06-04:○ローゼイト・サーペント[4]
第六話:「死に化粧」
section04「ローゼイト・サーペント」
それから私は、ガタガタと揺れ動く不安定な荷台の上で、一体どのぐらいの時間を過ごしたのだろう。
冷たい真冬の風から身を守る為、積み上げられた大きな荷物の隙間に潜り込み、盗んだ厚手の衣服を被って、じっと寒さに耐え忍んでいた私は、ふと所々穴の開いたブルーシートから差し込む、眩い光の筋によって現実世界へと引き戻される事になる。
それまで毎日のように監守達の暴行によって、強制的に叩き起こされていた私にとって、優しい寝覚めを促すように降り注ぐ朝の光は、まるで天国にでもいるような暖かな雰囲気を感じるものであり、私はしばらくの間その安息の一時に身を委ね、じっとその光の筋に見入っていた。
しかし、そんな久しぶりとも言える心の安らぎを、一瞬にして打ち砕く程の記憶がようやく私の脳裏に蘇ると、私は自分の犯した余りに軽率な行動に対して、背筋が凍りつくほどの強い悪寒を覚えてしまう。
如何に過酷な収容所を脱出する事に成功したとは言え、所詮私は犯罪者たるレッテルを貼り付けられた逃亡者。
久しぶりに感じた安らぎの中に現を抜かし、事もあろうか完全に無防備な状態で熟睡してしまうなど、絶対に有ってはならない行動だったのだ。
この時、乗り込んだトラックが停車するような気配はまだ無かったが、それでも何かしらの検問に引っかかる可能性もあるため、ハッとした私は即座に右手で短銃を握り締めると、トラックの荷台を覆ったブルーシートの隙間から恐る恐る外の世界を覗き込んでみた。
あ・・・。あれが有名なアルテナス山か・・・。
するとまず、私の目に飛び込んできたのは、綺麗に澄み渡った青空に映える、真っ白に雪化粧を施した大きな山だった。
山の裾野は完全に空の色へと取り込まれ、朝日に照らし出された山頂付近だけが空の彼方に映えるその幻想的風貌は、まさに伝え聞い通りの「天空の城」そのものであり、私の抱いた不安を一瞬にしてかき消してくれたのだ。
綺麗なアルテナス山の姿を左手に、長い一本道を南下しているという事は、私を乗せたトラックが既に、トゥアム共和国領内へと足を踏み入れた事を示唆している。
どうやら私の懸念していた検問所は、私が深い眠りの淵へと沈んでいる間に、難なくやり過ごす事が出来ていたらしい。
行き先が入国管理のずさんなトゥアム共和国でよかった・・・。
今でさえ入国には厳しい審査が義務付けられてはいるが、当時、高度経済成長期にあったトゥアム共和国は、疲弊した国力を増強する為に、諸外国からの難民達を新たな働き手として幅広く受け入れてきた過去があり、各所に設置された国境検問所の体制は、決して褒められた機能を有してはいなかった。
しかも、前帝ソヴェールの戦火縮小宣言以降、帝国と共和国の間では頻繁に貿易取引を行う輸送車両が往来するようになっており、私を乗せたトラックはお得意様貴族のトラックか何かだったのだろうか、次なる検問所においても、積荷の検査すらされない有様だった。
私は運が良いのだろうか・・・。
いえ・・・。決してそんなはずは無いわよね・・・。
私は酷い拷問の爪痕が残された両腕を擦りながら、そう思ったものだ。
やがて程無くして私が辿り着いた先は、トゥアム共和国の副都心リトバリエジ郊外にある工業地帯だった。
当時このリトバリエジ都市は、都市中心部を取り囲むように建設された、巨大な工業地帯によって成り立つ製造の街であり、首都ランベルクをも凌ぐ勢いで、著しい経済発展を遂げていた時期でもある。
貧しい者も、身分の低い者も、皆平等に働く為のチャンスを与えられ、能力さえあれば誰でも成り上がる事が出来と言う、まさに夢の街。
この都市に新たな希望を見出して、各地から集結した労働者達の中には、莫大な富と名誉を手にして、人生の勝ち組たる存在にまで伸し上がった者も少なくなかった。
しかし、そんな数多くの人々の夢を乗せた希望の都も、強く光を放てば放つほどに、真っ黒に淀んだ色濃い影を作り出してしまうもの。
