04-27:○流れ落ちる涙のバスルーム[3]
第四話:「涙の理由+」
section27「流れ落ちる涙のバスルーム」
(ジャネット)
「ふふ・・・。根暗な貴方のイメージ通り、ほんっと部屋の中も真っ暗なのね。」
開け放たれたドアの向こうから姿を現した私服姿の女性は、何を警戒する様子も見せずに薄暗い部屋の中へと押し進み、壁の脇で腕を組んだまま鋭い視線を突きつける大男に向かって、呆れたような言葉を投げつけた。
そして、時間の経過と共に彼女の背後で自動扉が閉じきると、パーソナルコンピューターのディスプレイが放つ微かな光だけを残して、完全に外界から隔離された、男女二人だけの空間が作り出された。
地上で降り続く雨の影響からか、室内は蒸し暑い湿気に包まれており、薄っすらと視界を遮る薄い靄が、異様に鼻の先に焦げ付くような臭いを漂わせている。
こんな夜分遅くの時間帯に、女性がたった一人で男性の部屋を訪れるなど、完全に危機管理意識が欠落していると言われても仕方ないだろうが、そんな事はお構い無しとばかりに、彼女は未だ暗闇に慣れない目をキョロキョロと移動させ、得体の知れない変人とも揶揄される大男の仮部屋の中を、どこか興味深げに見渡していた。
しかし、当然のことであるが、つい先ほど与えられたばかりの仮部屋の中に、彼女の興味を引くような物が備わっているはずも無く、必然と電源が入れられたままのパーソナルコンピューターへと、彼女の意識が釘付けられる事になる。
(ジャネット)
「何これ?PCで何かしてたの?・・・っと。ロックなんてかけちゃって。なんか怪しい事でもしてたんじゃない?うふふ。」
粗悪なテーブルの前までゆっくりと歩み寄った彼女は、キーボードの脇に備えついたインターフェイスボールを小突いて見せると、目の前にへと浮かび上がったセキュリティメッセージに軽い笑いを返しながら、部屋の主たるユァンラオの方へと視線を向けた。
壁際に寄りかかるようにして腕組みをする大男は、口元に銜えたタバコの煙を吐き散らすのみで、突如として部屋の中に乱入してきた女性に対し、一言も喋りかける様子はない。
ただ、不機嫌そうな表情を浮かべたまま、この無警戒な振る舞いを見せる彼女の姿に、鋭く冷たい視線を突き刺しているだけである。
この二人は、ネニファイン部隊研修時に同じチームだったという事以外には、何ら接点が有るわけでも無く、勿論、親しく語り合うような友人同士でも無ければ、互いに想い合う男女と言う訳でもない。
部隊内でも寡黙を通し、決して人を寄せ付けることのないこの男に、ジャネットの方から積極的に語りかける事など、本来ありえない光景なのだが、そんな男の部屋に、たった一人で身を投じて見せた彼女は、一体何を考えているのだろうか。
(ジャネット)
「あ、タバコ1本貰うね。」
(ユァンラオ)
「何の用だ。」
テーブルの上へと置かれた青い箱の中からタバコを一本抜き取り、しっとりとした柔らかな唇で挟み込んだジャネットに、ユァンラオは喉の奥から奏で出したような威嚇めいた低い声色を投げつけた。
そして、彼女の姿をじっと突き刺すように睨み付けた視線の上に、どこか背筋が凍りつくような悪寒を感じるほどの、激しい殺意の色を織り込んで見せた。
それは、彼の持つ真っ黒に塗り固められた自身の正体を、少しでも勘ぐられることを嫌ったためであり、この時のジャネットの不思議な行動に、非常に強い警戒心を抱いたからなのだろう。
しかし彼女は、なにやら少し考え込むような素振りを見せた後、ユァンラオにニッコリと微笑んで静かに答えるのだ。
(ジャネット)
「何?・・・用?・・・。う〜ん。そうねぇ・・・。昼間の反省会でもしようか?」
それは彼女にとって、少しでも彼の不信感を和らげるための、可愛らしい振る舞いのつもりだったのかも知れない。
しかし、柔らかい物腰で笑みを浮かべたジャネットに対し、薄暗い部屋の中へと伸びた悪魔の様な大きな影が、突然彼女の身へと襲い掛かった。
まさに瞬間的スピードで振り上げられた男の右腕は、彼女がそれと気付くよりも素早く、彼女の喉元へと食らいつくと、二枚重ねで着込んだ私服の襟元を根こそぎ掴み取る。
そして、衣服を引き千切らんばかりの豪腕で彼女の身を振り回し、思いっきり背中から硬い壁に叩きつけた。
(ジャネット)
「うっ!!ぁはっ・・・!!あぐ・・・。・・・・・・。」
肺から搾り出される様な喘ぎ声に咽び込んだジャネットは、その後も容赦なく首元を締め付ける太い腕を右手で掴み取ると、必死に身を捩って逃れようと試みる。
しかし、効果的に封じ込められた手足を思うように動かす事が出来ず、押し潰さんばかりに圧する大男の身体は、大木が大地に根を張ったかのように揺らぐ気配は無い。
そしてユァンラオは、苦しみ悶える彼女の表情を眺めながら、長身の彼女を軽々と吊り上げて見せると、猛烈に鋭い視線で睨みつけたまま、再び冷たい態度で問いかけた。
(ユァンラオ)
「ここに何しに来たと聞いてるんだ。」
(ジャネット)
「・・・あう・・・。うあぁっ・・・!!」
