06-03:○ローゼイト・サーペント[3]
第六話:「死に化粧」
section03「ローゼイト・サーペント」
それからどのぐらいの時が流れただろうか。
その後私は、薄暗い地下室の中で目覚める事になる。
四方を強固な石の壁で囲われたその部屋は、薄汚い毛布が一枚置いてあるだけで、他には何も無い冷たい牢獄の中だった。
私は咄嗟に、今自分の置かれている立場を確認しようと、勢い良く起き上がろうとしたのだが、右脇腹に走った激痛によってそれを阻止される。
そして、両手両足に填められた頑丈な枷によって、完全に自由を奪われてしまっている事に気がつくと、私はようやく敵の手に落ちてしまった事を悟った。
帝国憲兵隊に撃たれた右脇腹の傷は、特に命に関わるような深刻なものではなく、不思議と丁寧に施された手当てによって、少なくとも悪化の一途を辿っているような気配は感じられなかったのだが、いっそその時に死ぬ事が出来ていたのなら、どんなに楽だったのだろう。
帝国憲兵隊の捕虜として私が送りつけられたその施設は、帝国国内でも重犯罪を犯した囚人達が送り込まれる過酷な強制収容所。
「トンダルシア囚人収容所」だった。
凶悪な犯罪者達を別個に監禁する為のその牢獄は、寝る為のベッドも無ければ、水場も無いという倉庫のような部屋であり、トイレすら設置されていないと言う酷いものだった。
唯一支給されたのは、誰のものとも解らない血糊が大量に付着した薄汚い毛布一枚のみ。
食事も一日一回のみで、異臭を放つ粗悪なスープ一杯以外は、満足に水を飲むことも許されなかった。
勿論、その程度の劣悪な環境ぐらいで、簡単に音を上げるような私ではなかったが、その後次第に傷の癒えた私の前には、今だ嘗て無いほどの過酷な茨の道が用意されていたのだ。
何故、暴虐の破壊者「ローゼイト・サーペント」たる私が、処刑される事もなく生かされ続ける事になったのか、その理由が明確に示された訳ではないが、恐らく今だどこかに隠れ潜んでいるであろうファルクラムメンバー達の情報を、聞き出したいと言う意図が有ったからなのだろう。
勿論、実行部隊の構成員に過ぎない私が持ちえた情報など、ほんの一握りの些細なものに過ぎ無かったのだが、収容所の監守達に取ってみれば、私が情報を持っていようと持ていまいと、何ら関係の無い話だったのかもしれない。
その後私は、取り調べと称した凄惨な拷問を強いられ、まさに家畜以下とも言える非道な扱いを受ける事になる。
牢獄から拷問部屋まで続く長い通路を、首輪から伸びる鎖によって引きずり回される事は当たり前だったし、まるで意思無き人形を弄ぶかのように繰り返される過酷な拷問は、剥ぎ取られた衣服と共に、私の人間としての理性や尊厳をも、完全に奪い去ってしまう程のものだった。
私は毎日のように連れ込まれた拷問部屋の中で意識を失うと、夢も希望も無い薄暗い牢獄の中に放り込まれ、そして、再び監守の遊び道具になる為だけに、次の朝を迎えるのだ。
自業自得の報いと言われれば、そうなのかもしれない。
私が幾ら泣いても。幾ら叫んでも。
私の事を人間として扱ってくれるような高尚な人間は、誰一人としていなかった。
しかしある時、そんな地獄の淵をのた打ち回っていた私の目の前に、突然、不思議な光の筋が差し込んだ。
その日は前帝ソヴェールの誕生祭が行われる日で、ほとんど日常化していた私への拷問作業も珍しく免除され、私は朝から汚い毛布に包まったまま、薄暗い牢獄の中に蹲っていた。
すると、正午を告げる鐘の音が鳴り響いた後、普段は粗悪な食事が配給される小窓から、不思議な小箱が部屋の中へと放り込まれたのだ。
この時、私はもう既に食事を取る気力すら沸き起こらない極限状態にあったが、毎日食事が配給される時間は夕刻17:00と決まっていたため、不思議に思った私は、満足に動かす事もできなくなった手足を引きずり、小箱の元まで這いずって行った。
その小さな小箱は、何の変哲も無いスチール製の入れ物であり、外見何が収められているのか全く検討も付かなかったが、小箱の上に添えられた1枚の紙切れに書かれていた文字を読み取ると、すぐさまその小箱を毛布の中へと仕舞い込んだ。
「今日の夜間巡回予定は20:00以降一人体制」
勿論、私はその紙切れに書かれている内容は直ぐに理解する事が出来た。