数多くの成功者を生み出すに至ったその過程の中には、それ以上に数多くの人々の礎が有ったからに他ならず、この時、志半ばに朽ち果てた人々によって、近代的栄華を誇る巨大な都市群の周囲には、汚らしいスラム街が作り出されていた。
そこは昼夜を問わずして凶悪的犯罪が横行する危険な集落であったが、私のように国外から逃亡してきた犯罪者にとっては、格好の隠れ家となりえるため、寧ろ歓迎すべき事であった。
私はとりあえず傷ついた身体を休める為、しばらくの間この場所を仮の根城とする事に決めた。
ここでの暮らしには何ら不自由はしなかった。
何せ私は黙って町を歩いているだけで生活ができたのだから。
完全に無法地帯とも言える危険なこのスラム街には、夢破れて人生を転げ落ちた敗北者達の他に、弱者を狙い弱者を貪る数多くの犯罪者達が住み着いており、何故か私はみすぼらしい格好をしているにも関わらず、このような「ならず者」達の集団に取り囲まれる事が多かった。
それは恐らく、私が女であった事が原因の一つなのだろうと思われるが、それでもいきり立って私の目の前に立ちはだかるなど、何とも可哀想な連中だった。
如何に屈強な身体を有した猛者達であろうと、所詮いくら素人達が徒党を組んで見せたところで、全く私の敵ではない。
私は軽く彼等の相手をしてやると、逆に金品を巻き上げてやった。
何とも簡単な話だ。
しばらくの間は、この方法で飢えを凌ぐ事ができた。
しかしやがて、そんな私の噂が周囲へと知れ渡ってしまうと、私を狙おうなどと考える愚かな獲物達の数も次第に激減の一途を辿る事になる。
それは当然の事と言えば当然の事だが、その後私は、結局彼等と同様に弱者を狙う略奪者の一人として、数々の暴挙を振るう事になるのだ。
人通りの激しい場所に紛れ込んでのスリや引ったくり、置き引きや万引きは、ほぼ毎日のように繰り返したし、身なりの良い婦人を見つければナイフを突きつけて恐喝したり、豪華な店や家を見つければ、白昼堂々と真正面から強盗に押し入ったりもした。
勿論この時、ほんの小娘に過ぎなかった私を軽んじて、無駄な抵抗を見せた者には、愚かなる殺人被害者の烙印を押し付けてやったし、必死に泣き叫んで命乞いをする者でも、私の要求を拒んだ場合には、情け容赦なく振り翳したナイフで、身体を切り刻んでやった。
自分が生き延びる為に他人から物を奪う。
自分が生き延びる為に他人を殺す。
それは、幼い頃からファルクラムと言う犯罪組織の中で育って来た私にとって、唯一持ちえた生き延びる為の手段であり、私はそこに何の罪悪感も、何の躊躇いも感じていなかった。
私の名前は「アリミア」。
私はこのスラム街で、自分をそう名乗るようになっていた。
「アリ(一匹の)・ミーア(猫)」を意味するこの名前は、当時このスラム街で妙に私に懐いて来た一匹の子猫から取って付けた名前であり、私のような人間にとっては、何ともお似合いのネーミングとも言えた。
ミドルネームとラストネームは適当につけた。
やがて、私がこのスラム街に住み着いてから2ヶ月も経つと、次第に私の周りには数多くのならず者達が集まり始めた。
それまで彼等の縄張りだったこのスラム街を、一人我が物顔で練り歩くようになった私を、今度は寄って集って撲殺でもするつもりなのだろうかと、私は素っ気無くも白々しい視線で彼等を睨み付けたものだ。
しかし、実際に彼等が私に激しい敵意を示して見せたのかと思えばそうではなく、私のような小娘一人にさえ立ち向かう勇気の無い彼等は、媚び諂うかのように私の足元に平伏したのだ。
とどのつまり、彼等は私の犯罪行為のお零れに預かろうと集まった、意地汚いハイエナの集団であり、私は何の有り難味も無い、彼等の畏敬の象徴にされてしまった訳だ。
私にとってそれは、煩わしい以外の何者でもなかったが、徒党を組んでいた方がより大きな獲物を獲られる事を知っていた私は、しばらくの間彼等と行動を共にする事になる。
しかしこの時、私が一緒に行動していた男達の名前は、誰一人として覚えてはいない。顔すらも思い出せない。