まさにこの時、ユァンラオの頭の中には、この女の息の根を止めてしまわんばかりの激しい殺意が湧き上がっていた。
鋭く光る瞳の奥に真っ黒にうねり狂った凍てつく炎を宿し、掴み取った上着を更に捻り上げて、彼女の白い首元に絡ませる。
そして、次第に紅潮し行く彼女の表情を気にかける様子も無く、非常なまでの暴力を持って彼女を縊り殺しにかかったのだ。
捕らえた獲物を飲み込む寸前に、最後の止めを刺すべくその巨大な身体を持って、巻き付いて締め上げる大蛇のように。
言うなればジャネットは、そこが蛇の巣穴とは知らずに迷い込んだ一匹の野兎だ。
強者たる捕食者に獲物として見定められ、ただ被食者たる悲しき運命を辿る儚い一つの命。
それと気付いた時には全ての終わりの始まり。
己の身へと襲い掛かる「死」と言う恐怖に対し、何ら抵抗する手段を持たず、ただ終焉の縁へと立たされた自分の姿を眺めて、恐怖と言う闇の最中へと食い尽くされる様を体感するのだ。
(ジャネット)
「・・・うぅぅぅっ・・・。わ・・・わたし・・・。」
甘く切ない危険な香りに誘われて、それが真っ黒に腐りきった果実だと知りながらも、心の空腹感に耐え切れずに手を出してしまったのが運の尽き。
儚くも消え去ろうとする命の灯火に最後の鞭を入れて、必死に言葉を発しようとするジャネットだが、もはや底を尽きかけた息が、彼女の思いをうまく音声化することを拒んだ。
そして、もがく彼女の力が次第に弱まり始めると、太い腕へと取り付いた彼女の右手がだらりと垂れ落ち、苦痛に歪んだままの彼女の目元から、スルスルと一線の涙が零れ落ちた。
一体、何を考えているのかと言われれば、全く、何も考えていなかったのかもしれない。
一体、何をしたかったのかと言われれば、全く、何もしたくなかったのかもしれない。
自分だけではどうする事も出来ない真っ黒な塊を一人抱えて、悶え苦しむ事に疲れ果てた精神が、まるで一人歩きしているかのようだ。
一体、私は何がしたいんだろう。
一体、私は何を求めているんだろう。
一体、私は・・・。
一体・・・。
・・・。
やがて、脳裏に渦巻く果てしない自問の螺旋階段の先に、黒く淀んだ靄に包まれた終端を見つけたジャネットは、ふと思考の足を止めて、脅えたように仰け反ってしまったのだが、微かにその靄の中に、懐かしい暖かさを感じ取ると、彼女の心は急に軽さを増していった。
マリオ・・・。
ジャネットは一つ、そう呟くと、宙を飛び回れそうな程の軽さを身に着けた心の珠を、不思議と吸い込まれるような靄の中へと投じる向きへと傾いた。
が、しかし、そんな彼女の思いとは裏腹に、彼女の周囲を取り巻く大きな闇の影が、無理やりに彼女の心を鷲掴みにすると、現実世界へと引き戻さんばかりの引力を行使して、彼女の思いを掻き回したのだ。
ユァンラオは突然、何を思ったのか、ジャネットの首を締め付けていた右腕の力を緩めると、左手で思いっきり彼女の頬を引っ叩く。
そして、事もあろうか意識定まらぬ彼女の身体を、強引にベットの上へと放り投げたのだ。
(ジャネット)
「うぁっ!!・・・。う・・・。ゴホッ・・・!!ゴホ!!
ようやく齎された解放感に浸る事も出来ずに、激しく咳き込んでしまったジャネットは、まるで空中を漂っているかのようにとち狂った三半規管のうねりに悶えながらも、ぼやけ見える虚ろな視線の上に大男の姿を見出して固定する。
浴びせかけられる彼の冷たい視線はそのままだったが、疎らに生える無精髭を擦りながら歪めて見せた口元が、どこか異様な不気味さを醸し出していた。
(ユァンラオ)
「貴様のような馬鹿な女を、ただ殺してもつまらんだけだ。性欲の捌け口ぐらいしか使い道の無いような低俗な豚に、そんな高尚な死に様をくれてやるほど、俺も慈悲な男じゃない。いっその事、嬲り殺されてでもみるか?どうせお前はそこにいないんだろう?」
口に銜えたままのタバコから吸い込んだ大量の煙を、低俗に蔑んだ言葉と共に吐き散らしながら、ユァンラオは嘲る様な視線で彼女の姿を見下ろした。
真っ暗闇に閉ざされた密室の中で男女が二人。
嫌気がするほどの薄気味悪い笑みを浮かべる男が発した言葉の真意は、勿論、ジャネットにも解る程度の露骨さを含めたものだ。
しかし、いまだ整いきらない荒い呼吸に、激しく身体を上下に揺さぶられていたジャネットは、何やら悔しげな表情で唇を真一文字に歪めては見せたが、その視線はじっとユァンラオを見据えたままだった。
そして、乱れた衣服を直す素振りも見せず、真っ白なシーツの上にゆっくりと視線を落とすと、一言も言い返す事無く項垂れてしまった。
彼女は単に、悲しさと虚しさと、怒りと憎悪とが織り成す、何も出来ない「自由な時間」から逃げ去りたかった。
自由になれる時間を作り出したくなかった。
少しでも。ほんの少しでも動き続ける事で、心へと圧し掛かる重たい影から身を振り解きたかったのだ。
一人では抜け出す事も出来なくなった闇の彼方で、必死に誰かの助けを請うて叫んでいたのだ。
彼女にとっては、それがどんな人物であっても、もはや関係の無いことだった。