しかし、何故このような知らせと共に小箱が放り込まれたのかは、全く理解する事が出来なかった。
今日の拷問を免除された私に対する、悪意のある悪戯なのではないか。
私は毛布の中で抱きかかえた小箱をじっと見つめながら、少なからずそんな疑念を抱いてしまったのだが、もはや何も失う物の無い私が、今更何かに脅えて躊躇する理由などどこにもない。
私は思い切って小箱の蓋を開いて見る事にした。
手に持った感じから、中には何か重量感のある物が入っているであろう事は予想していた。
しかし私は、まさかこのようなものが小箱の中に納められていようとは、全く思っても見なかったのだ。
小箱の中に収められていたものとは、まさに脱獄を幇助する為に、選りすぐられた小道具の集合体であり、鋭利な小型ナイフや短銃は勿論、使い道多様な細長い針金や布製の袋、枷の鎖を切断する為の鑢ワイヤーの他、脱獄する為の逃走ルートを示した地図や、硬く先の尖った20本の鉄の棒までもが収められていたのだ。
一度私を逃がしておいて、その後狩りでも楽しもうと言う事なのだろうか・・・。
この時私は、この小箱の中身に大きな衝撃を受けてしまった事は確かだが、それでも何かの罠である可能性を否定する事も出来ず、用心深く誰もいない牢獄の中を見渡してしまった。
勿論、そこには何かしらの意図が隠されているのであろう事は間違い無い。
しかし、それまでローゼイト・サーペントとして暴虐の限りを尽くしてきた私を、無為に脱獄させて喜ぶような人間は誰もいないはずだ。
もはや監守達の欲望を満足させるためだけの、汚れた道具へと成り下がってしまった私に、一体何処の誰が、何を求めてこのような道具を分け与えたのだろうか。
私はふと、手にした短銃をマジマジと見つめながら、小さく溜め息を吐き出してしまった。
これで頭を撃てば・・・。楽になれるのかしら・・・。
日々繰り返される過酷な拷問は、それを必死に耐え抜いたからと言って、その後の未来に安楽な世界が約束されている訳では無い。
恐らく私が力尽きて朽ち果てるか、または監守達の興味が削がれてしまうまで、その行為は延々と繰り返される事になるのだろう。
苦痛のみが約束された過酷な人生。
私はそんな自分の光無き未来に失望し、何ら生きる糧をも見出す事もできない状況で、自分の命を絶ってしまおうと何度も思い詰めた。
しかし、そこに一体何を望んでいたのか解らないが、結局私は、死後の世界へと逃げ去る決意を断行する事が出来なかったのだ。
勿論、与えられたこの道具を用いて脱獄し、監守達の追撃の手を逃れたからと言って、帰れる場所も無い犯罪者たる私に、明るい未来が訪れる保証も無い。
ファルクラム組織のためだけに自分の生きる道筋を重ね、作戦任務を成功させるためだけに生きてきた私にとって、それ以外の何かに生き延びる為の糧を築き上げるなど、簡単に出来ようはずも無かった。
しかし、そんな絶望の淵へと追い詰められた私が、小箱の中で微かに光る不思議な小物の存在に気が付いたのはその時だ。
それは脱獄する事を目的とした道具の中で、唯一全く関係の無い日用品の一つであり、私が収容所へと連れ込まれる過程で行方不明となっていた、私の紅いヘアピンだった。
何の装飾も施されていない、味気ない紅いヘアピン。
私が唯一、心を通わせた男性からの贈り物である紅いヘアピン。
この時私は、小箱の中から取り出した紅いヘアピンを見つめながら、完全に我を見失ってしまうほどの強い殺意が心の中に沸き起こるのを感じていた。
私の奪い取られた数ある持ち物の中から、態々(わざわざ)この紅いヘアピンを選択して小箱の中に収めるような人間は、世界にたった一人しか居ない。
つまりこの小箱は、その人物が私の為に用意したものだと言う事だ。
それは、ファルクラム組織を裏切り、壊滅へと追いやった人物。
私が最も信頼し、心を寄せた男性。
そして、そんな私の想いを引き千切り、私をこんな目に合わせた張本人。
「シュバルツ・ノイン」ただ一人。
私は即座に道具を小箱の中へと押し込めると、薄汚い毛布を頭から被り、時が訪れるのを只管に待った。
そう、紙に印されていた脱獄する機会が訪れるのを。
この期に及んで、この私に一体何の希望を抱いて生きろというの!?