ただ、彼等と一緒に数多くの獲物を仕留め、大量の略奪品を得る事に成功したという、虚しい記憶だけが私の頭の中に残っているだけだ。
私にとっての彼等は共に戦う仲間達などではなく、単に都合よく利用するだけのゴミにも等しい存在に過ぎなかったと言う事なのだろうが、それは彼等としても同じ事だった。
何ら生きる価値も無い掃溜めに屯す亡者達の群れに囲まれ、ただ持ちえた暴力的能力をひけらかす私の存在は、全く何者と交わる事も無く、自分自身のみの為に生きる孤独な悪魔。
決して纏わりつく目障りな男共の為に生きていた訳ではない。
決して誰かの為に破壊的猛威を振るった訳でもない。
私は略奪行為を終えた後に彼等が見せる、腹黒い友好的態度を強引に断ち切ると、いつも決まって直ぐに彼等の元を立ち去った。
そして、たった一人だけの世界の中に身を埋めながら、復讐者としての自分が抱いた目標を見定めて、裏切り者たるシュバルツ・ノインの姿に強い憎しみの念をぶつけるのだ。
しかしやがて、長い時間が経過すると共に、癒えた身体が凄惨な拷問で受けた傷跡を消し始めると、それまで強く抱き続けてきた激しい殺意の念が、私の心の奥底から徐々に風化し行く兆しが見え始めた。
勿論、私には決してこの裏切り者を赦してやるつもりなど無かったのだが、普段の生活に何の不安も感じなくなった私は、何をするでもなく一人で過ごす時間を持て余すようになり、不思議と沸き起こる一つの疑念に対して、意識を囚われるようになっていったのだ。
何故ノインは、私を助けたのだろう・・・。
恐らく彼は、ファルクラム組織を壊滅させる為に送り込まれたスパイの一人。
ファルクラム組織の一員に成りすまして、数多くの作戦任務をこなして見せたのも、周囲の信頼をそれなりに獲得する為であり、決して彼の本意ではなかったのだろう。
それは作戦任務を終了させた後に見せた、彼の涙がそれを物語っている。
彼の抱く思いがどんなものであったにせよ、彼にとってファルクラムと言う組織は戦うべき敵以外の何者でもなく、私とノインは最初から対峙すべき敵同士だったという事になる。
とすれば、彼に私を助ける理由など何処にも無いはずであり、それまでローゼイト・サーペントとして、数々の猛威を振るって来たこの私を助けるなど、まさに彼自身の立場をも危うくする危険な行為に他ならなかった。
拷問部屋でのた打ち回る私の姿を哀れに思い、助けてやろうとでも考えたのだろうか。
言葉による意思のやり取りが儘ならなかったにしろ、お互いに思いを通わせたあの頃の日々を思い起こして。
結局私自身、幾ら心の中で激しい憎悪と殺意の炎を滾らせてみた所で、彼と過ごした思い出の日々を完全にかき消す事が出来ないでいる。
彼からこの紅いヘアピンを貰った時の、あの大きな胸の高鳴りを、私はいつまでも忘れられずにいる。
彼は一体、何を思って戦っていたのだろうか。
彼は今、何処で何をしているのだろうか。
少しでも私の事を、思い出してくれたりするのだろうか。
私は明かりも無い真っ暗な廃墟の屋上で一人、綺麗な星空を見上げながらそんな思いに耽る事が多くなっていた。
しかし、ノインがファルクラム組織を壊滅に追いやった事実は消えはしない。
ノインが私を過酷な強制収容所へと突き落とした事実は消えはしない。
身体へと刻み付けられた傷跡以上に、彼に踏みにじられた心の傷は深く、どれだけ時を経ても私の中で忌まわしい記憶を疼かせるのも事実だった。
裏切り者であるノインを殺す。
裏切り者であるノインを殺す為に生き延びる。
いつか必ずノインを探し出して、この手で殺してやる。
そう心の中で強く決意した思いが私を突き動かしているのは間違いない。
しかし、彼の消息を掴み取る事も出来ない逃亡生活に託けて、ただその日を生きる為だけに犯罪行為を重ねる自分が居る。
もはやこの時、抱いた思いとは裏腹に、私は自分が生き延びる為の目的を半分見失いかけていたのかも知れない。
そして、決して答えを見つける事の出来ない疑念を胸に、自問自答を繰り返した挙句、疲れ果てて眠りにつく。
そんな毎日を無為に過ごす日々が続いていた。