを積んで。


◇◇◇


 翌日、ジャジャは稽古と勉強に精を出していた。


 いつも通り男爵夫人からのお召しはあったのだが、呼びに来た侍女には適当なことを言って帰らせた。

 ご機嫌を損ねるのが怖くないといえば嘘になるが、今はそれよりも稽古がしたかったし、勉強がしたかった。


 とにかく昨日の下町での格闘に納得がいっていないのだ。

 あの男たちに向けて言った口上だって今ひとつだった。

 よりスマートに、より聡明にふるまえたはずなのにと思うと悔しくて仕方ない。


(──だめだ、もっといろいろ鍛えないと)


 午後になり、ジャジャが図書室にいると、場所に不似合いなヒールのコツコツいう音が近づいてくる。

顔をあげると、きれいな眉を怒らせた男爵夫人がやってきていた。


「ちょっと」


 ジャジャの横に立つと腰に手を当てて言う。


「わたくしの警護を命じたはずよ。こんなところでなにをやっているの」


 ジャジャは椅子に腰かけたままで答えた。


「僕の立場は近衛ですよ。体をなまらせては元も子もないですし、知性のない近衛なんてもっと論外でしょう?」


 声を荒げるでもなく、淡々と言い返すジャジャのことを、別の席で勉強していた仲間の近衛たちが驚いた顔で眺めていた。


「──いいから来なさい」


 彼女が先に立って歩くのを、ジャジャはやむなく追いかけた。

 男爵夫人は侍女を連れておらず、図書室付近の廊下には普段からあまり人もいない。ふたりきりで歩いていると、男爵夫人は唐突に口をひらいた。


「お前はあの娘が好きなんでしょう」

「え?」

「一緒に育った第五王女よ」


 低くかすれた声でそう言われて、適当にごまかそうかどうかジャジャが迷っていると、男爵夫人はさらに続けた。


「答えなくていい、わかるから」


 コツ、コツ、コツ、コツ、コツ。

 誰もいない廊下には夫人の靴音だけが響く。


「あの娘が他の男に目の前でかっさらわれるのを、お前は指をくわえて見ていたわけね」


(別に指をくわえて見ていたわけでは……)


 これは喧嘩を売られているのだろうか。それとも安い挑発なのだろうか。

 判断しかねてジャジャがなんて返そうか迷っていると、その矢先、彼女は言った。


「なぜ諦めるの」

「はっ?」


 予想外のセリフに、思わず変な声が出た。


「お前を見ていたらわかる。あの娘がいなくなってからずっと、気が抜けたみたいで、見ていられない」


 男爵夫人はまっすぐ前を向いて話しているし、ジャジャは立場上、少し下がって歩いている。だからどんな顔して言っているのか彼女の表情は見えない。


「蛇の抜け殻でももう少ししゃんとしてるわ」

「はあ……」


 なんだろうかこれは。励まし? まさか、この人が?


「他の男のものになったくらいでなぜ諦めるの。人の心なんて一定ではないわ。諦めなければいつか取り戻せる」


 嘘みたいな話ではあったが、まぎれもなくこれは励ましだった。


 ジャジャは内心でかなり驚いていた。どうして自分がこの人にこんなことを言ってもらえるのか、わからない。


「執念深く、粘り強く、チャンスを待つのよ。チャンスがないなら作るのよ。本当の望みというのはそうやって叶えていくものだわ。お前はあまりにあっさり諦めすぎよ。見ていて腹が立つわ」


 確かに、とジャジャは思った。

 あなたはそうやってご自分の望みを叶えてきたんでしたよね。


(だとすると──本当に驚くことではあるが、これは、この人が本音で話して下さってるということなんだろうな……)


 ジャジャは小さく吐息を漏らす。

 悔しいが、この人の言うとおりかもしれない。


 あの日、あの場所でした判断が間違っていたとは今でも思わない。だけど、だからといってすべてを諦める必要もまたないのかもしれない。

 そう考えると、ふっと気持ちが楽になるのを感じた。


(いつか、あの人が危険な目に遭った時は僕が必ず助けにいく──助けにいけるような自分になる。今はまだ、遠くにいるとしても)


 先日エザン隊長に、近衛の任務をまっとうせよと言われた時と同じだった。いや、その時以上だった。

 ジャジャの頭は霧が晴れたようになり、どこまでも自分のすべきことが見通せる感覚があった。そしてその道が間違っていない確信もある。


 それほどの爽快感はひどく久しぶりのことで、静かな廊下を歩きながらジャジャはひそかに深呼吸をした。そして言う。


「では僭越ですが僕からも」

「なっ、なによ」

「あなたは敵が多すぎます。昨日、お忍びで城下町に行くのを僕以外の誰かに告げましたか?」

「……言ってないわ」

「でしょう。それなのにあの場にいた男たちは、あなたが来るのをあらかじめ知っていたような口ぶりでした。誰かが情報を流したんです」

「……褒美と恐怖でどのようにでも動く。人とは概してそういうもの」


 自分のほうこそ諦めきったようなその物言いに、ジャジャはよほど言おうかと思った。

 あなたは味方を作るべきですと。

 だが今はその時ではないと判断して口をつぐむ。実際、この人の立場では敵を作らないことですら難しいはずだった。


 代わりに別のことを言った。


「それに、強い酒を飲みすぎです」

「よっ、余計なことを。控えなさい!」

「あなたにきちんとものが言える侍女がいるなら、僕もこんなことは言いませんよ。でも、いないじゃないですか」


 男爵夫人は立ち止まると、くるりとジャジャを振り向いた。


「おだまり。お前、口うるさいわ!」


 ここぞとばかりにジャジャは得意の笑顔を作る。


「おや、ご存じなかった?」


 にっこりほほ笑むと、なぜか、男爵夫人はぐっと詰まった。

 ごくわずか、彼女は言葉をなくしていたが、表情を隠すようにぷいと前を向いて再び歩き出した。厚塗りの化粧をしていない耳の後ろが赤く染まっている。


 ジャジャは彼女について歩きながらくどくどと続けた。


「だいたい見ていたら、大の男でもしないような飲み方じゃないですか。飲むというか、流し込むというか」

「うるさいっ」

「僕はこう見えてうるさいし、しつこいタイプですよ。あんな飲み方じゃ酒だってかわいそうです」

「うるさいわねっ」

「おいやでしたら、誰か別の、黙ってなんでも言うことを聞く人間をそばに置いたらいいと思いますよ。でもそういう人間はもう飽き飽きしてるでしょう?」

「だから、うるさいというのに!」

「僕は口うるさいタイプだってさっきも言いましたよ」


 くどくど、わあわあと言い合う声は止まらなかった。


 そして言い合いながら王宮の廊下を歩くふたりを、すれ違う女官たちが珍しいものでも見るかのように見ていた。

へえー、アズマイラさんそうだったんだー。と私も書いてから思いました。

作者ですらここまでわかりにくいんだから、本人に思いが伝わるなんて何光年先なのか……(ほろり)

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