私の想いを踏みにじった癖に!!
私をこんな酷い目に合わせた癖に!!
ファルクラム組織を裏切り、メンバー達全員を地獄の底へと突き落としておきながら、何故今頃になって私にこんな物を!!
貴方なんか、欲望で肥満しきった下衆共にいい様に操られながら、心の通わぬ人形として朽ち果てればいいのよ!!
後悔するといいわ・・・。
私にこんな物を与えてしまった事を。
貴方の情報が正しいかどうかなんて関係ない。
私は絶対に生き延びる!
絶対に生き延びて、そして絶対に貴方を殺してやる!!
やがて時は過ぎ、私のいる牢獄の前を20:00定期巡回担当の監守が見回りに訪れる。
普段であれば、常に二人体制で見回りが行われるのだが、この日は帝国国民達にとって特別な夜であり、恐らく監守達にもその恩恵が与えられる事になったのだろう。
確かに紙に記されていた通り、20:00の見回り担当の監守は一人だった。
私は監守が鉄格子で仕切られた小窓から顔を覗かせるタイミングを見計らうと、苦しそうな素振りを装って、立て続けに激しい咳を演出して見せた。
勿論、私のような奴隷にも等しいゴミ屑がどうなろうと、監守達にしてみればどうでもいい存在だったに違いないが、それでも私が助けを懇願するような上目遣いを監守に差し向けると、彼は私の様子を確認する為に牢獄の扉の鍵を開け放ったのだ。
この時私は、既に両手足を括り付ける枷の鎖を、鑢ワイヤーで切断し終えていたのだが、肩から毛布を被って全身を覆い隠すと、監守の目を欺く為に、無抵抗たる奴隷を演じて脅えたように震えて見せる。
すると監守は、全く何ら警戒する素振りを見せずに、完全に無防備なまま私の目の前へと歩み寄って来た。
恐らく彼は、私に対して何らかの虐待を加えるつもりでいたのだろう。
愚かにも私の目の前へとしゃがみ込んだ彼の表情には、吐き気がするほど厭らしい笑みが浮かび上がっていた。
私は即座に毛布の中に隠し持ったナイフを強く握り締めると、全く躊躇する事無く、彼の喉元へとナイフの刃を突き立ててやる。
監守は一瞬、自分が何をされたのか理解できずに驚いた表情を私に向けたのだが、今更彼がそれに気付いたところで、何ら意味の無い事であった。
やがて、私が突き立てたナイフを勢い良く引き抜くと、監守は全く一言も発する事が出来ないまま、おびただしい量の鮮血をぶちまけて汚い牢獄の床へと蹲った。
私は即座に、監守の腰にぶら下げられてる鍵束を剥ぎ取ると、即死を免れもがき苦しむ監守を他所に、素早く牢獄の外へと飛び出した。
そして、薄ら暗い通路の左右を見渡した後で、一瞬、脱出経路の反対側となる通路奥へと視線を釘付ける。
もしかしたら、まだそこにノインが居るかもしれない・・・。
一寸の光さえも差し込まない暗黒の牢獄の中で、ようやく私が見出した生きる為の唯一の目的。
ファルクラム組織を裏切ったノインを殺す事。
私を裏切ったノインを殺す事。
私はこの時、沸々と沸き起こる激しい殺意の波に後押しされ、僅かな可能性に微かな望みを繋いで、監守達の屯す監視部屋へと、玉砕覚悟で特攻を仕掛けようかと言う気持ちに駆り立てられてしまった。
しかし、如何に今日の監視体制が脆弱なものであったにせよ、確実に彼が監視部屋に居る保証など何処にも無く、望みの薄い無謀な行為に打って出るなど、私にとっては無駄死にを意味する愚かな暴挙以外のなにものでもなかった。
私は高鳴る自分の思いを必死に心の奥底へと押し込めると、長きに渡って痛めつけられ五体に新たな生命の業火を宿し、逃走ルートとして示された道順を走り始めた。
不思議と溢れ出す、熱い涙を必死に拭い去りながら。
それは悔しいからなのか。それは悲しいからなのか。私には全く解らなかった。
私は貴方を殺す為に生きる!
私は貴方を殺す為だけに生きる!
絶対に貴方を探し出して、私の目の前で殺してやる!
私はそれまで・・・。
それまでは、絶対にもう泣かない!!
やがて辿り着いた収容所の出口となる扉の前で、私は最後の涙を拭い去ると、監守から奪い取った鍵を用いて扉の鍵を開け放つ。
そして、ほぼ3ヶ月ぶりになろうかと言う久しぶりの外気を全身に浴びて、私は収容所の外へと躍り出た。
真冬の真っ只中であるこの時期の空気は、まさに身を切るような凍てつく寒さであり、ボロボロに擦り切れた薄手の囚人服程度で、簡単に凌ぎきれるものではなかったが、もはやこの収容所から逃げ去る以外に、生き延びる道が残されていない私にとって、そんな事に気を取られている余裕など全く無かった。
私はすぐさま収容所をぐるり取り囲んだ高い石垣付近の建物の影に身を隠すと、布製の袋の中から先の尖った鉄の棒を取り出す。
勿論、高さ15メートル程はあろうかと言うこの石垣には、よじ登るため取っ掛かりとなるようなものは、全て硬いコンクリートで埋め尽くされており、簡単に囚人達が逃げ出せないよう細工が施されてはいたが、逃走ルートを示した紙によれば、老朽化によって所々、綻びが見え始めた場所と言うのがここだった。
私は即座に、石と石を繋ぎとめるコンクリートの脆くなった部分を見定めると、短銃の硬いグリップを使い、細長い鉄の棒を互い違いに二列になるように打ち込んでいく。
そして、出来上がった取っ掛かりを足場としてよじ登り、更にその上段に新たな足場を形成する為の作業へと取り掛かるのだ。
それは一見、終わりの見えない地道な作業のようにも感じられたのだが、やはり逃走ルートとして指定された場所だけ有って、私が思うほど困難な作業ではなかった。
やがて私は、難なくその高い石垣を登り切る事に成功し、石垣の外側に隣接した建物の屋根を辿って地上へと舞い降りる。
するとこの時、ようやく収容所施設周辺に異常事態を知らせるけたたましいサイレンの音が鳴り響く事になるのだが、この時点でそれは、もはや余りに遅すぎる対応だったと言わざるを得ないだろう。
私は追っ手らしい追っ手に全く出会う事も無く、トンダルシア囚人収容所施設を脱出する事ができたのだ。
勿論、施設周辺には脱獄した囚人達の逃亡を阻止するべく、様々なトラップが張り巡らされてはいたが、私にとってみれば、所詮子供だまし程度のものに過ぎなかった。
それから私は、険しい山岳地帯を必死に逃げ回る事になるのだが、丸一日が経過した頃、ようやく山の麓に広がる大きな街「シャルム」へと降り立った。
流通中継都市として栄えていたその街は、夜も深け行く時間帯にありながらも、街中は活気に満ち溢れた人々でごった返し、逃亡者たる私が身を隠すには、まさに打って付けの場所とも言えた。
しかしこの時、私が身につけていた衣服はボロボロの囚人服であった上に、身体には拷問によって刻まれた痛々しい傷が多数残されており、無闇に人目に付く様な行動は差し控えねばならなかった。
私はとりあえず、近くの露店から食べる物と衣服を盗み出すと、近くに停車していた長距離用運送トラックの荷台に潜り込む。
長きに渡り酷く痛めつけられてきた私の身体は、丸一日に及ぶ逃走行為で完全に疲弊しきっており、私はまず、少しほとぼりが冷めるまでこの地域を離れる事を決意をしたのだ。